二 四人の声
部屋の隅に、蓄電池の箱が、いくつも積まれていた。
ユノが、その一つを、操作盤に繋いだ。十か月眠っていた機械に、電気が流れこむ。低い唸りとともに、操作盤の小さな灯が、ひとつ、またひとつと、ともりはじめた。
四つの黒い画面のうち、いちばん右の一つだけが、ぼんやりと、明るくなった。
五二八六三の画面だった。
画面の中央に、文字が浮かんだ。
『観測記録保全庫
所在 五二八六三 記憶深層
状態 封印中 外部から損傷の痕跡あり』
「……外部から、損傷」
ユノが、つぶやいた。
「あいつらが、焼き切ろうとした痕」
文字の下で、細かな図形が、ゆっくりと明滅していた。わたしの記憶の奥の、白い壁の形だった。その表面に、細い亀裂が、蜘蛛の巣のように走っている。
「どうやって、あなたの中と繋がってるの」
「わからない」
わたしは、画面を見上げた。
「でも、わかる。……ここにいると、壁が、近い」
それは、本当だった。尾根の上のこの部屋に入ってから、わたしの記憶の奥の、あの白く冷たい壁が、ずっと、すぐ背後に立っているような気がしていた。四つの皿のような器が、わたしの頭の奥を、じっと覗きこんでいるように。
ユノの指が、操作盤に触れた。
画面が、切り替わった。
『封印解除
解除には、鍵を提示せよ』
その下に、もう一行。
『鍵 四人の声』
ユノの指が、止まった。
わたしも、動けなかった。
四人の声。
ユノが、ゆっくりと、鞄に手を入れた。
布にくるまれた、黒い小さな箱。角が欠け、押収物の白い札が、まだ紐で結ばれたままの、ロクイチの録音機。
「……あの人は」
ユノの声が、かすれた。
「これのことを、知ってたの?」
知っていたのだ、とわたしは思った。
あの男は、わたしたちの目を通して、すべてを見ていた。雨の駅だけではない。消灯のあとの、あの狭い部屋も。ロクイチが、壊れた通信車から拾ってきた黒い箱を、胸のポケットから取り出す夜も。ロクマルが、豆の缶に歌詞をつけ、ロクニが声を殺して笑い、わたしが、俺は歌わない、と言った夜も。
誰にも記録されないから、自分で録っておく、とロクイチは言った。
けれど、見ている者がいたのだ。
そして、あの男は、わたしたちが自分で残したその声を、あの夜の本当の記録を開けるための、鍵にした。わたしたち四人にしか作れない、ただ一つの鍵に。
それが、あの男の、せめてもの償いだったのか。それとも、最後の観察だったのか。わたしには、わからなかった。
操作盤の脇に、小さな送話口があった。
ユノは、黒い箱を、そこに近づけた。
そして、わたしを見た。
開けるか、と。
壁の向こうに、何があるのかを、わたしは知らなかった。
知らなかった、というのは、嘘だった。
照明弾の白い光。雨。貨車の上の少年。胸もとで明滅する、小さな赤い灯。大きく開けた口。わたしの腕が持ち上がり、照準の中心に、その口があった。
その先を、わたしは、ずっと、見ずにきた。
こめかみから、汗が、ひとすじ流れ落ちた。冷たい汗だった。指先が、細かく震えていた。
「ユノ」
「なに」
「壁の向こうに、何があっても。……あなたは、見なくてもいい」
ユノは、首を横に振った。
「言ったでしょう。見届けるって」
「……開けて」
わたしは、言った。
ユノが、いちばん左の釦を、押した。
『……録ってる?』
ロクイチの声が、送話口へ、流れこんでいった。
『録ってる、録ってる。ほら、歌えよ』
旋律が、始まった。
『きょうの、めしは、まめの、かん』
くすくすと、小さな笑い声。
『……やめろ。録るな』
『消さないよ。これは、記録だから』
画面の中の、白い壁の図形が、揺らいだ。
『ロクサンも歌えよ』
『俺は、歌わない』
亀裂が、広がっていく。
『じゃあ、名前が決まったら歌え』
壁の図形が、音もなく、崩れた。
わたしの頭の奥で、何かが、ほどけた。
鍵が、回るように。長いあいだ閉じていた扉の閂が、ひとつずつ、外れていくように。冷たい指が、頭の芯から、そっと離れていった。
壁のあった場所から、何かが、ゆっくりと、こちらへ流れこんできた。雨の匂い。硝子の破片が、靴の底で砕ける感触。そして、耳の奥の、ずっと遠くで、誰かが、大きく息を吸いこむ音。
四つの黒い画面が、一斉に、明るくなった。
『封印を解除しました
第九避難所作戦 完全記録
記録者 第七研究室 主任技師
視界記録 四 上空記録 一 交信記録 一
指揮官認証 原本』
「指揮官認証、原本……」
ユノが、画面の最後の行を、かすれた声で読んだ。
「塔の地下では、最上位封印だった欄」
録音機の中で、旋律が、同じところを回りつづけていた。
ユノは、釦を押して、それを止めた。
部屋が、静まり返った。
四つの画面の中で、雨が、降りはじめていた。




