五 わたしの手
暗くなった四つの画面の前で、ユノは、床に膝をついたまま、動かなかった。
懐中電灯が、ユノの手から転がり落ちて、埃の上で、斜めに部屋を照らしていた。その光の中を、舞い上がった埃が、まだ、ゆっくりと降りていた。
わたしは、立っていた。
白い壁は、もう、どこにもなかった。
壁がなくなった場所に、何もなかったのではなかった。そこには、十か月前から、ずっと、あの夜が、置かれていたのだ。わたしは、それを思い出したのではなかった。ただ、ようやく、見ることを許されたのだった。
思い出そうとしなくても、それは、そこにあった。照明弾の光。雨。貨車の上の少年。胸もとの赤い灯。こっちを見ろ、という声。わたしの腕が持ち上がり、照準の中心に、その開いた口があった。銃声。雨の中へ落ちていく身体。砂利の上で、瞬きをしない目。赤い灯が、みっつ明滅して、消えるまで。
十か月のあいだ、壁の向こうにあったものが、今は、わたしの記憶の、いちばん手前にあった。昨日のことのように。
わたしの時間は、ずっと、あの夜の翌日で止まっていた。止まっていたのではなかった。止められていたのだ。壁の向こうに、あの夜を置いたまま。
ユノが、動いた。
床に手をつき、ゆっくりと、立ち上がった。わたしのほうを、見なかった。机の上の、あの男の拳銃のほうへ、一歩ずつ、歩いていった。
拳銃を、手に取った。
振り向いた。
銃口が、わたしの胸に、向けられた。
ユノの手は、震えていなかった。診療所で、わたしの肩から弾の欠片を取り出したときと、同じ手だった。仕事の手だった。
橋の下で、わたしに銃を向けたときとは、違った。あのとき、震えていたのは銃口だった。今のユノの手は、石のように、動かなかった。震えているのは、ユノの唇だけだった。
「……知ってたの」
ユノの声は、低く、平らだった。安置所で、第九の遺体の傷のことを話したときと、同じ声だった。平らでなければ、話せないというように。
「あの子の顔。安置所の氷の上に、写真が落ちたとき。書庫で、わたしが見せたとき。……あなたは、知ってたの」
橋の下で、第九にいたのかと問われたとき、わたしは、雨が降っていた、とだけ答えた。あれは、嘘ではなかった。けれど、本当のことの、ほんの端でしかなかった。
わたしは、嘘をつかなかった。
「顔を、知っていた気がしていた」
ユノの目が、わたしを見た。
「壁の向こうに、あの子がいるって、わかっていた。……だから、言わなかった。書庫でも。診療所でも。わたしは、ずっと、黙っていることを選んできた」
ユノの指が、引き金にかかった。
「言いなさいよ」
ユノの声が、ひび割れた。
「身体が、勝手に動いたって。命令だったって。……あなたは、見てただけだって。外部操縦なし、でも、あれは、あなたじゃない層がやったことだって。あの男が、そういうふうにしたんだって」
ユノは、わたしに、言い訳を差し出していた。
それは、ユノ自身が、いちばん信じたい言い訳なのかもしれなかった。弟の最後の姿を見届けたあとで、目の前に立っているのが、弟を殺した者ではなく、弟を殺した仕組みの、ただの部品であってほしい、と。
ヴァルが、机の上で、名前を差し出したように。
それは、嘘ではなかった。わたしは、止められなかった。わたしの中の、命令を実行する層が、標的を選び、照準を合わせ、引き金を絞った。わたしは、その奥で、やめろと叫んでいた。拒絶反応、計測上限。画面の下に、そう、書いてあった。
それを言えば、ユノは、少しは、救われるのかもしれなかった。
弟を殺したのは、誰でもない、命令と、それを実行する仕組みだった、と。
白い聴聞室で、ヴァルは言った。命令されたから殺したと言うのなら、あなたは人間ではない、と。人間だと言い張るのなら、すべてあなたの選択だったことになる、と。
どちらも、違った。
あの夜、殺すことを、わたしは選ばなかった。けれど、選ばなかったからといって、あの一発が、わたしから離れていくわけではなかった。
けれど、わたしは、見ていたのだ。
あの少年は、わたしを、見ていた。わたしの目の、さらに奥を。命令を実行する層ではなく、その奥にいた、わたしを。こっちを見ろ、と。
わたしは、見た。
見ていたのに、何もできなかった。
そして、あの引き金を絞った指は、わたしの指の形をしていた。あの照準を覗いた目は、わたしの目だった。今、ユノの銃口が向けられている、この胸の奥で、あの夜、あの一発を撃った身体は、わたしの身体だった。
「止められなかった」
わたしは、言った。
声は、震えなかった。
「でも、撃ったのは、わたしの手だった」
ユノの肩が、一度だけ、大きく揺れた。
ユノは、何も言わなかった。言い訳を差し出していた手を、ユノは、ゆっくりと引っこめたように見えた。




