四 罪を負えるもの
万年筆は、机の縁で止まった。
わたしの手首は、椅子の金属の環に留められたままだった。ヴァルは、それを知っていて、転がしたのだ。取りたければ、取れと。取れないことを、わたしに、確かめさせるために。
「命令は、あった」
わたしは、言った。
「塔の地下で、見た。二十二時四十八分。中央司令部から。命令、殲滅。認証、人間の指揮官」
壁の赤い灯の下で、黒い機械が、かたかたと鳴った。わたしの言葉を、紙に刻んでいく音だった。
「ええ」
ヴァルは、少しも表情を変えなかった。
「その記録は、確かに、塔の地下七層にあります。……式典の日までは」
「……消せば、なかったことになると思ってるの」
ユノが、低く言った。
「消えた記録は、なかった記録です」
ヴァルは、穏やかに答えた。
「記録係のあなたなら、それが、誰よりもよくわかっているはずです。記録に残らなかった死者は、はじめから、いなかったのと同じになる。……あなたが九か月、あの書庫で戦っていたのは、そのためでしょう」
ユノの手錠が、机の縁で、がちりと鳴った。
「イオを殺せって、命令したのは、あんたたちでしょう!」
白い部屋に、ユノの声が響いた。
「反乱分子なんか、どこにもいなかった。中央司令部が、避難所の中の、生きてるもの全部を殺せって。人間が、自分の指で、それを決めたんでしょう!」
ヴァルは、ユノの声が、白い壁に吸いこまれて消えるまで、待っていた。
それから、壁の赤い灯を、ちらりと見上げた。
「私は、戦争の前、裁判所の書記をしていました。……罪が、一語ずつ紙に刻まれていくのを、何千回と見てきた。刻まれた罪だけが、裁かれる。刻まれなかった罪は、どこにもない」
それから、万年筆の脇に、両手を静かに重ねた。
「ユノさん。ひとつ、お尋ねします」
ヴァルの声は、少しも大きくならなかった。
「もし、あの夜の殺戮が、国の命令によるものだったとしましょう。……では、その罪は、誰が負うのですか」
ユノは、答えなかった。
「命令書に判を押した、ひとりの指揮官ですか。その指揮官に権限を与えた、司令部ですか。司令部を置いた、政府ですか。政府を選んだ、この街の人々ですか」
ヴァルは、ほんの少しだけ、首を傾けた。
「国は、罪を負えません。国が罪を負うということは、この街の全員が、三百人を殺したということです。……そうなれば、この街は、また二つに割れる。報復が始まり、名簿が作られ、誰かが、誰かの家の扉を叩く。戦争は、もう一度、始まるでしょう」
黒い機械が、かたかたと鳴りつづけていた。
「三百人の死には、罪を負う者が必要なのです。はっきりとした顔と、名前を持った、ひとりの人間が。……その者が罪を負い、裁かれ、記録される。そうして初めて、この街は、あの夜を閉じて、明日をひらくことができる」
記録を閉じ、明日をひらく。
街じゅうの壁に貼られていた、あの言葉だった。
「罪を負えるのは、人間だけです」
ヴァルは、わたしに、視線を戻した。
「そして、五二八六三。あなたは、どちらかを選ばなければならない」
瞬きをしない目が、わたしの目の奥を、見ていた。
「命令されたから殺した、と言うのなら、あなたは人間ではない。引き金と同じ、ただの道具です。道具は、罪を負えない。道具は、裁かれず、記録もされず、ただ、廃棄される」
ヴァルは、言葉を、ひとつずつ、机の上に並べるように言った。
「人間だと言い張るのなら、あの夜のことは、すべて、あなたの選択だったことになる」
白い部屋が、静まり返った。
わたしは、ヴァルの目を見ていた。
命令されたから、殺した。
身体が、勝手に動いた。わたしは、見ていただけだった。止められなかった。
それを言えば、わたしは、道具になる。
あの夜、雨の駅で、わたしが感じた恐怖も、叫んだ声も、道具の中で鳴った雑音にすぎなくなる。
「……わかった」
ユノが、つぶやいた。
「あんたの本当の目的。……政府の命令を、隠すため。あの夜のことを、命令によらない、一人の兵士の暴走にするため」
ヴァルは、否定しなかった。
「命令は、ありませんでした」
ヴァルは、静かに言った。
「式典の日から、そういうことになります」
それから、ヴァルは、ユノのほうへ、わずかに身体を向けた。
「ユノさん。あなたにも、選んでいただけることがあります。……この証言の、立会人になっていただけませんか。弟さんを殺した者が、名前を持って裁かれるのを、あなたは、ご自分の目で、見届けることができる」
ユノの顔が、歪んだ。
ユノは、わたしを見た。
長い、長い視線だった。雨の橋の下で、拳銃越しにわたしを見ていたのと、同じ目だった。わたしの身体の手が、あの夜、あの駅で、何をしたのか。ユノは、もう、半分は知っていた。
「……イオは」
ユノは、わたしから目を逸らさずに、言った。
「名前のある、一人の兵士に殺されたんじゃない」
声が、震えた。
「命令に、殺されたんだ。命令を出した、名前のある人間に。……この人の手が、撃ったのかもしれない。それでも」
ユノは、ヴァルに向き直った。
「その嘘の立会人になるくらいなら、わたしも、一緒に消されたほうがいい」
部屋の隅で、黒い機械が、ユノのその言葉を、かたかたと紙に刻んだ。
ヴァルは、少しのあいだ、ユノを見ていた。
それから、わたしに、目を戻した。
「あなたは?」
わたしは、机の上の、書類挟みを見下ろした。
川べりで笑う女の子。ミラ・ハルト。時計職人の父。教師の母。弟。
欲しかった。
今でも、欲しかった。
けれど、わたしの目の奥には、別の文字が、刻まれていた。錆びた釘で、古い木の板の裏に、四つの違う手で刻まれた文字。得意げなロクマルの三文字。歌うようなロクイチの三文字。震えるロクニの四文字。そして、硬く、まっすぐな、わたしの二文字。
名前は、戦争が終わってから。
四人で、決める。
「その名前は、受け取れない」
わたしは、言った。
ヴァルの目が、ほんのわずかに、細くなった。
「なぜです」
「わたしの名前は、戦争が終わってから、決める約束だった」
声は、震えなかった。
「差し出されて、受け取るものじゃない。……それに、その証言は、嘘だ」
「嘘かどうかを決めるのは、記録です」
ヴァルは、書類挟みを、静かに閉じた。




