七 あなたには
動かなくなった番犬の喉の奥で、何かが、ざらりと鳴った。
雑音だった。番犬の、合成音声を出すための拡声器が、壊れかけたまま、何かを拾っていた。
それから、声がした。
『……五二八六三』
合成の声ではなかった。
男の、生きた声だった。低く、落ち着いていて、一度も高くならない声。ひどく遠い部屋から、壊れた番犬の喉を通して、ここへ届いている。
『聞こえていますね』
わたしは、動かなかった。ユノの拳銃の先が、わたしの背中から、番犬の頭部へと、ゆっくり移っていった。
『私は、戦後復興局、聴聞官のヴァルです』
聴聞官ヴァル。
回収官の端末の、報告先に記されていた名前だった。
『塔の地下七層で、あなたが何を見たのかは、知っています。……ユノさん。あなたが、それを写しとったことも』
ユノの肩が、こわばった。
『弟さんのことは、お気の毒でした。……あなたが三十九通の申請書に書いた番号を、私は、全部読んでいますよ』
ユノの顔から、血の気が引いていくのが、闇の中でもわかった。
『逃げる必要は、ありません』
声は、急がなかった。出来の悪い生徒に、同じことを、何度も言い聞かせる教師のような声だった。
『五二八六三。あなたには、まだ、選ぶ機会がある』
選ぶ。
『あの駅で起きたことについて、あなたは、命令に従っただけだと言うでしょう。身体が勝手に動いたのだ、と。……けれど、それを言うかぎり、あなたは、罪を負うことができない』
短い間があった。
『罪を負えるのは、人間だけです。命令に従っただけの兵器には、罪を負うことさえ、許されない。兵器は、裁かれるのではなく、ただ、廃棄されるだけです』
『三百人が死にました。誰かが、その罪を負わなければならない。さもなければ、あの夜は、ただの災害になってしまう。……地震や、洪水と同じに』
主任技師と、同じ言葉だった。
わたしの右手の人差し指が、ぴくりと動いた。
『ですが、あなたが、それを望むなら』
声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
『私が、あなたを、人間として記録に戻してさしあげましょう』
銃声が、診療所に響いた。
ユノが、番犬の頭部を撃ち抜いていた。一発。もう一発。拡声器が砕け、雑音が、ぷつりと途切れた。
「記録に戻してあげる、ですって」
ユノは、煙を吐く拳銃を下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「あの人が欲しいのは、罪を負ってくれる誰か。……それが本当は誰なのかなんて、どうでもいいんだ」
静けさが、戻ってきた。
いや、戻ってはこなかった。通路の遠くで、人間の靴音が、駆け足に変わっていた。銃声を聞いたのだ。四本の脚の音が、ひとつ、ふたつ、増えていく。
「……行く」
ユノが、拳銃を下ろして、鞄を掴んだ。
鞄の中身を、手探りで確かめる。回収官の端末。読み出し器。書きつけた証言の紙。ロクマルの時計と、海の写真。紙の鳥。布にくるんだ、録音機。
「この奥に、昔の地下鉄の線路に抜ける穴がある。医者が、逃げ道に使ってたって」
ユノは、懐中電灯を点けずに、診療所の奥の、棚の後ろの壁を押した。壁の一部が、きしみながら、奥へ開いた。冷たい、錆の匂いのする風が、吹きこんできた。
ユノは、わたしを振り返った。
「前を歩いて」
それは、橋の下で言われたのと、同じ言葉だった。
けれど、ユノの拳銃の先は、わたしの背中ではなく、足もとの地面に向けられていた。
わたしは、暗い穴の中へ、踏みこんだ。
背後で、ユノが、壁を閉じた。靴音と、四本の脚の音が、壁の向こうで、くぐもって遠ざかっていく。
錆びた線路の上を、わたしたちは、闇の中を歩いた。どこか遠くで、水の落ちる音がした。鼠が、線路の上を走り抜けていった。ユノは、懐中電灯の光を手のひらで覆って、足もとだけを、細く照らした。
式典まで、あと十日と少し。
わたしは、歩きながら、自分の目のことを考えていた。
雨の駅で、わたしの目の奥から、あの夜を見ていた男がいた。塔の地下で、わたしの目の前から、あの十三分を切り取った誰かがいた。そして今夜、壊れた番犬の喉を通して、わたしの行き先を見ている男がいる。
主任技師は、本当の記録を、誰にも消せない場所に残すと言った。その場所がどこなのか、途切れた記録は、何も語らなかった。
わたしの見るものは、いつも、誰かに見られていた。
けれど、今夜、わたしは、ひとつだけ知った。
身体の目が、番犬の首を見ていたとき。わたしは、ユノを見ていた。
同じ目で。同じ瞬間に。身体が見ようとしないものを、わたしは、見ることができた。
殺す手と、それを見届ける目。
あの男は、見届ける目に、止める力を与えなかったと言った。見ることしかできないようにした、と。
それなら、見届ける目は、せめて、何を見るかを、選べるのだろうか。
わたしは、闇の中で、振り返らなかった。
背中のすぐ後ろで、ユノの足音が、ついてきていた。




