三 ふたつの時間
ユノは、壁ぎわの丸椅子に腰を下ろした。
拳銃を、膝の上に置いたまま。手術灯の黄ばんだ光が、ユノの頬の、赤い線を照らしていた。塔の地下で、わたしの身体が撃った弾が、かすめていった痕。
わたしは、手術台に縛られたまま、天井を見ていた。
発電機の音が止まり、灯りが、少しずつ暗くなっていった。ユノは、もう一度、把手を回そうとはしなかった。懐中電灯の光を、床に向けて置いただけだった。
「話して」
暗がりの中で、ユノが言った。
「雨の降っていた夜のこと。……全部」
わたしは、目を閉じた。
「雨の、駅だった」
声は、自分でも驚くほど、静かだった。
「硝子の天蓋が、割れていた。照明弾の、白い光。人が、逃げていた。わたしは、その中を、歩いていた。四人で。同じ歩幅で。同じ角度に、銃を構えて」
ユノは、何も言わなかった。
「頭の中で、声がした。殲滅を、継続せよ、と。……それが外から来た声なのか、わたしの考えなのか、わからなかった。わたしは、ただ、見ていた。わたしの腕が、持ち上がるのを。わたしの指が、引き金を絞るのを」
暗がりの向こうで、ユノの呼吸が、浅くなった。
「貨車の陰から、猟銃を持った、年をとった男の人が、飛び出してきた。震える手で、撃ってきた。弾は、ずいぶん遠くを抜けていった。身体は……撃ち返した」
「……猟銃」
ユノの声が、ひび割れた。
「押収物、猟銃。散弾銃。……反乱分子の武器って、書いてあった」
わたしは、答えなかった。答えは、もう、ユノの中にあった。避難所で、家族を守ろうとした老人の古い猟銃が、塔の記録の中で、反乱分子の武器になっていた。
ユノは、丸椅子から立ち上がった。暗がりの中を、二、三歩、歩いて、立ち止まった。それから、また戻ってきて、座った。膝の上の拳銃を、両手で握りしめたまま。
わたしは、その先を、話さなかった。
貨車の上に立っていた少年のことを。胸もとで明滅していた、小さな赤い灯のことを。大きく開けた口のことを。
話せなかった。話せば、何かが、決まってしまう気がした。
塔の地下で、ユノは、弟の声を聞いた。兵隊さんが、来ました、と。助けに来てくれたんだと思います、と。あの少年の胸で明滅していた赤い灯と、その声とを、わたしの中で結びつけてしまうことが、わたしは、何よりも怖かった。
「ねえ」
しばらくして、ユノが言った。
「身体が勝手に動いた、って、あなたは言う。あの男の首を折ったときも。塔で、わたしを撃ったときも。……じゃあ、そのとき、あなたは、どこにいたの」
わたしは、目を開けた。
暗い天井を見たまま、言葉を探した。
「わたしの中には、時間が、ふたつある」
「……ふたつ?」
「ひとつは、身体の時間」
わたしは、言った。
「身体の時間は、細かい。一秒が、十にも、百にも、刻まれている。身体は、その刻みの一つひとつで、見て、量って、決めて、動く。わたしが、何かを思うより先に。わたしが、危ない、と思ったときには、身体は、もう、跳んでいて、もう、撃っていて、もう、終わっている」
ユノは、黙って聞いていた。
「もうひとつは、わたしの時間」
「……あなたの」
「ゆっくりで、重くて、どこにも、手が届かない時間。わたしは、そこから、身体の時間を、見ている。硝子の向こうの出来事みたいに。叫んでも、硝子の向こうには、届かない」
わたしは、縛られた手首の先で、指を、少しだけ動かした。
「ふだんは、ふたつの時間は、重なっている。わたしが歩こうと思えば、身体は歩く。話そうと思えば、話す。でも、戦うときは、ずれる。身体の時間が、わたしの時間を、置いていく。……塔で、あの声が標的確認と言ったとき、わたしは、わたしの時間の中へ、突き落とされた。自分の背中を、後ろから、見ていた」
懐中電灯の光が、床の上で、ユノの靴の爪先を照らしていた。
「雨の駅でも、そうだった」
長い沈黙があった。
「……それ、証言だよ」
やがて、ユノが言った。
「塔の記録には、あの夜、あの駅にいた兵隊のことは、何も書いてなかった。部隊の名前も、封印。顔も、塗りつぶされてた。……記録にない兵隊が、ここにいて、あの夜のことを話してる。だったら、それを書き残すのが、わたしの仕事」
ユノは、立ち上がって、机の引き出しを開けた。中から、医者が使っていたらしい、黄ばんだ診療記録の束を取り出す。その裏の白い面を上にして、机の上に置いた。ポケットから、ちびた鉛筆を出す。
「手帳は、塔の地下に置いてきちゃったから」
ユノは、机に向かった。
「もう一度、最初から話して。……わたしが、書く」
わたしは、もう一度、最初から話した。
雨の駅。四人の足音。殲滅を継続せよ、という声。猟銃の老人。そして、ふたつの時間。
ユノの鉛筆が、紙の上を走る音だけが、暗い診療所に響いていた。
ユノは、途中で、一度も手を止めなかった。安置所のカウンターで、名前のない人々を、一行ずつ台帳に刻んでいたときと、同じ速さで。
書き終えると、ユノは、鉛筆を置いた。
「ひとつだけ、訊く」
ユノは、わたしのほうを見なかった。紙の上の、自分の字を見ていた。
「身体が撃っていたとき、それを見ていたあなたは、……何を、感じてたの」
わたしは、答えようとした。
怖かった。やめてほしかった。叫んでいた。
そのどれもが、本当だった。けれど、そのどれを口にしても、あの駅で死んだ人たちの前では、言い訳にしかならない気がした。
「……見ていた」
わたしは、それだけ言った。
「全部、見ていた」
ユノは、紙の最後の行に、何かを書き足した。
わたしには、見えなかった。




