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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第四章 もうひとつの視線

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五 見届ける目

 古い端末の、ひび割れた拡声器から、雑音が流れ出した。


 雨の音ではなかった。もっと乾いた、機械の唸り。空調の音。どこか、地面の深いところにある、閉ざされた部屋の音だった。


 硝子が、ことりと机に触れる音。何かを注ぐ、液体の音。


 そして、声がした。


『……記録する。第七研究室、主任技師――』


 名前の部分だけが、ざらついた雑音に呑まれていた。


 年をとった男の声だった。低く、かすれていて、ひどく疲れていた。長いあいだ眠っていない人の声だった。


『今夜、第九避難所にて、作戦が実行された。私は、観測室で、それを見ていた』


 短い沈黙。


『……あの子たちの目を、通して』


 わたしの背骨を、冷たいものが駆けのぼった。


 安置所の、霧の中。熱を捨てた身体の中で、わたしの目の奥に、もうひとつの目が、ゆっくりと開いていくような感覚があった。わたしの目を通して、どこか遠くにいる誰かが、こちらを覗きこんでいるような。


 あの夜も、誰かが、見ていたのだ。


 わたしの目の、さらに奥から。


『命令を実行するだけの兵士なら、簡単だった』


 声は、続けた。


『命令を受け、標的を選び、撃つ。怯えもせず、迷いもしない。そういう兵士なら、軍は、いくらでも欲しがった。私たちは、そういう兵士を、いくらでも送り出すことができた』


 硝子が、また、机に触れた。


『だが、私は、それでは足りないと思った。……自分が何を殺しているのかを知らない者が引き金を引くなら、それは、もう戦争ではない。ただの、災害だ。地震や、洪水と同じだ。誰も、何も、見届けない』


 ユノの手が、机の縁を掴んでいた。


『軍の上の者たちは、それで満足していた。……だが、私は、見てしまったのだ。命令のとおりに撃ち終えた兵士が、何ひとつ映していない目で、次の命令を待っているのを』


『だから、私は、あの子たちに、もうひとつの層を与えた。命令を実行する層とは、切り離して。ただ、見るための層を。恐怖を感じ、疑問を抱き、罪の重さを覚えるための層を。……それを抱えたまま、すべてを見届けるための層を』


 長い、息の音。


『殺す手と、それを見届ける目を、同じ兵士に与える』


 声が、かすかに、震えた。


『それが、本当に、人間らしさを生むのか。……私は、確かめたかった』


 ユノの肩が、跳ねた。


 わたしは、動けなかった。帯のせいではなかった。


『観測層には、命令を止める力を、与えなかった』


 声は、ゆっくりと、続けた。


『与えられなかった。止めることのできる兵士は、兵器にならない。軍は、それを許さなかった。……だから、あの子たちの目は、見ることしかできない。どれほど怯えても。どれほど、やめてくれと願っても』


 わたしの喉の奥で、何かが、音にならずに潰れた。


 やめろ、とわたしは言った。雨の駅で。塔の地下で。言ったつもりだった。けれど、動いたのは、わたしの口ではなかった。


 はじめから、そういうふうに、されていたのだ。


『今夜、観測層は、正しく働いた』


 声が、低くなった。


『あの子たちは、見ていた。全部を。怯えて、問いかけて、それでも、目を逸らさずに。……いや、逸らせなかったのだ。私が、そうしたのだから』


 硝子が、倒れる音がした。液体が、机にこぼれる音。男は、それを拭おうともしないようだった。


『あの子たちの記章を、目にしたのは、私だ』


 ひとつきりの、目。


 黒地に、白い、ひとつきりの目。


 わたしは、縛られた左の手首の先で、指を動かそうとした。左の肩。あの徽章が縫いつけられていた場所には、いま、ユノが布を当てた傷があった。指は、そこまで、届かなかった。


『殺す手ではなく、見届ける目を、あの子たちの印にしたかった。……愚かなことだ。印を縫いつけたところで、あの目は、何も救えなかった』


 長い沈黙があった。


 雑音の底で、男が、自分の顔を両手で覆っているような、そういう沈黙だった。


『人間らしさなど、生まれなかったのかもしれない。……生まれたのは、ただ、苦しむための目だけだったのかもしれない』


 それから、声が、少しだけ、強くなった。


『今夜の本当の記録は、私が、誰にも消せない場所に残す。命令を下した者の名も。何が起きたのかも。あの子たちが、本当は何なのかも。……全部、そこに――』


 雑音が、声を呑みこんだ。


 画面に、短い文字が浮かんでいた。


 『付随記録 ここで途切れる』


 ユノは、しばらく、動かなかった。


 それから、机を、拳で叩いた。


 硝子の割れた薬瓶が、棚の上で、かたかたと鳴った。


「……確かめたかった、ですって」


 ユノの声は、低く、震えていた。


「三百人で? 避難所の、子どもと、年寄りで? あの人は、それを、観測室で、見てたの。……イオを、見てたの」


 ユノの拳が、机の上で、白くなるほど握りしめられていた。


「人間らしさ、ですって。人の頭の中に、別の人格を、埋めこんで。見ることしかできない人格を。……それで、何が、人間らしいの」


 人の頭の中に。


 ユノは、そう言った。わたしも、そう思おうとした。


 戦争の終わりのほうで、軍は、身体の半分以上を義体に置き換えた兵士を作っていた。家族も、故郷も、覚えていない兵士を。その頭の中に、命令を実行する層と、それを見届ける層とを、別々に埋めこんだのだ。そういうことなのだろう。


 そういうことの、はずだった。


 わたしは、縛られた手首の先で、指を、ゆっくりと握りしめた。


 恐怖を感じ、疑問を抱き、罪の重さを覚えるための層。


 わたしが、雨の駅で感じた恐怖も。塔の地下で叫んだ、やめて、という声も。ロクマルの海の写真を見て、胸の奥が痛んだことも。名前を決めないまま消えた三人を、待たせたのはわたしだと思ったことも。


 それは全部、あの男が、確かめるために、わたしに与えたものなのだろうか。


 もし、そうなら。この痛みも、この、胸の奥で冷えていくものも、誰かの試験の、記録の一行にすぎないのだろうか。


「あの子たちが、本当は、何なのか」


 ユノが、画面の最後の文字を見つめたまま、つぶやいた。


「……あなたたちは、本当は、何なの」


 家族も、故郷も、覚えていない四人。名前は、戦争が終わってから、と、ベッドの裏に刻んだ四人。海を見たことのないロクマル。記録だから、と言ったロクイチ。明日を怖がったロクニ。


 あの三人は、確かに、いた。わたしは、それを知っている。けれど、三人が、本当は何だったのかを、わたしは、知らなかった。わたし自身が、本当は何なのかも。


 わたしは、答えられなかった。


 手術台の上から、診療所の暗い天井を見上げていた。わたしの目で。


 そして、わたしの目の、さらに奥で、何かが、わたしが見ているものを、じっと見ていた。

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