五 見届ける目
古い端末の、ひび割れた拡声器から、雑音が流れ出した。
雨の音ではなかった。もっと乾いた、機械の唸り。空調の音。どこか、地面の深いところにある、閉ざされた部屋の音だった。
硝子が、ことりと机に触れる音。何かを注ぐ、液体の音。
そして、声がした。
『……記録する。第七研究室、主任技師――』
名前の部分だけが、ざらついた雑音に呑まれていた。
年をとった男の声だった。低く、かすれていて、ひどく疲れていた。長いあいだ眠っていない人の声だった。
『今夜、第九避難所にて、作戦が実行された。私は、観測室で、それを見ていた』
短い沈黙。
『……あの子たちの目を、通して』
わたしの背骨を、冷たいものが駆けのぼった。
安置所の、霧の中。熱を捨てた身体の中で、わたしの目の奥に、もうひとつの目が、ゆっくりと開いていくような感覚があった。わたしの目を通して、どこか遠くにいる誰かが、こちらを覗きこんでいるような。
あの夜も、誰かが、見ていたのだ。
わたしの目の、さらに奥から。
『命令を実行するだけの兵士なら、簡単だった』
声は、続けた。
『命令を受け、標的を選び、撃つ。怯えもせず、迷いもしない。そういう兵士なら、軍は、いくらでも欲しがった。私たちは、そういう兵士を、いくらでも送り出すことができた』
硝子が、また、机に触れた。
『だが、私は、それでは足りないと思った。……自分が何を殺しているのかを知らない者が引き金を引くなら、それは、もう戦争ではない。ただの、災害だ。地震や、洪水と同じだ。誰も、何も、見届けない』
ユノの手が、机の縁を掴んでいた。
『軍の上の者たちは、それで満足していた。……だが、私は、見てしまったのだ。命令のとおりに撃ち終えた兵士が、何ひとつ映していない目で、次の命令を待っているのを』
『だから、私は、あの子たちに、もうひとつの層を与えた。命令を実行する層とは、切り離して。ただ、見るための層を。恐怖を感じ、疑問を抱き、罪の重さを覚えるための層を。……それを抱えたまま、すべてを見届けるための層を』
長い、息の音。
『殺す手と、それを見届ける目を、同じ兵士に与える』
声が、かすかに、震えた。
『それが、本当に、人間らしさを生むのか。……私は、確かめたかった』
ユノの肩が、跳ねた。
わたしは、動けなかった。帯のせいではなかった。
『観測層には、命令を止める力を、与えなかった』
声は、ゆっくりと、続けた。
『与えられなかった。止めることのできる兵士は、兵器にならない。軍は、それを許さなかった。……だから、あの子たちの目は、見ることしかできない。どれほど怯えても。どれほど、やめてくれと願っても』
わたしの喉の奥で、何かが、音にならずに潰れた。
やめろ、とわたしは言った。雨の駅で。塔の地下で。言ったつもりだった。けれど、動いたのは、わたしの口ではなかった。
はじめから、そういうふうに、されていたのだ。
『今夜、観測層は、正しく働いた』
声が、低くなった。
『あの子たちは、見ていた。全部を。怯えて、問いかけて、それでも、目を逸らさずに。……いや、逸らせなかったのだ。私が、そうしたのだから』
硝子が、倒れる音がした。液体が、机にこぼれる音。男は、それを拭おうともしないようだった。
『あの子たちの記章を、目にしたのは、私だ』
ひとつきりの、目。
黒地に、白い、ひとつきりの目。
わたしは、縛られた左の手首の先で、指を動かそうとした。左の肩。あの徽章が縫いつけられていた場所には、いま、ユノが布を当てた傷があった。指は、そこまで、届かなかった。
『殺す手ではなく、見届ける目を、あの子たちの印にしたかった。……愚かなことだ。印を縫いつけたところで、あの目は、何も救えなかった』
長い沈黙があった。
雑音の底で、男が、自分の顔を両手で覆っているような、そういう沈黙だった。
『人間らしさなど、生まれなかったのかもしれない。……生まれたのは、ただ、苦しむための目だけだったのかもしれない』
それから、声が、少しだけ、強くなった。
『今夜の本当の記録は、私が、誰にも消せない場所に残す。命令を下した者の名も。何が起きたのかも。あの子たちが、本当は何なのかも。……全部、そこに――』
雑音が、声を呑みこんだ。
画面に、短い文字が浮かんでいた。
『付随記録 ここで途切れる』
ユノは、しばらく、動かなかった。
それから、机を、拳で叩いた。
硝子の割れた薬瓶が、棚の上で、かたかたと鳴った。
「……確かめたかった、ですって」
ユノの声は、低く、震えていた。
「三百人で? 避難所の、子どもと、年寄りで? あの人は、それを、観測室で、見てたの。……イオを、見てたの」
ユノの拳が、机の上で、白くなるほど握りしめられていた。
「人間らしさ、ですって。人の頭の中に、別の人格を、埋めこんで。見ることしかできない人格を。……それで、何が、人間らしいの」
人の頭の中に。
ユノは、そう言った。わたしも、そう思おうとした。
戦争の終わりのほうで、軍は、身体の半分以上を義体に置き換えた兵士を作っていた。家族も、故郷も、覚えていない兵士を。その頭の中に、命令を実行する層と、それを見届ける層とを、別々に埋めこんだのだ。そういうことなのだろう。
そういうことの、はずだった。
わたしは、縛られた手首の先で、指を、ゆっくりと握りしめた。
恐怖を感じ、疑問を抱き、罪の重さを覚えるための層。
わたしが、雨の駅で感じた恐怖も。塔の地下で叫んだ、やめて、という声も。ロクマルの海の写真を見て、胸の奥が痛んだことも。名前を決めないまま消えた三人を、待たせたのはわたしだと思ったことも。
それは全部、あの男が、確かめるために、わたしに与えたものなのだろうか。
もし、そうなら。この痛みも、この、胸の奥で冷えていくものも、誰かの試験の、記録の一行にすぎないのだろうか。
「あの子たちが、本当は、何なのか」
ユノが、画面の最後の文字を見つめたまま、つぶやいた。
「……あなたたちは、本当は、何なの」
家族も、故郷も、覚えていない四人。名前は、戦争が終わってから、と、ベッドの裏に刻んだ四人。海を見たことのないロクマル。記録だから、と言ったロクイチ。明日を怖がったロクニ。
あの三人は、確かに、いた。わたしは、それを知っている。けれど、三人が、本当は何だったのかを、わたしは、知らなかった。わたし自身が、本当は何なのかも。
わたしは、答えられなかった。
手術台の上から、診療所の暗い天井を見上げていた。わたしの目で。
そして、わたしの目の、さらに奥で、何かが、わたしが見ているものを、じっと見ていた。




