↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第五章 差し出された名前

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/62

三 出生記録

 ヴァルは、外套の内側から、薄い灰色の書類挟みを取り出した。


 それを、机の上で、わたしのほうへ、滑らせた。


 書類挟みが、わたしの椅子の前の、机の縁で止まった。表紙に、戦後復興局の紋章と、手書きの文字があった。


 出生記録。


「開けてさしあげなさい」


 ヴァルが言うと、部屋の隅に立っていた黒い面の男が歩み寄り、わたしの目の前で、書類挟みを開いた。


 最初の頁に、写真が一枚、留められていた。


 女の子だった。


 六つか、七つくらいだろうか。川べりの草の上に座って、麦わら帽子を膝に抱え、眩しそうに目を細めて笑っている。肩までの、黒い髪。薄い色の、灰色がかった瞳。


 その下に、青い印字で、文字が並んでいた。


 『出生記録

  氏名 ミラ・ハルト

  出生 第十二区 ハルト時計店 二階

  父 ハルト・オスカー 時計職人

  母 ハルト・エレナ 初等学校教員

  弟 ハルト・ルイ』


 ミラ。


 わたしは、その名前を、声に出さずに、なぞった。


 ミラ・ハルト。


 弟、という文字の上で、わたしの目が止まった。わたしは、思わず、机の向こうのユノを見た。ユノは、書類挟みの写真を、奪い取ろうとするような目で、見つめていた。


「それが、あなたの名前です」


「……作りものよ」


 ユノが、かすれた声で言った。


「写真なんて、いくらでも作れる。記録なんて、いくらでも書ける。……わたしは、九か月、嘘の記録と戦ってきたんだから」


 ヴァルは、ユノのほうを見もしなかった。


 ヴァルが、言った。


 頁が、めくられた。


 初等学校の成績表。算数が得意で、書き取りが苦手。担任の書きこみ。よく笑う子。弟の面倒をよく見る。中等学校の卒業証書。十九歳の、志願書。


 『志願理由 弟を守るため』


 頁が、めくられた。


 入隊の記録。第六兵站区、配属。前線での負傷。重傷。


 『戦傷により、全身の半分以上を軍用義体に置換

  施術後、記憶に一部欠損を認む』


 診療所の手術灯の下で、ユノが見た、白い繊維。この記録は、それを、たったひと行で説明していた。


 頁が、めくられた。


 『停戦協定発効の四日前

  命令によらず、独断にて部隊を離脱

  第九避難所に侵入し、避難民三百名を殺害

  同夜、所在不明となる』


 わたしは、写真に、目を戻していた。


 川べりで笑う、女の子。黒い髪。灰色の瞳。


 知らない顔だった。


 けれど、知らないのは、この顔だけではなかった。わたしは、自分の子どものころの顔を、ひとつも知らない。父の顔も、母の顔も、生まれた町の名前も、何ひとつ。兵舎のベッドの下で、ユノに家族のことを訊かれたとき、わたしの記憶の引き出しは、どれも空っぽだった。


 空っぽなのは、はじめから何もなかったからなのか。それとも、誰かが、中身を持ち去ったからなのか。


「あなたが、何も覚えていないのは」


 ヴァルの声が、わたしの考えの、ちょうどその場所に、静かに差しこまれた。


「記憶を、消されたからです。戦争の終わりに、軍が、あなたのような兵士から、任務に要らないものを、すべて取り除いた。家族も。故郷も。名前も」


 ヴァルは、写真を、指先で示した。


「これは、消される前の、あなたです」


 わたしは、写真の女の子を見ていた。


 麦わら帽子。川べりの草。眩しそうな目。


 この子には、名前があった。父がいて、母がいて、弟がいた。時計店の二階で生まれて、算数が得意で、書き取りが苦手だった。


 ロクマルは、海を見たことがなかった。ロクイチは、誰も記録してくれないから、自分で録っておくんだと言った。ロクニは、明日を怖がった。そして、わたしたち四人には、名前がなかった。


 名前は、戦争が終わってから。


 戦争は、終わった。


 そして今、わたしの前に、名前が、差し出されていた。


「これを受け入れれば」


 ヴァルは、わたしの目を、まっすぐに見た。


「あなたは、ミラ・ハルトという一人の人間として、記録に戻ることができる。番号ではなく、名前で。廃棄を待つ未登録の義体ではなく、父と母と弟を持つ、一人の人間として」


 胸の奥で、何かが、ひどく痛んだ。


 欲しい、と思った。


 この名前が、欲しい。この写真の、川べりの光が、欲しい。わたしが誰なのかを、誰かに、決めてもらいたい。


 その痛みが、わたしのものなのか、あの主任技師がわたしに与えたものなのか、わたしには、もう、わからなかった。


 ヴァルは、書類挟みの、最後の頁を開かせた。


 そこには、写真も、印字の表もなかった。ただ、白い紙に、数行の文章が、整然と打たれていた。


 『証言

  わたし、ミラ・ハルトは、停戦協定発効の四日前、

  いかなる命令も受けることなく、

  わたし自身の意思によって、

  第九避難所の避難民三百名を殺害しました』


 文章の下に、署名のための、空白の線が一本、引かれていた。


「あなたに求めるのは、これだけです」


 ヴァルは、万年筆を、机の上で、わたしのほうへ、転がした。


 黒い万年筆が、白い机の上を、ころころと転がってくる。その音が、しばらくのあいだ、部屋の中で、いちばん大きな音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。