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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第五章 差し出された名前

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七 返した名前

 白い廊下に、警報が鳴り響いていた。


 身体は、廊下の突き当たりの窓を、肘で割った。三階だった。窓の下に、塔へ物資を運びこむ幌つきの荷車が、何台も並んでいる。身体は、ユノを抱え上げ、窓枠を蹴った。


 幌の布が、わたしたちの重さを受け止めて、大きくたわんだ。


 荷車の上から、暗い道へ転がり落ちる。夜だった。捕らえられてから、まる一日が過ぎていたのだ。塔の頂で、光の環が、赤く回っていた。


 建物じゅうの拡声器から、声が降ってきた。


『逃げても、同じことです』


 ヴァルの声だった。落ち着きを、すっかり取り戻した声。


『あなたの記憶の奥にあるものは、式典の日に、塔の記録と一緒に、消えることになる。……そのときに、また、お会いしましょう』


 短い、間があった。


『ミラ・ハルト』


 わたしの腕の中で、ユノが、歯を食いしばった。


「……その名前で、呼ぶな」


 ユノは、声に出して、そう言った。拡声器の向こうに、届くはずもないのに。


 身体は、ユノを抱えたまま、川へ向かって走った。


 護岸の階段を駆け下り、橋の下の闇へ。背後で、番犬の足音と、人間の靴音が、いくつも重なり合い、やがて、川の向こう岸へと、見当違いの方角へ遠ざかっていった。


 橋脚の陰で、世界が、わたしの中に戻ってきた。


 わたしは、石の上に、膝をついた。


 手首の皮膚が、裂けていた。とろりとしたものが、指を伝って、落ちた。頭の、冠の針が刺さっていたところが、いちめん、細かく疼いていた。


 ユノは、橋脚に背を預けて、しばらく、肩で息をしていた。


 それから、震える手で、鞄の口を開けた。


 ひとつずつ、取り出して、確かめていく。回収官の端末。読み出し器。わたしの証言の紙。紙の鳥。海の写真と、止まった時計。どれにも、押収物の白い札が、まだ、結ばれたままだった。


 最後に、黒い箱を、取り出した。


 箱の角が、欠けていた。ユノが、床の上で抱えこんだときに、ぶつけたのだろう。ユノは、祈るような手つきで、いちばん左の釦を、ほんの一瞬だけ、押した。


 小さな拡声器から、旋律の、最初の二音だけが、こぼれた。


 ユノは、すぐに釦を離した。そして、箱を、胸に抱きしめた。


「……記録だから」


 ユノは、目を閉じて、つぶやいた。


「記録だから、残ってた」


 わたしは、ユノの隣に、腰を下ろした。


 ふたりとも、しばらく、何も言わなかった。川の音と、遠いサイレンの音だけが、橋の下を満たしていた。


「書庫のものは、全部、持っていかれた」


 やがて、ユノが言った。


「名簿も。証言も。九か月分、全部」


 ユノは、目を開けて、暗い川面を見ていた。


「でも、わたしの頭の中には、残ってる。……三百人。名前も、年も、どこで見つかったのかも。全部、覚えてる。あいつらには、それは、消せない」


 わたしは、自分の頭の中を、探った。


 ロクマルの海の写真の、青。ロクイチの旋律。ロクニの、声を殺した笑い声。ベッドの裏の、四つの手の文字。


 残っていた。


 けれど、ひとつだけ、戻ってこないものがあった。


「……カップの水の、味が」


 わたしは、言った。


「思い出せない。鉄の味がした、ということは、覚えてる。でも、それが、どんな味だったのか」


 ユノは、わたしを見た。


 何も言わなかった。けれど、しばらくして、ユノは、鞄の中から、兵舎で拾ったわたしのカップを取り出して、わたしの手に、握らせた。煤で汚れた外側と、きれいな内側。


 わたしは、それを、両手で包んだ。


「白い壁に、ひびが入った」


 わたしは、言った。


「焼き切られかけたとき。……ひびの向こうに、雨が見えた。照明弾の光と、雨と、小さな、赤い灯」


 ユノの顔が、こわばった。


「消去できない領域がある、って、あの男たちは言ってた。軍のものじゃない暗号で、封印されてるって」


 ユノは、ゆっくりと、言葉を探すように言った。


「主任技師が、本当の記録を、誰にも消せない場所に残すって言ってた。……それが、あなたの中だったんだ」


 わたしは、自分の胸に、手を当てた。


 わたしの記憶の、いちばん奥。白く冷たい壁の向こう。わたしが、ずっと、思い出すことを拒まれてきた場所。


 そこに、あの夜の、本当の十三分がある。


 貨車の上の少年が、口を開けて、何かを叫んだ、その続きが。


「開けるなら」


 ユノが言った。


「あいつらより、先に」


「……壁の向こうに、何があっても?」


 ユノは、黒い箱を抱いたまま、わたしを見た。


「見届ける。……わたしも」


 式典まで、あと十日。


 橋の上を、始発の路面電車が、空の車両を揺らしながら、ゆっくりと渡っていった。線路の継ぎ目を踏むたびに、橋脚が、かすかに震えた。街は、何も知らずに、また、新しい一日を始めようとしていた。


 わたしは、目を閉じた。


 目の奥に、まだ、川べりで笑う女の子の写真が、焼きついていた。麦わら帽子を膝に抱え、眩しそうに目を細めている、ミラ・ハルト。時計店の二階で生まれた、弟の面倒をよく見る子。


 その子が、本当にいたのかどうか、わたしには、わからなかった。


 いたのなら、どこかで、誰かが、その子のことを覚えているのだろう。いなかったのなら、あの子は、わたしに差し出されるためだけに、書類の上で生まれたのだろう。


 どちらにしても、あの名前は、わたしのものではなかった。


 わたしは、心の中で、その子に、名前を返した。


 ミラ・ハルト。これは、あなたの名前だ。


 わたしには、まだ、名前がない。


 けれど、それを決めるのは、机の上で名前を差し出した誰かではない。記録でもない。


 名前が決まったら、歌え、とロクマルは言った。


 わたしは、まだ、歌えない。

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