三 笑う男
ドアが、すっと、音もなくスライドした。
ひどく鼻筋のとおった、端正な顔立ちの男だった。灰色の長いコートを着て、薄い革の手袋をはめている。男は笑みを浮かべながら、まるでそこが自分の部屋であるかのように、当然の顔をして入ってきた。
緩慢な雰囲気には似つかわしくない素早さで、男は四つのベッドに視線を走らせた。向かいの下段、上段。俺の下の段。そして最後に、俺を見据えた。
男の輪郭が、ようやく意味をともなって俺の中に沁みこんでくる――それよりも早く、男は口を開いた。
「そうですか。あなたがね」
……。
意味が、わからなかった。
男はそう言ったきり、笑顔を崩さないまま、俺を隅々まで調べるような目つきで眺めはじめた。毛布からはみ出した足の指先。膝。手首。首筋。唇の端。睫毛の一本一本に至るまで。ひとつずつ、じっとりと、順番に。
人を見る目ではなかった。届いた荷物の箱を開け、輸送中に傷がつかなかったかを確かめる。そういう目だった。
男の心臓の音が、聞こえた。
落ち着いた、ゆったりとした拍動。一分間に、六十二。緊張も、恐れもない。この男にとって、ここは何ひとつ危険のない場所なのだ。――なぜ、そんなことまで聞こえるのか。
「降りてください」
男は言った。
俺は……わからない。
わからない、ということに、そのとき初めて気がついた。この男が誰なのか。ここがどこなのか。三人の戦友の顔も、昨日の夜のことも、それより前のことも。記憶の棚の引き出しをひとつずつ開けてみても、どの引き出しにも、白い埃が薄く積もっているだけだった。
俺は、誰なんだ。
「……降りられますか」
男の声に、かすかな苛立ちが混じった。笑顔は、そのままだった。
俺は思考を中断した。といっても、中断するほどの思考などはじめから何もなかったことに、いまさらながら気づいたのだが――ともかく俺は、機械的にベッドの枠へ手をかけ、ゆっくりと床に降り立った。
素足だった。
滑らかな床の冷たさが、足の裏全体にじわりと伝わってくる。その冷たさだけが、やけに鮮明だった。
正面から向き合うと、男は俺より頭ひとつ背が高かった。コートの裾から覗く足首が、非常灯の光を受けて鈍く光っている。銀色の、関節の継ぎ目。
義足だ。さっきの金属的な足音の正体は、これだったのだ。
男は満足げに小さく頷くと、左手に持っていた薄い黒い端末に目を落とし、親指で画面を二度叩いた。
それから、空いている右手を、ゆっくりとコートの内側へ差し入れた。
その動きを――身体が、知っていた。
俺ではない。身体が、だ。
「五二八六三、あなたには……」
それが、男の最期の言葉になった。
身体は、一歩で距離を殺していた。
男の首に腕を巻きつけ、顎と後頭部とに掌を当てる。どちらへ、どれだけの力を、どの順番でかけるのか、身体は一度も迷わなかった。
一瞬だった。まばたきをひとつするよりも、短い時間。
鈍い音がした。乾いた枝を、濡れた布でくるんで折ったような音だった。
男は、何を語る暇もなく絶命した。
腕を解くと、男の身体は、重さだけの物になって床に投げ出された。俺を見ていたときの表情のまま、唇に笑みの形を残したまま、明らかに人間には成しえない角度に首を曲げて、男は横たわっていた。
一分間に六十二だった心臓の音が、止まっていた。
俺は、自分の両手を見た。
震えていなかった。
それが、何よりも恐ろしかった。
俺は……俺は、誰なんだ。
一瞬にして、人をひとり殺した。その男が誰なのかも知らない。なぜ殺したのかもわからない。男は俺を、何かの数字で呼んだ。
五二八六三。
その数字の意味もわからないのに、呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが、かちりと噛み合う音がした。
名前ではない。けれど、それが俺を指すものなのだと、俺はどこかで知っていた。




