七 返した名前
白い廊下に、警報が鳴り響いていた。
身体は、廊下の突き当たりの窓を、肘で割った。三階だった。窓の下に、塔へ物資を運びこむ幌つきの荷車が、何台も並んでいる。身体は、ユノを抱え上げ、窓枠を蹴った。
幌の布が、わたしたちの重さを受け止めて、大きくたわんだ。
荷車の上から、暗い道へ転がり落ちる。夜だった。捕らえられてから、まる一日が過ぎていたのだ。塔の頂で、光の環が、赤く回っていた。
建物じゅうの拡声器から、声が降ってきた。
『逃げても、同じことです』
ヴァルの声だった。落ち着きを、すっかり取り戻した声。
『あなたの記憶の奥にあるものは、式典の日に、塔の記録と一緒に、消えることになる。……そのときに、また、お会いしましょう』
短い、間があった。
『ミラ・ハルト』
わたしの腕の中で、ユノが、歯を食いしばった。
「……その名前で、呼ぶな」
ユノは、声に出して、そう言った。拡声器の向こうに、届くはずもないのに。
身体は、ユノを抱えたまま、川へ向かって走った。
護岸の階段を駆け下り、橋の下の闇へ。背後で、番犬の足音と、人間の靴音が、いくつも重なり合い、やがて、川の向こう岸へと、見当違いの方角へ遠ざかっていった。
橋脚の陰で、世界が、わたしの中に戻ってきた。
わたしは、石の上に、膝をついた。
手首の皮膚が、裂けていた。とろりとしたものが、指を伝って、落ちた。頭の、冠の針が刺さっていたところが、いちめん、細かく疼いていた。
ユノは、橋脚に背を預けて、しばらく、肩で息をしていた。
それから、震える手で、鞄の口を開けた。
ひとつずつ、取り出して、確かめていく。回収官の端末。読み出し器。わたしの証言の紙。紙の鳥。海の写真と、止まった時計。どれにも、押収物の白い札が、まだ、結ばれたままだった。
最後に、黒い箱を、取り出した。
箱の角が、欠けていた。ユノが、床の上で抱えこんだときに、ぶつけたのだろう。ユノは、祈るような手つきで、いちばん左の釦を、ほんの一瞬だけ、押した。
小さな拡声器から、旋律の、最初の二音だけが、こぼれた。
ユノは、すぐに釦を離した。そして、箱を、胸に抱きしめた。
「……記録だから」
ユノは、目を閉じて、つぶやいた。
「記録だから、残ってた」
わたしは、ユノの隣に、腰を下ろした。
ふたりとも、しばらく、何も言わなかった。川の音と、遠いサイレンの音だけが、橋の下を満たしていた。
「書庫のものは、全部、持っていかれた」
やがて、ユノが言った。
「名簿も。証言も。九か月分、全部」
ユノは、目を開けて、暗い川面を見ていた。
「でも、わたしの頭の中には、残ってる。……三百人。名前も、年も、どこで見つかったのかも。全部、覚えてる。あいつらには、それは、消せない」
わたしは、自分の頭の中を、探った。
ロクマルの海の写真の、青。ロクイチの旋律。ロクニの、声を殺した笑い声。ベッドの裏の、四つの手の文字。
残っていた。
けれど、ひとつだけ、戻ってこないものがあった。
「……カップの水の、味が」
わたしは、言った。
「思い出せない。鉄の味がした、ということは、覚えてる。でも、それが、どんな味だったのか」
ユノは、わたしを見た。
何も言わなかった。けれど、しばらくして、ユノは、鞄の中から、兵舎で拾ったわたしのカップを取り出して、わたしの手に、握らせた。煤で汚れた外側と、きれいな内側。
わたしは、それを、両手で包んだ。
「白い壁に、ひびが入った」
わたしは、言った。
「焼き切られかけたとき。……ひびの向こうに、雨が見えた。照明弾の光と、雨と、小さな、赤い灯」
ユノの顔が、こわばった。
「消去できない領域がある、って、あの男たちは言ってた。軍のものじゃない暗号で、封印されてるって」
ユノは、ゆっくりと、言葉を探すように言った。
「主任技師が、本当の記録を、誰にも消せない場所に残すって言ってた。……それが、あなたの中だったんだ」
わたしは、自分の胸に、手を当てた。
わたしの記憶の、いちばん奥。白く冷たい壁の向こう。わたしが、ずっと、思い出すことを拒まれてきた場所。
そこに、あの夜の、本当の十三分がある。
貨車の上の少年が、口を開けて、何かを叫んだ、その続きが。
「開けるなら」
ユノが言った。
「あいつらより、先に」
「……壁の向こうに、何があっても?」
ユノは、黒い箱を抱いたまま、わたしを見た。
「見届ける。……わたしも」
式典まで、あと十日。
橋の上を、始発の路面電車が、空の車両を揺らしながら、ゆっくりと渡っていった。線路の継ぎ目を踏むたびに、橋脚が、かすかに震えた。街は、何も知らずに、また、新しい一日を始めようとしていた。
わたしは、目を閉じた。
目の奥に、まだ、川べりで笑う女の子の写真が、焼きついていた。麦わら帽子を膝に抱え、眩しそうに目を細めている、ミラ・ハルト。時計店の二階で生まれた、弟の面倒をよく見る子。
その子が、本当にいたのかどうか、わたしには、わからなかった。
いたのなら、どこかで、誰かが、その子のことを覚えているのだろう。いなかったのなら、あの子は、わたしに差し出されるためだけに、書類の上で生まれたのだろう。
どちらにしても、あの名前は、わたしのものではなかった。
わたしは、心の中で、その子に、名前を返した。
ミラ・ハルト。これは、あなたの名前だ。
わたしには、まだ、名前がない。
けれど、それを決めるのは、机の上で名前を差し出した誰かではない。記録でもない。
名前が決まったら、歌え、とロクマルは言った。
わたしは、まだ、歌えない。




