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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第三章 記録にない兵士

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六 照準

 わたしは、わたしの背中を見ていた。


 雨の駅のときと、同じだった。わたしは、いつの間にか、自分の身体の少し後ろ、少し上に浮かんでいた。そこから、自分の肩を、自分の後頭部を、自分の右腕を、見下ろしていた。


 右腕が、腰へ動いた。


 拳銃を抜く。親指が、安全装置を外す。腕が、持ち上がる。一連の動きには、ためらいも、無駄も、ひとつもなかった。


 銃口の先に、ユノの顔があった。


 照準の中心に、ユノの眉間がある。


 ユノは、操作盤の前に屈みこんだまま、わたしを見上げていた。濡れた頬。読み出し器を握った手。見開かれた目。その目が、わたしの顔から、わたしの手の中の拳銃へ、そしてもう一度、わたしの顔へ戻った。


 やめろ、とわたしは言った。


 言ったつもりだった。けれど、動いたのは、わたしの口ではなかった。唇は、固く閉じたままだった。


 人差し指が、引き金にかかる。


 やめて。


 わたしは叫んだ。浮かんだ場所から、わたしの背中に向かって、声の限りに。身体は、振り向きもしなかった。わたしの声は、どこにも届いていなかった。雨の駅で、少年の叫びが、わたしに届かなかったように。


『標的確認』


 合成の声が、もう一度、読み上げた。


 指に、力がこもる。


 その瞬間、ユノが、読み出し器の線を、操作盤から引き抜いた。


『標的確――』


 声が、途中で切れた。


 ほんのわずかに、銃口が揺れた。糸を切られた人形の手が、一瞬だけ宙に迷うように。


 銃声が、墓地の天井に弾けた。


 ユノの頬の横を、何かがかすめた。ユノの短い髪が、ひと房、宙に散る。弾は、ユノの背後の黒い箱に食いこみ、赤い灯を、火花と一緒に砕いた。


 ユノは、床に身を投げた。


 転がりながら、黒い箱と箱のあいだへ飛びこむ。身体の銃口が、それを追う。二発目。箱の角が弾ける。ユノの姿が、黒い列の奥へ消えた。


 身体は、追った。


 足音を立てずに、黒い箱の列のあいだを、滑るように進んでいく。わたしは、その少し後ろに浮かんだまま、引きずられていった。


 どこかで、ユノが、息を殺していた。


 けれど、心臓の音は、殺せなかった。一分間に、百七十。暗闇の中で、それは、鐘のように鳴っていた。身体の耳は、その音の方角を、一歩ごとに、正確に絞りこんでいく。


 右。二列先。箱の陰。


 身体が、二列先の箱の角を回りこんだ。


 誰もいなかった。


 床の上に、ユノの手帳が、開いたまま落ちていた。わざと、音を立てて放ったのだ。身体は、手帳には目もくれなかった。耳は、手帳が落ちた方角ではなく、その反対側で、必死に殺されている呼吸の音を、もう拾っていた。


 左。三つ先の箱。


 身体の足が、そちらへ向く。一歩。もう一歩。箱の縁から、ユノの靴の爪先が、ほんのわずかに覗いていた。震えていた。


 ユノ、逃げて。


 わたしは、声にならない声で叫びつづけた。


 天井の赤い灯が、一斉に、回りはじめた。


『封印記録庫にて、発砲を確認。区画を閉鎖します。職員は、ただちに退避してください』


 警報が、冷たい空気を引き裂いた。


 墓地の入口の、鋼の扉が、左右から、ゆっくりと閉じはじめた。


 ユノが、箱の陰から飛び出した。


 入口へ向かって、まっすぐに走る。十メートル。閉じていく扉の隙間は、もう、人の肩幅ほどしかない。


 身体が、膝をついて、構えた。


 ユノの背中が、照準の中心に入る。


 ユノが、扉の隙間に、身体を投げこんだ。


 身体が、跳んだ。撃つより、捕らえるほうが確かだと判断したのだ。三歩で扉に達し、閉じかけた隙間へ、拳銃を握った右腕を差しこむ。


 鋼の扉が、その腕を挟んだ。


 骨が軋む。いや、骨ではない何かが、ぎしりと鳴った。手が開き、拳銃が、指から滑り落ちる。拳銃は、扉の隙間の、向こう側の床に落ちて、ユノの足もとへ、くるくると回りながら滑っていった。


 扉の向こうで、ユノが、それを拾い上げるのが見えた。


 身体は、腕を引き抜いた。


 鋼の扉が、重い音を立てて、閉じた。


 わたしと、ユノのあいだに。


 閉じる寸前の隙間から、ユノの顔が見えた。拾い上げた拳銃を胸に抱え、床に座りこんだまま、わたしを見ていた。ユノが見ていたのは、わたしの顔ではなかった。わたしの顔の奥の、わたしではない何かだった。


 墓地の奥で、別の扉が開く音がした。


 保安服の男たちが、四人、なだれこんでくる。そのあとから、番犬が一体。男たちの小銃は、さっきの二人のものとは違っていた。銃身が太く、弾倉に、黄色い帯が巻かれている。


「対義体弾だ。脚を狙え!」


 身体は、振り向いた。


 ユノという標的を失った身体は、次の標的を、もう選び終えていた。武器を持った者。脅威の高い順に。


 番犬が、跳びかかってきた。


 身体は、黒い箱を蹴って宙に上がり、番犬の背に落ちた。首に腕をかけ、ひねる。金属の悲鳴。そのまま、動かなくなった番犬の身体を盾にして、男たちのほうへ突進する。


 銃声が、重なった。


 番犬の装甲が、弾け飛んだ。黄色い帯の弾が、鋼を紙のように貫いて、わたしの左の肩に、食いこんだ。


 熱かった。


 ただ熱いだけではなかった。肩の奥で、何かが、弾けて、ひろがった。千本の針が、肩から腕へ、首へ、背中へ、根を張るように刺さっていく。


 身体が、ぐらりと傾いた。


 二発目が、右の腿を撃ち抜いた。


 身体は、それでも止まらなかった。倒れこむように男の一人に組みつき、小銃をもぎ取り、銃床で、二人目の顎を打ち上げる。三人目の銃口が、わたしの頭へ向く。身体の手が、もぎ取った小銃を、そちらへ――


 流れ弾が、操作盤を撃ち抜いた。


 九―〇〇〇一の箱の足もとで、操作盤が、青い火花を噴いて弾けた。画面が砕け、読み上げの声の、最後の残響のような雑音が、ぷつりと途切れた。


 世界が、わたしの中に、落ちてきた。


 浮かんでいた場所から、身体の内側へ、叩きつけられるように。わたしは、わたしの目で、床を見ていた。わたしの手が、小銃を握っていた。わたしの肩が、燃えるように痛んでいた。


 身体が、わたしに、返されていた。


 足もとで、顎を打たれた男が、呻いていた。胸の青い灯が、乱れながらも、明滅を続けている。生きている。わたしは、そのことに、自分でも驚くほど、深く安堵していた。


 三人目の男が、引き金に指をかけていた。


 わたしは、小銃を投げ捨てた。


 撃たなかった。撃てなかった。わたしは、床を転がり、黒い箱の陰へ這いこんだ。銃声が、背後の箱を削る。


 墓地の壁ぎわに、太い管が、何本も走っていた。記録を冷やすための、冷却の管。その管が壁に潜りこむ場所に、点検用の、四角い蓋があった。


 わたしは、動く腕一本で、蓋を引き剥がした。


 管の中へ、頭から滑りこんだ。


 冷たい水が、全身を包んだ。管は、ゆるやかな傾きで、下へ、下へと続いていた。わたしは、流れに身を任せた。背後で、男たちの叫び声が、遠ざかっていく。


 闇の中を、どれほど流されたのか。


 流れの中で、わたしは、何度も、ユノの顔を思い出していた。照準の中心にあった、見開かれた目を。


 肩の傷に、指を当てた。


 傷は、塞がらなかった。


 安置所で撃たれたときには、見ているうちに寄り合っていった傷口が、今度は、いつまでも開いたままだった。その奥に、硬い、小さなものが残っている。弾の、欠片。その欠片のまわりで、何かが、塞がろうとしては、弾かれ、また塞がろうとしては、弾かれていた。


 指先に、とろりとしたものが絡んだ。


 暗闇の中で、それが何色なのか、わたしには、見えなかった。

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