四 扉に映るもの
開いたままのドアから、俺は、そっと外をうかがった。
薄暗く白い廊下が、まっすぐに伸びていた。天井の非常灯が等間隔に並び、橙色の光の輪を床に落としている。輪と輪のあいだは、闇だった。
床には、灰色の埃が積もっていた。
薄く、けれど均一に、降り積もった雪のように。その埃の上に、一列の足跡が、廊下の奥からこの部屋の前まで続いている。硬い踵の跡。義足の、定規で測ったような歩幅。こちらへ向かう足跡だけで、戻る跡はない。ほかの誰の足跡も、ない。
男は、一人で来たのだろう。
理由はわからない。わからないことばかりだった。けれど身体は、もう次の行動に移っていた。
身体は部屋の中へ戻ると、男の傍らに片膝をつき、その服を手早く探りはじめた。俺が止める間も、ためらう間もなかった。死んだ人間のポケットに手を入れることを、この手は少しも厭わなかった。
コートの内ポケットから、ペンほどの大きさの、銀色の器具が出てきた。先端に、小さな接点が二つ並んでいる。男の右手が最後に掴もうとしていたのは、これだ。
何に使うものなのか、俺にはわからなかった。
身体には、わかっていたらしい。指先がためらいもなくそれを握りつぶした。硝子の割れるような細い音がして、器具は、ただの金属片になった。
次に、床に落ちていた黒い端末を拾う。画面にはひびが入っていたが、光は消えていない。暗い画面の中央に、白い文字が浮かんでいた。
回収対象 五二八六三
その文字の下で、小さな印が、脈打つように点滅している。身体は端末を裏返し、角に親指をかけて、へし折った。樹脂の割れる乾いた音。露出した内部から爪の先ほどの部品を摘み出し、床に落として、踵で踏み潰す。
発信器だ、と身体は知っていた。
点滅が止まり、画面には文字だけが残った。
それから身体は、自分の装備を探した。
ベッドの足もとに、黒い軍靴が一足、揃えて置いてあった。枠の支柱のフックには、くすんだ緑色の軍用ジャケットが掛かっている。そのとき初めて、俺は、自分が袖のない灰色の肌着と、同じ色の薄いズボンしか身につけていないことに気づいた。
身体は迷わず靴を履き、紐を締めた。ジャケットに袖を通す。どちらも、寸法を測ったように合っていた。
ジャケットの襟には、ステンシルで数字が刷りこまれている。五二八六三。左の肩口には、見慣れない部隊章が縫いつけられていた。黒地に白く、ひとつの目を象った図案。まぶたを大きく開いた、ただひとつの目。
首もとに、細い鎖の感触があった。引き出してみると、小さな金属の認識票が揺れていた。刻まれているのは、やはり、あの五桁の数字だけだった。名前も、所属も、ほかには何ひとつない。
死んだ男の端末を、ジャケットの内ポケットに滑りこませる。
これで、行ける。
身体がそう判断したのが、わかった。
俺はドアから廊下に出る前に、ふと、足を止めた。
薄暗く、つるりとした平面のドアの一部に、ぼんやりと人影が映っていた。
自分の、容姿だった。
豊かな髪が、肩まであった。黒く、しなやかで、非常灯の光をかすかに撥ねている。想像していたよりもずっと華奢な肩幅。それに対して、ジャケットの胸もとは、はっきりと隆起している。細い首。小さな顎。形のいい、魅力的な唇。そして、長い睫毛に縁取られた、薄い灰色の瞳。
いや――これは、誰だ。
俺は……?
というか、俺は、自分がどういう容姿をしているのかという記憶さえ持っていなかった。そのことに、いまさらながら気がついた。
ドアの中の女が、俺と同時に唇を開く。俺と同時に、ゆっくりと手を持ち上げる。指先が、頬に触れた。
やわらかかった。そして、温かかった。
ドアの中の灰色の瞳が、じっと俺を見返している。怯えているようにも、何かを待っているようにも見えた。
俺は……。
わたしは……。
誰なんだ。
口の中で転がしたその言葉は、不思議なほど抵抗なく、胸の奥の空いた場所に、すとんと収まった。
わたし。
ついさっきまで自分を指していた「俺」という響きが、水が砂に吸われるように、足もとから抜けていく。どうして自分が自分を「俺」と呼んでいたのか。その呼び方が、どこから来たのか。それも、もうわからなかった。
ただ、ドアに映るこの顔には、「わたし」のほうが似合っている気がした。




