六 一秒
ユノは、椅子に押さえつけられていた。
黒い面の男の手が、ユノの肩を掴んでいた。けれど、男の顔は、ユノを見ていなかった。柱の画面を、見ていた。そこに走る亀裂の図形を、焼き切られていく白い壁を、見ていた。部屋じゅうの目が、わたしの頭の冠に、吸い寄せられていた。
ユノの手錠の鎖が、押収物の机の縁に、そっと触れた。
ユノの指が、机の上を這った。回収官の端末。紙の鳥。海の写真に包まれた時計。そして、布にくるまれた、黒い小さな箱。
ユノは、それを、手錠に繋がれた両手で、掴んだ。
布が、床に落ちた。
男が、ようやく、ユノを振り返った。
その一瞬前に、ユノは、椅子ごと、前へ倒れこんでいた。
わたしの椅子の脇の、柱の足もとへ。冠から垂れ下がった線の先の、小さな送話口へ。白衣の男が、静止、と囁きこんだ、あの送話口へ。
ユノは、黒い箱を、送話口に押しつけた。
手錠の鎖が、柱の脚に絡んで、ユノの手首に食いこんだ。ユノは、それにも構わなかった。
そして、手錠の鎖を鳴らしながら、いちばん左の釦を、押した。
『……録ってる?』
声が、頭の内側で、鳴った。
冠の針を伝って、何百本もの細い道を通って、わたしの頭の、いちばん奥へ。
『録ってる、録ってる。ほら、歌えよ』
ロクマルの声だった。
旋律が、始まった。
歌詞のない、短い、同じところをぐるぐると回る旋律。ロクイチが、唇を閉じたまま、喉の奥で鳴らしている、低い、温かい音。
剥がれて、どこかへ行きかけていたものが、いっせいに、振り向いた。
鉄の味がした。兵舎のカップの水の、少しだけ鉄の味。海の青が、戻ってきた。水平線が、まっすぐに空を分けた。
『きょうの、めしは、まめの、かん』
くすくすと、小さな笑い声。
ロクニが、笑っていた。毛布の中で、声を殺して。首の曲がったわたしの紙の鳥を見て、ほんの少しだけ笑った、あのときと、同じ笑い方で。
「止めろ!」
黒い面の男が、ユノの手から、箱をもぎ取ろうとした。ユノは、床の上で身体を丸め、箱を送話口に押しつけたまま、離さなかった。
『……やめろ。録るな』
わたしの声がした。
『消さないよ。これは、記録だから』
白衣の男が、画面に向かって、何かを叫んでいた。
唸りと、旋律と、叫び声と、わたしの頭の内側で、すべての音が、ぶつかり合っていた。消せ、という流れと、振り向け、という流れが、細い針の一本一本の中で、正面から、ぶつかり合った。
『ロクサンも歌えよ』
『俺は、歌わない』
『じゃあ、名前が決まったら――』
そのとき。
時間が、止まった。
身体の時間も、わたしの時間も、同時に。
身体の、一秒を百に刻む細かな時間が、止まった。わたしの、ゆっくりと重い時間も、止まった。硝子のこちら側も、向こう側も、なくなった。命令も、判断も、見ているわたしも、どこにもなかった。
白く、静かな、空白だった。
その空白の中に、ロクマルの声だけが、残っていた。
名前が、決まったら。
一秒。
それが、一秒だったのだと、あとになってから、わかった。
時間が、戻ってきた。
そして、戻ってきた身体は、静止、という命令を、握っていなかった。
一秒のあいだに、命令は、身体の手の中から、滑り落ちていたのだ。身体は、それを拾い直すまでの、ほんのわずかな遅れの中で、動いた。
手首の金属の環が、軋んだ。
身体は、手首の皮膚が裂けるのもかまわずに、腕を引いた。環の蝶番が、弾け飛んだ。右腕が自由になり、その手が、頭の冠を掴んで、引き剥がした。何百本もの針が、頭皮を擦りながら抜けていく。冠が、柱ごと、床に叩きつけられた。画面が、火花を散らして砕けた。
「静止!」
白衣の男が、送話口に向かって叫んだ。
けれど、送話口には、ユノの押しつけた黒い箱があった。ロクイチの旋律が、男の声を、上から塗りつぶしていた。
身体は、左の手首の環を引きちぎり、胸の環を、足首の環を、次々に外していった。立ち上がる。
黒い面の男が、ユノから手を離し、腰の拳銃を抜いた。
身体は、倒れた柱を片手で持ち上げ、男へ投げた。鉄の柱が、男の胸を打ち、男ごと、白い壁に叩きつけた。男は、壁に沿って、ずるずると崩れ落ちた。
白衣の男たちが、扉へ走った。
身体は、それを追わなかった。
身体は、床に屈みこみ、ユノの手錠の鎖を、両手で掴んで、引きちぎった。
ユノは、床の上で、黒い箱を胸に抱えたまま、わたしを見上げた。
わたしも、ユノを見ていた。
「……鞄」
ユノが、かすれた声で言った。
ユノは、押収物の机に這い寄り、机の上のものを、札ごと、鞄の中へ掻き入れた。回収官の端末。読み出し器。わたしの証言の紙。紙の鳥。海の写真と時計。そして、胸に抱えていた、黒い箱。
白い部屋の中で、ひとりだけ、動いていない男がいた。
ヴァルだった。
ヴァルは、机の脇に、立ったままだった。逃げようとも、身を守ろうともしていなかった。瞬きをしない目で、わたしを見ていた。
身体が、ヴァルのほうへ、一歩、踏み出した。
身体の目が、ヴァルの首を見ていた。高い襟の、そのすぐ上。首の骨の位置。距離。二歩。腕を伸ばして、ひねるまでの、細かく刻まれた時間。
わたしは、ヴァルの目を、見ていた。
同じ目で。
灰色の、瞬きをしない、静かな目。その奥に、恐れはなかった。ただ、何かを、ひどく熱心に、確かめようとしている光があった。
身体は、二歩目を、踏み出さなかった。
武器を持たない男。脅威ではない。身体が、そう量ったのだろう。身体は、ヴァルに背を向け、ユノの腕を掴んで、扉へ向かった。
「……今の、一秒は」
背後で、ヴァルが言った。
声は、はじめて、ほんの少しだけ、揺れていた。
「何だったのですか」
わたしは、振り返らなかった。
答えを、わたしも、持っていなかった。ただ、ひとつだけ、知っていた。あの一秒のあいだ、わたしの中には、命令も、判断も、なかった。あったのは、ロクマルの声だけだった。




