一 北丘観測所
回収官の端末の中に、その場所の名前はあった。
復興局が作った、旧軍施設の封鎖一覧。何百という施設の名前が、番号順に、ただ並んでいるだけの表だった。ユノは、橋の下の暗がりで、その表を、指で一行ずつ流していった。兵舎で。塔の地下で。診療所で。何度も見てきた、あの速さで。
指が、止まった。
『第七研究室 北丘観測所
封鎖済 解体予定 式典後』
「第七研究室」
ユノが、声に出して読んだ。
「主任技師の記録の、見出しと同じ」
わたしは、その下の小さな文字を見ていた。
北丘。
兵舎のあった丘の、さらに北の、尾根の上だった。
昼のあいだ、わたしたちは、河原の廃船の中に身を隠した。ユノは、船底の暗がりで、膝を抱えて、少しだけ眠った。わたしは眠らなかった。眠くならなかった。白い壁に入ったひびのことを、ずっと考えていた。
目を閉じると、ひびの向こうに、赤い灯が見えた。雨に打たれて、ひとつ、またひとつと明滅する、小さな灯。その灯の上で、何かが、大きく口を開けている。それ以上は、見えなかった。見ようとすると、ひびの縁が、刃物のように、わたしの目の奥を切った。
船底の暗がりで、ユノが、眠ったまま、何かをつぶやいた。イオ、と聞こえた。わたしは、目を開けた。
日が傾いてから、北へ歩いた。
街はずれの壁に、新しい手配書が貼られていた。
わたしの顔だった。けれど、その下の文字が、変わっていた。
『第九避難所事件 実行犯
旧軍義体兵 ミラ・ハルト
停戦記念式典当日 公開聴聞を行う』
ユノは、その紙の前で、足を止めなかった。ただ、通り過ぎざまに手を伸ばして、紙の端を、力いっぱい引き裂いた。
街はずれを抜け、兵舎の丘を、東から大きく回りこむ。尾根の向こうの斜面は、背の高い夏草に覆われていた。草の中に、錆びた鉄条網の杭が、骨のように点々と残っている。道はなかった。わたしが草を分け、ユノが、そのあとに続いた。
兵舎の丘を回りこむとき、斜面の上に、黒い焼け跡が見えた。低いコンクリートの壁だけが、焦げた歯のように、夏草の中に残っている。四つのベッドも、伏せたカップも、板の裏の文字も、あの黒い灰の下にあった。ユノは、その焼け跡を、一度だけ振り返った。
尾根の上に、それはあった。
コンクリートの、低い箱だった。
半分以上が土に埋もれ、屋根の上には草が生い茂っている。その草の中から、錆びた鉄の柱が、何本も空へ突き出していた。先端に、皿のような金属の器がついている。どの器も、同じ方角を向いていた。
南西。
兵舎の丘と、その向こうの街と、さらにその向こうの、あの白い塔のほうを。
「……ここから、見てたんだ」
ユノが、つぶやいた。
ここから、あの男は、見ていたのだ。わたしたちの目を、通して。
診療所の古い拡声器から聞こえた、疲れた声。あの子たちの目を通して、と言った声。その声の持ち主が座っていた場所が、この尾根の上の、土に埋もれた箱の中にあった。
入口の鉄の扉には、復興局の封印の札が、何枚も重ねて貼られていた。わたしは、札ごと、扉の把手を掴んで、引いた。錆びた蝶番が悲鳴を上げ、扉が、内側へ傾いた。
冷たく、乾いた空気が、流れ出してきた。
ユノの懐中電灯が、闇を照らした。
短い階段の下に、細長い部屋があった。
床にも、机にも、灰色の埃が積もっていた。兵舎と同じ埃だった。十か月分の。
部屋の奥の壁いっぱいに、黒い硝子の画面が、四つ、並んでいた。どれも、光を失っている。画面の下に、それぞれ、小さな金属の札が留められていた。
五二八六〇。五二八六一。五二八六二。五二八六三。
四つの画面の前に、椅子が一脚だけ、置かれていた。
背もたれに、灰色の外套が、掛けられたままになっていた。
ユノが、ゆっくりと、椅子に歩み寄った。懐中電灯の光が、椅子の前の机を照らす。操作盤。紙の束。ひびの入った眼鏡。そして、横倒しになった、硝子の杯。杯の脇に、机の上を細く流れて、そのまま干からびた、茶色い染みがあった。
硝子が倒れる音を、わたしは、聞いたことがあった。
診療所の、古い端末の拡声器から。雑音の底で。
あの夜、あの男は、ここに座っていたのだ。
「……いない」
ユノが、部屋の奥の暗がりまで、光を巡らせた。狭い寝台。空の食器。壁の、手書きの紙。人の姿は、どこにもなかった。
壁の紙の上で、懐中電灯の光が、しばらく留まった。
四つの人の形が、鉛筆で、簡単に描かれていた。その横に、細かな書きこみ。消灯後、旋律。紙の鳥、十二羽。海の話。止まった時計を、腕に巻きつづける。……名前について、話し合う。
ユノが、その最後の一行を、指でなぞった。わたしは、息ができなかった。あの夜のことを、この紙は、知っていた。
「どこへ行ったのか、書いてあるものは」
ユノは、机の上の紙の束を、めくった。
細かな字で、びっしりと、数字と記号が書きこまれていた。わたしには、読めなかった。ユノにも、読めないようだった。けれど、最後の一枚だけは、違った。
大きな、震える字で、たった一行だけ、書かれていた。
『私は、見届けた』
それ以外には、何もなかった。
ユノは、その紙を、長いこと見つめていた。それから、そっと、元の場所に戻した。
机の、いちばん下の引き出しが、半分、開いていた。
身体が、それに気づいた。
引き出しの奥に、油紙に包まれた、重いものがあった。わたしは、それを取り出して、机の上で包みを開いた。
古い、軍用の拳銃だった。
弾倉を抜くと、弾が、一発だけ入っていた。
ユノが、息を呑んだ。
わたしたちは、しばらく、黙って、その一発の弾を見ていた。あの男は、何のために、一発だけを残したのだろう。使うつもりだったのか。使えなかったのか。
わたしは、弾倉を、拳銃に戻した。
そして、それを、ユノの前に、置いた。
「……持っていて」
ユノは、わたしを見た。
「これから見るものが、何であっても」
ユノは、長い沈黙のあとで、拳銃を手に取った。




