五 灰色の足跡
廊下に出た。
埃の上に残る男の足跡を、逆にたどって歩く。わたしの軍靴が、その足跡の隣に、新しい足跡を刻んでいく。聞こえるのは、空調のうめきと、靴底が埃を踏むかすかな音だけだった。
壁には、色褪せた表示板が並んでいた。第四居住区画。洗浄室。食堂。この先、整備区画。どの文字にも見覚えがあるような気がして、どの文字にも見覚えがなかった。
廊下が突き当たりで右に折れる、その手前だった。
背後の、あの部屋のほうから、澄んだ電子音が一度だけ鳴った。
続いて、平板な合成音声が、廊下の遠くまで響き渡った。
『回収官の生体信号、途絶。自律回収手順に移行します』
死んだ男の手首で、何かが、主の死を報告したのだ。
声は、それきり止んだ。
代わりに、前方で音がした。
曲がり角の、さらにその向こう。重いものが、ゆっくりと身を起こす音。油圧の吐息。関節がひとつずつ伸びていく軋み。やがてそれは、足音になった。男の義足の音とは違う。もっと重く、もっと遅く、一歩ごとに床を沈ませるような足音。
距離、三十一。
数字が、頭の中に浮かんだ。考えたのではない。浮かんだのだ。
二十八。二十五。
身体は音もなく後退し、ひとつ手前の戸口――食堂、と表示のあった部屋へ滑りこんだ。
長机と長椅子が並ぶ、がらんとした部屋だった。机の上には、埃をかぶった金属の食器が、置き去りにされたまま並んでいる。誰かが食べかけのまま席を立ち、それきり戻らなかった食卓のように。
足音が、曲がり角を曲がった。
戸口の隙間から、橙色の非常灯の下に、それが姿を現すのが見えた。
背の高い、痩せた機械だった。二本の脚で立っているが、頭がない。頭の代わりに、胴の上から細い柱が一本突き出ていて、その先端で、ひとつきりの白い照明が、ゆっくりと左右を舐めている。腕は異様に長く、先端には、分厚い緩衝材に覆われた鉤爪状の把持具がついていた。
そしてその背中に、白い箱を背負っていた。
人がひとり、ちょうど横たわって収まるほどの大きさの、白い箱を。
『五二八六三』
機械の柱の根元から、あの男によく似た、丁寧な声がした。
『抵抗は推奨されません。あなたを、安全に搬送します』
搬送。
わたしは、あの箱に入れられて、運ばれるはずだったのだ。
恐怖が、遅れて胸を掴んだ。心臓が、胸骨の内側で暴れはじめる。背中を、冷たい汗が伝った。
けれど、身体は落ち着いていた。震えているわたしのことなど気にもとめず、戸口の脇の壁に背をつけ、呼吸を細く、長く整えている。
機械が、廊下の真ん中で立ち止まった。照明が、床を照らす。
埃の上の、足跡を。
しまった、とわたしは思った。男の足跡に並んで、ここまで続いている、わたしの新しい足跡。
白い光が、ゆっくりと、足跡をたどって食堂の戸口へ向いた。
距離、九。
身体は長机に跳び乗り、そこから壁の配管へ手を伸ばした。錆びた太い管を掴み、天井近くまで、猫のように身体を引き上げる。戸口の真上。天井と管とのあいだの、狭い闇の中へ。
機械が、戸口をくぐった。
白い照明が、食堂の中を舐めていく。長机。長椅子。埃をかぶった食器。照明は部屋の奥へ、奥へと向けられ、細い柱の根元が、わたしの真下を通り過ぎる――。
身体が、落ちた。
機械の背の白い箱と、柱とのあいだへ、両脚から。衝撃で機械がよろめく。わたしの両手はすでに、柱の根元を包む太いケーブルの束を掴んでいた。
機械の長い腕が、ありえない方向に折れ曲がった。肘の関節が逆向きに回り、背中に取りついたわたしを掴もうと、鉤爪が伸びてくる。一本はジャケットの肩を掠めた。もう一本が、わたしの左の足首を捕らえた。
世界が、回転した。
足首を掴まれたまま、わたしの身体は機械の背から引き剥がされ、壁に叩きつけられた。背中の下で、長机の脚が一本、折れる音がした。息が詰まる。視界の端が、白く弾ける。
把持具の先端で、青白い火花が散った。電撃だ。
もう一本の鉤爪が、わたしの首もとへ――。
身体は、掴まれた足首を支点にして、逆に機械の腕を引いた。自分の体重と、機械自身の力とを、そのまま一つの方向へ束ねる。つんのめった機械の懐へ潜りこみ、柱の根元の、さっき掴んだケーブルの束へ、もう一度指をかける。
俺は、引いた。
指が、金属の被覆を、紙のように裂いた。
束ねられた何十本もの線が、根こそぎちぎれる。火花が顔の前で咲き、焦げた匂いが鼻を刺した。機械の照明が激しく明滅し、長い腕が痙攣しながら宙を掻く。それでも機械は、崩れかけた姿勢のまま、わたしを押し潰そうと覆いかぶさってきた。
身体は、半歩だけ、横へずれた。
目標を失った機械の上体が、そのまま戸口の鉄の枠に激突する。細い柱が、枠の角に打ちつけられて、根元から、ぽきりと折れた。
首だ。
また、首だった。
機械は二、三度、脚を突っ張るように震わせ、それからゆっくりと横倒しになった。背中の白い箱が床に打ちつけられ、留め金が弾け飛ぶ。蓋が、半分開いた。
中は、からっぽだった。
内側には分厚い白い緩衝材が張られ、それが、人ひとりの形に、浅くくぼんでいた。頭の位置に、首の位置に、手首と足首の位置に、黒い拘束帯が垂れている。
わたしは、しばらくのあいだ、その人の形のくぼみを見下ろしていた。
身体の芯が、ひどく熱かった。熱は皮膚の内側で渦を巻き、それから、見えない水を流しこまれたように、急速に冷えていく。こめかみを汗が伝い、顎の先から落ちた。やはり、冷たい汗だった。
ふと、気づいた。
息が、ほとんど乱れていない。
あれだけ動いたのに。壁に叩きつけられ、息が詰まったはずなのに。胸は、眠っている人のように、静かに、規則正しく上下していた。
わたしは、よほど念入りに鍛え上げられた兵士なのだろうか。それとも、この身体には何かが埋めこまれていて、誰かが遠くから、この手足を――。
それに、さっき。
ケーブルを引きちぎったあの一瞬、わたしは頭の中で、自分のことを何と呼んでいただろう。




