三 出生記録
ヴァルは、外套の内側から、薄い灰色の書類挟みを取り出した。
それを、机の上で、わたしのほうへ、滑らせた。
書類挟みが、わたしの椅子の前の、机の縁で止まった。表紙に、戦後復興局の紋章と、手書きの文字があった。
出生記録。
「開けてさしあげなさい」
ヴァルが言うと、部屋の隅に立っていた黒い面の男が歩み寄り、わたしの目の前で、書類挟みを開いた。
最初の頁に、写真が一枚、留められていた。
女の子だった。
六つか、七つくらいだろうか。川べりの草の上に座って、麦わら帽子を膝に抱え、眩しそうに目を細めて笑っている。肩までの、黒い髪。薄い色の、灰色がかった瞳。
その下に、青い印字で、文字が並んでいた。
『出生記録
氏名 ミラ・ハルト
出生 第十二区 ハルト時計店 二階
父 ハルト・オスカー 時計職人
母 ハルト・エレナ 初等学校教員
弟 ハルト・ルイ』
ミラ。
わたしは、その名前を、声に出さずに、なぞった。
ミラ・ハルト。
弟、という文字の上で、わたしの目が止まった。わたしは、思わず、机の向こうのユノを見た。ユノは、書類挟みの写真を、奪い取ろうとするような目で、見つめていた。
「それが、あなたの名前です」
「……作りものよ」
ユノが、かすれた声で言った。
「写真なんて、いくらでも作れる。記録なんて、いくらでも書ける。……わたしは、九か月、嘘の記録と戦ってきたんだから」
ヴァルは、ユノのほうを見もしなかった。
ヴァルが、言った。
頁が、めくられた。
初等学校の成績表。算数が得意で、書き取りが苦手。担任の書きこみ。よく笑う子。弟の面倒をよく見る。中等学校の卒業証書。十九歳の、志願書。
『志願理由 弟を守るため』
頁が、めくられた。
入隊の記録。第六兵站区、配属。前線での負傷。重傷。
『戦傷により、全身の半分以上を軍用義体に置換
施術後、記憶に一部欠損を認む』
診療所の手術灯の下で、ユノが見た、白い繊維。この記録は、それを、たったひと行で説明していた。
頁が、めくられた。
『停戦協定発効の四日前
命令によらず、独断にて部隊を離脱
第九避難所に侵入し、避難民三百名を殺害
同夜、所在不明となる』
わたしは、写真に、目を戻していた。
川べりで笑う、女の子。黒い髪。灰色の瞳。
知らない顔だった。
けれど、知らないのは、この顔だけではなかった。わたしは、自分の子どものころの顔を、ひとつも知らない。父の顔も、母の顔も、生まれた町の名前も、何ひとつ。兵舎のベッドの下で、ユノに家族のことを訊かれたとき、わたしの記憶の引き出しは、どれも空っぽだった。
空っぽなのは、はじめから何もなかったからなのか。それとも、誰かが、中身を持ち去ったからなのか。
「あなたが、何も覚えていないのは」
ヴァルの声が、わたしの考えの、ちょうどその場所に、静かに差しこまれた。
「記憶を、消されたからです。戦争の終わりに、軍が、あなたのような兵士から、任務に要らないものを、すべて取り除いた。家族も。故郷も。名前も」
ヴァルは、写真を、指先で示した。
「これは、消される前の、あなたです」
わたしは、写真の女の子を見ていた。
麦わら帽子。川べりの草。眩しそうな目。
この子には、名前があった。父がいて、母がいて、弟がいた。時計店の二階で生まれて、算数が得意で、書き取りが苦手だった。
ロクマルは、海を見たことがなかった。ロクイチは、誰も記録してくれないから、自分で録っておくんだと言った。ロクニは、明日を怖がった。そして、わたしたち四人には、名前がなかった。
名前は、戦争が終わってから。
戦争は、終わった。
そして今、わたしの前に、名前が、差し出されていた。
「これを受け入れれば」
ヴァルは、わたしの目を、まっすぐに見た。
「あなたは、ミラ・ハルトという一人の人間として、記録に戻ることができる。番号ではなく、名前で。廃棄を待つ未登録の義体ではなく、父と母と弟を持つ、一人の人間として」
胸の奥で、何かが、ひどく痛んだ。
欲しい、と思った。
この名前が、欲しい。この写真の、川べりの光が、欲しい。わたしが誰なのかを、誰かに、決めてもらいたい。
その痛みが、わたしのものなのか、あの主任技師がわたしに与えたものなのか、わたしには、もう、わからなかった。
ヴァルは、書類挟みの、最後の頁を開かせた。
そこには、写真も、印字の表もなかった。ただ、白い紙に、数行の文章が、整然と打たれていた。
『証言
わたし、ミラ・ハルトは、停戦協定発効の四日前、
いかなる命令も受けることなく、
わたし自身の意思によって、
第九避難所の避難民三百名を殺害しました』
文章の下に、署名のための、空白の線が一本、引かれていた。
「あなたに求めるのは、これだけです」
ヴァルは、万年筆を、机の上で、わたしのほうへ、転がした。
黒い万年筆が、白い机の上を、ころころと転がってくる。その音が、しばらくのあいだ、部屋の中で、いちばん大きな音だった。




