六 もうひとつの視線
雨漏りのしずくの音が、途切れた。
途切れたのではなかった。別の音に、かき消されたのだ。地下商店街の、ずっと遠く、わたしたちが下りてきた階段のほうから、硬いものが、床を叩く音が響いてくる。規則正しく、交互に。四本の脚の音。
それから、割れた拡声器の声が、通路を渡ってきた。
『戦後復興局保安部です。これより旧地下街を封鎖し、捜索を行います。潜伏している者は、ただちに地上へ出てきてください』
ユノが、端末の画面を落とした。懐中電灯を消す。
診療所が、完全な闇に沈んだ。
「……どうして、ここが」
「わからない」
わたしは、闇の中で、耳を澄ました。
四本の脚の音が、一体。そのずっと後ろに、人間の靴音が、いくつか。天井の近くを、細い羽音が、ゆっくりと移動していく。羽音は、通路の店を一軒ずつ、覗きこんでいるようだった。
「発電機が、まだ、温かい」
わたしは言った。
「番犬は、熱で見る。この部屋だけ、通路の中で、温かく見える」
闇の向こうで、ユノが、息を呑んだ。
足音が、近づいてくる。靴屋の前を過ぎ、時計屋の前を過ぎ、菓子屋の前を過ぎる。
「ほどいて」
ユノは、答えなかった。
ユノの心臓の音が、闇の中で、速くなっていった。一分間に、百二十。百四十。
「……あなたの身体が、また、わたしを撃とうとしたら」
「そのときは」
わたしは言った。
「その拳銃で、わたしを撃って」
長い、一秒だった。
闇の中で、金属の器具が、盆の上で触れ合う音がした。冷たい刃が、わたしの左の手首に触れた。革が、ぷつりと切れる。右の手首。足首。一本ずつ。
最後の帯のところで、刃が、一瞬だけ、止まった。
それから、切れた。
わたしは、手術台から、音を立てずに滑り下りた。撃ち抜かれた右の腿は、もう、体重を支えられるほどに塞がっていた。
ユノが、棚の陰へ退く気配がした。
細い羽音が、先に来た。扉の割れた硝子の向こうを、白い光の帯が、ゆっくりと横切っていく。光は、手術台の脚を撫で、発電機の上で、一瞬、止まり、また流れていった。
足音が、診療所の扉の前で、止まった。
扉が、軋みながら、内側へ押し開かれた。
六つの赤い点が、闇の中に灯った。番犬のレンズの、熱を見る目の光だった。赤い点が、部屋の中を、ゆっくりと巡る。発電機へ。手術台へ。
身体の時間が、始まった。
わたしは、また、わたしの時間の中へ、置いていかれた。
硝子の向こうで、身体が動きはじめる。器具の盆の上から、医者が使っていた、長い鋼の探り針を掴む。手術台の陰へ、身体を沈める。番犬の銃身が、発電機の熱のほうへ向く。
わたしは、叫ばなかった。
叫んでも届かないことを、わたしは、もう知っていた。
だから、わたしは、見ることにした。
身体の目は、番犬の首を見ていた。装甲板と装甲板のあいだの、指一本ぶんの隙間を。距離を。角度を。跳ぶまでの、細かく刻まれた時間を。
わたしは、その目の中で、別のものを探した。
窓硝子の向こうの景色を見ているときに、ふと、硝子に映った自分の顔へ、目を移すように。景色は、そこにあるまま。けれど、見ているものだけが、変わる。
棚の陰。
ユノが、いた。
闇の中で、身体の目は、ユノの体温を、ぼんやりとした形として捉えていた。膝をつき、両手で拳銃を構えている。その銃口は、番犬ではなく、わたしの背中に向けられていた。
わたしは、それを、見ていた。
身体が、番犬の首を見ているのと、同じ目で。同じ瞬間に。
身体の時間の中で、身体は、ユノを見ていなかった。ユノは、脅威でも、標的でもなかったから。けれど、わたしは、ユノを見ていた。身体が見ようとしないものを、わたしの目は、見ることができた。
番犬の銃身が、発電機から、手術台へと向きを変えた。
連射が、黒い革の台を引き裂いた。さっきまで、わたしが縛りつけられていた場所を。千切れた革の帯が、宙に跳ねた。身体は、その寸前に、台の下から転がり出ていた。
弾が、棚を薙いだ。医者が隠していた義手や義足の部品が、雪崩のように床へ崩れ落ちてくる。黒い指。蛇腹の膝。身体は、崩れ落ちる金属の腕の陰を低く這って、番犬の死角へ回りこんだ。
身体が、跳んだ。
手術台を蹴り、番犬の頭上へ。番犬の銃身が跳ね上がり、連射が、天井の手術灯を砕いた。硝子の雨の中で、身体は、長い鋼の探り針を、六つの赤い点の真ん中へ、突き立てていた。
赤い点が、三つ、消えた。
番犬が、首を振りまわして暴れる。身体はその背に跨り、探り針を引き抜いて、装甲の隙間へ、もう一度、深く差しこんだ。そして、両腕を、短く太い首にかけた。
ひねった。
金属の悲鳴。
残りの赤い点が、ゆっくりと、暗くなっていった。
身体が、番犬の背から下りた。
そして、振り向いた。
身体の目が、闇の中の部屋を、ひと巡りした。次の脅威を、量るように。発電機。扉。棚の陰。
ユノの上を、身体の目が、通り過ぎた。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬、身体の目は、ユノの体温の形を、確かに、量っていた。距離を。構えた拳銃の角度を。
ユノが、息を止めたのがわかった。
わたしも、止めていた。
身体の目は、ユノの上を、そのまま通り過ぎた。脅威ではない。命令も、ない。身体は、そう判断したのだろう。
世界が、わたしの中に、戻ってきた。
わたしは、闇の中で、膝をついた。手が、震えていた。
棚の陰で、ユノは、まだ、拳銃を構えていた。引き金にかかった指は、最後まで、引かれなかった。
「……今、わたしを見た」
ユノの声は、かすれていた。
「あなたの目が。……わたしを、量ってた」
「量っていたのは、身体の目」
わたしは、言った。
「わたしは、あなたを、見ていた。……ずっと」
ユノは、何も言わなかった。




