五 整える
「残念です」
ヴァルは、本当に残念そうに言った。
それから、部屋の隅の黒い面の男に、目を向けた。
「処置の準備を」
白い扉が開き、白衣の男が二人、背の高い機械を押して入ってきた。
車輪のついた、細い鉄の柱。柱の上に、小さな画面がいくつも並び、そこから何十本もの線が垂れ下がっている。そして、柱のいちばん上から、腕のような金具に吊られて、それが、ゆっくりと降りてきた。
冠だった。
細い金属の輪の内側に、髪の毛ほどの細い針が、何百本も、内へ向けて植えこまれている。
「記憶整序装置です」
ヴァルが、言った。
「戦争の終わりに、心を壊した兵士たちのために作られたものです。見てはならないものを見た記憶を、取り除き、整える。……あなたの中の、余計なものを取り除きます」
白衣の男たちが、わたしの椅子の背後に回った。額を留めていた金属の環が外され、かわりに、冷たい冠が、わたしの頭に、ゆっくりと降ろされていく。
「雨の駅の記憶も。塔の地下で見たものも。ベッドの裏の文字も。……そして、空いた場所に、ミラ・ハルトの記憶を置きます」
ヴァルは、書類挟みを、白衣の男の一人に手渡した。
「目覚めたとき、あなたは、川べりで麦わら帽子を抱えていたことを、覚えているでしょう。時計店の二階の、油の匂いも。弟の手の温かさも。……そして、あの夜、自分の意思で、あの駅へ行ったことも」
ヴァルは、立ち上がった。
「そのとき、あなたは、心から、この証言に署名してくれるはずです」
それから、ヴァルは、白衣の男たちの手もとに目をやったまま、少しだけ、声を落とした。
「本当は、これを、使いたくはなかった」
嘘をついている声では、なかった。
「整えた記憶は、脆いのです。公開聴聞の場で、たったひとつの問いに躓けば、そこから、ひびが入る。記憶を置き換えられた者は、ときに、自分が誰なのかわからなくなって、壊れる。……壊れた証人の言葉を、街は、信じない」
ヴァルは、わたしに、目を戻した。
「そして何より、罪は、自分で選んだ者にしか負えない。私が欲しかったのは、あなた自身が選んだ署名でした。だから、先に、選ぶ機会を差し上げたのです。……ですが、選ばないというのなら、しかたがない。式典までに、もう、時間はありません」
自分で選ばせるかわりに、選んだと思いこませる。それは、この男が言う罪と、どこが違うのだろう、とわたしは思った。
「やめて!」
ユノが、椅子ごと、机に身体を打ちつけた。手錠が、机の縁で、火花を散らすように鳴った。
「やめて、その人を――」
黒い面の男が、ユノの肩を、椅子に押さえつけた。
「ユノさん」
ヴァルは、ユノを見下ろした。
「あなたは、記録係でしょう。……最後まで、見届けなさい」
ヴァルの合図で、男は、ユノの椅子を引きずり、押収物の並んだ小さな机の脇へ据え直した。わたしの椅子の、真正面。処置のすべてが、いちばんよく見える場所へ。
白衣の男の一人が、柱の画面に指を走らせ、それから、冠から伸びた線の先の、小さな送話口に、顔を近づけた。
「――静止」
その一語が、わたしの頭の内側で、鳴った。
身体が、止まった。
地下鉄の駅で、あの青白い光を浴びたときと、同じだった。わたしは、止まった身体の中で、止まった目で、白い部屋を見ていた。
「処置を、開始します」
冠の内側で、何百本もの針が、いっせいに、わたしの頭に触れた。
冷たかった。
押収物の机の脇で、ユノが、わたしを呼ぼうとして、呼べずにいるのがわかった。わたしには、呼ばれるための名前が、なかったから。ユノの唇は、何度も同じ形に動きかけては、止まった。
それから、低い唸りが、頭蓋の内側を満たした。
最初に消えたのは、味だった。
兵舎のカップで飲んだ水の、少しだけ鉄の味。それが、舌の上から、ふっと剥がれて、どこかへ行った。カップは、覚えていた。縁のへこみも。けれど、あの水が、どんな味だったのかが、もう、わからなかった。
次に、色が消えた。
ロクマルの海の写真の、青。どこまでも青く、水平線がまっすぐに空を分けていた、あの青が、灰色に褪せていく。
紙の鳥。首の曲がった、翼の大きさの違う、わたしの鳥。それを見て、ほんの少しだけ笑ったロクニの――。
ロクニの、何を。
わたしは、必死に、それを掴もうとした。指の隙間から、水のように、こぼれていく。
ベッドの裏の文字が、滲みはじめた。硬い線と、震える線と、歌うような線と、得意げな線とが、ひとつずつ、同じ灰色の染みになっていく。名前は、の三文字が、読めなくなった。戦争が、の三文字が――。
ロクマルが笑うと、鼻の頭に、何が寄ったのだったか。
身体は、動かなかった。叫ぶことも、できなかった。
だから、わたしは、見た。
診療所の闇の中で、身体の目が番犬の首を見ていたとき、わたしが、ユノを見ていたように。
わたしは、止まった目の中で、ユノを見た。
押収物の机の脇で、椅子に押さえつけられているユノ。乱れた髪。頬の赤い線。見開かれた目。その目から、涙が、とめどなく流れていた。
ユノを見ている、ということだけを、わたしは、握りしめた。
唸りが、深くなった。ヴァルは、柱の画面の前に立ち、そこを流れていく細かな文字を、瞬きもせずに読んでいた。消えていくものの一覧を、ひとつずつ、確かめるように。
ロクイチの旋律から、音が、ひとつ、抜け落ちた。
「……聴聞官」
白衣の男の一人が、画面を見つめたまま、声を上げた。
「記憶の奥に、消去できない領域があります」
ヴァルが、わずかに眉を動かした。
「封印されています。……形式が、軍のものではありません。見たことのない暗号です」
ヴァルは、画面を覗きこんだ。
しばらく、何も言わなかった。
「……主任技師か」
その声が、はじめて、ほんの少しだけ、低くなった。
「こんなところに、隠していたのか」
ヴァルは、画面から顔を上げ、白衣の男に、静かに命じた。
「封印ごと、焼き切りなさい」
唸りが、甲高い音に変わった。
わたしの記憶の奥で、何かが、軋んだ。
白く、冷たい壁だった。
思い出そうとするたびに、わたしの前に立ちはだかってきた、あの壁。貨車の上の少年が口を開けた瞬間に、必ずそこに現れる壁。
その壁が、熱を帯びて、揺らいでいた。
白い表面に、細い亀裂が、蜘蛛の巣のように走っていく。亀裂の向こうから、光が、漏れてきた。照明弾の、白い光。雨。そして、雨の中で明滅する、小さな、赤い灯。
壁の向こうに、あの夜がある。
壁が焼き切られれば、あの夜は、壁ごと、消えてしまう。
押収物の机の脇で、ユノが、動いた。




