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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第五章 差し出された名前

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一 線路の果て

 錆びた線路は、どこまでも続いていた。


 ユノの懐中電灯は、手のひらに覆われて、足もとの枕木を一本ずつ、細く照らすだけだった。枕木。砂利。枕木。ときおり、崩れた天井から落ちてきたコンクリートの塊が、線路を塞いでいた。わたしはそれを持ち上げてどけ、ユノは、その脇を黙って通り抜けた。


 何時間、歩いたのか。


 地下には、朝も夜もなかった。わたしの耳が拾うのは、遠くで落ちる水の音と、鼠の爪の音と、背中のすぐ後ろのユノの足音だけだった。足音は、少しずつ、重く、遅くなっていった。


「……休む?」


 わたしが訊くと、ユノは首を振った。


「止まったら、立てなくなる」


 やがて、闇の奥に、ぼんやりと白いものが見えてきた。


 駅だった。


 昔の地下鉄の、小さな駅。ホームの壁に貼られた白い化粧石が、懐中電灯の光を、鈍く撥ね返している。色の褪せた駅名の板。北通り。ホームの端の階段の上から、ほんのかすかに、灰色の光が落ちていた。


 地上の光だった。夜が、明けかけているのだ。


 ユノは、ホームの縁に手をかけて、よじ登った。そして、そのまま、白い化粧石の壁に背を預けて、ずるずると座りこんだ。


「……少しだけ」


 ユノは目を閉じた。拳銃は、膝の上に置いたままだった。けれど、ユノの指は、もう、引き金にかかっていなかった。


 わたしは、ホームの端に立って、階段の上の灰色の光を見上げた。


 式典まで、あと十日と少し。


 わたしたちは、塔の地下で、殲滅の命令と、人間の指揮官の認証と、主任技師の声を手に入れた。けれど、それを、どこへ持っていけばいいのか、わたしにも、ユノにも、まだわからなかった。


「新聞社は、全部、復興局の検閲の下にある」


 目を閉じたまま、ユノが、ぽつりと言った。


「ラジオも。……式典の日には、街じゅうの人が、塔の前に集まる。そこで、みんなの前で、あの命令を見せられたら」


 ユノは、それ以上、言わなかった。眠りに落ちかけていたのだ。


 そのとき、身体が、気づいた。


 静かすぎた。


 水の落ちる音は、していた。けれど、鼠の爪の音が、しなかった。この駅に近づいてから、一度も。まるで、何かが、ここにいる生き物を、先に追い払ってしまったかのように。


 身体の耳が、階段の上の、灰色の光の奥を探った。


 呼吸。


 ひとつではない。十。二十。息を殺した、人間の呼吸。そして、低い、機械の唸り。


「ユノ」


 ユノが、目を開けた。


 その瞬間、駅が、真昼になった。


 ホームの天井に、いつの間にか据えつけられていた投光器が、一斉に、白い光を吐き出した。目が、焼けた。身体の目は、一瞬で光を絞り、その白さの向こうに、動くものの形を拾った。


 階段の上から。線路の、前と、後ろから。


 黒い装甲の服を着た男たちが、音もなく、湧き出してきた。顔を、黒い面で覆っている。構えた小銃の弾倉に、黄色い帯。対義体弾。そのあいだを、番犬が三体、低く身をかがめて、滑り出てくる。


『戦後復興局保安部、特別回収班だ』


 拡声器の声が、白い光の中で反響した。


『五二八六三、およびその協力者。武器を捨て、その場に伏せろ』


 ユノが、拳銃を構えたまま、白い壁に背中を押しつけた。震える銃口が、投光器の光の中の、無数の黒い影のあいだを、さまよっていた。


 身体の時間が、始まった。


 わたしは、また、硝子の向こうへ、置いていかれた。


 身体は、伏せなかった。ホームの縁を蹴り、いちばん近い番犬へ跳ぶ。番犬の首に腕をかけ、ひねりながら、その身体を盾にして、線路の上の男たちへ突っこむ。銃声が、白い化粧石の壁に反響して、雷のように轟いた。黄色い帯の弾が、番犬の装甲を紙のように貫いていく。


 身体は、盾にした番犬を投げ捨て、男の一人に組みついた。小銃をもぎ取る。銃床で、二人目の面を割る。


 三人目が、小銃ではないものを、構えていた。


 太い筒だった。筒の先に、銃口のかわりに、皿のような、浅い金属の器がついている。


 身体は、それを、知らなかった。


 筒の先の器が、青白く、光った。


 音は、しなかった。


 ただ、世界が、ぶつりと、切れた。


 身体が、止まった。


 跳びかかろうとした姿勢のまま、指一本、動かなくなった。糸を切られた操り人形のように。わたしは、止まった身体の中で、止まった目で、白い光を見ていた。わたしの時間だけが、ゆっくりと流れていた。


 動いて。


 身体は、応えなかった。応えないのではなかった。身体そのものが、どこかへ、消えてしまったようだった。


 わたしの膝が、折れた。


 砂利の上に、倒れた。倒れる音を、わたしは、他人の音のように聞いた。


 ホームの上で、銃声が一発、鳴った。ユノの拳銃の音だった。それから、揉み合う音。ユノの短い叫び声。金属の手錠が、閉じる音。


 ユノ。


 わたしは、首を動かそうとした。動かなかった。


「その人に、触らないで!」


 ユノの叫び声が、白い化粧石の壁に、何度も反響した。わたしを、兵器でも番号でもなく、その人、と呼ぶ声だった。


 黒い面の男が、わたしの視界の上に、覗きこんだ。


「制御波、有効。対象、完全に停止」


 男の手が、わたしの頭に、黒い布の袋をかぶせた。


 白い光が、消えた。

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