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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第三章 記録にない兵士

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七 雨が、降っていた

 川は、雨に打たれて、沸き立つように泡立っていた。


 取水路の口から吐き出されたわたしは、黒い水に揉まれながら、下流へ流されていった。右の脚は、もう、ほとんど動かなかった。左の腕も。わたしは、残った腕と脚で、少しずつ、岸のほうへ水を掻いた。


 背後で、塔が、赤く染まっていた。


 頂で回る光の環が、白から、赤に変わっていた。赤い光が、ひと巡りするたびに、雨に煙る街を、血の色に撫でていく。サイレンが、あちこちで鳴り交わしていた。


 南の橋が、雨の向こうに見えてきた。


 一本目の橋脚。二本目。


 三本目の橋脚の根もとの、石積みの岸に、わたしは、這い上がった。


 橋の下は、暗かった。雨が、橋の縁から、簾のように落ちている。その簾の内側の、乾いた石の上に、人影がひとつ、立っていた。


 ユノだった。


 ずぶ濡れだった。短い髪が額に貼りつき、頬に、細い赤い線が一本、走っていた。弾がかすめた痕だった。


 ユノは、両手で、拳銃を握っていた。


 銃口は、まっすぐに、わたしを向いていた。


「動かないで」


 声は、震えていなかった。震えていたのは、銃口のほうだった。


 わたしは、石の上に膝をついたまま、動かなかった。


 雨の音だけが、しばらく、橋の下を満たしていた。


「あの声が、標的確認って言った」


 ユノが、言った。


「そうしたら、あなたは、わたしに銃を向けた。……迷わなかった。一瞬も」


「わたしじゃない」


 声が、かすれた。


「身体が、勝手に。わたしは、止めようとした。でも――」


「前にも、同じことを言ってた」


 ユノの声が、低くなった。


「あの男の首を折ったときも。身体が、先に動いたって」


 わたしは、答えられなかった。


「映像の兵隊は、四人だった」


 ユノは、銃口を下げなかった。


「あなたの仲間も、四人。……九の案内板が映ったとき、あなた、知ってる顔をしてた。わたし、見てたの。死んだ人の家族が、遺体の顔を確かめるときと、同じ顔だった」


 ユノの声が、はじめて、ひび割れた。


「イオは……助けに来てくれたって、言ってた。兵隊さんが、来てくれたって。……みんな、もう大丈夫だって」


 わたしの肩から、とろりとしたものが、腕を伝って、石の上に落ちた。雨が、それを、すぐに洗い流していった。


「答えて」


 ユノの指が、引き金にかかっていた。


「あなたは、第九にいたの?」


 わたしは、口を開いた。


 わからない、と言おうとした。昨日までなら、それは、嘘ではなかった。


 けれど、今は、もう、嘘だった。


 錆びた案内板。硝子の天蓋。照明弾の白い光。四つの揃った足音。胸もとで明滅する、小さな赤い灯。


 わたしは、それを、知っていた。


 知っていて、言わなかった。安置所の氷の上で、イオの写真を見たときも。書庫の名簿の壁の前でも。わたしは、ずっと、黙っていることを選んできた。


「……雨が」


 わたしは、言った。


「雨が、降っていた」


 ユノの顔から、表情が、消えた。


 銃口が、大きく揺れた。ユノは、それを、両手で押さえこむように握り直した。唇が、何か言いかけて、形にならずに、閉じた。


 あの夜、第九避難所に、雨が降っていたことを、ユノは知っている。今夜、黒い箱の画面の中で、見たのだから。硝子の天蓋を叩く雨の音を、弟の声の後ろで、聞いたのだから。


 長い、長い沈黙だった。


 橋の上を、サイレンが、走り抜けていった。一台。もう一台。赤い光が、雨の簾を透かして、ユノの濡れた頬を、一瞬だけ照らした。


「……撃たないの」


 わたしは、訊いた。


「撃たない」


 ユノは、言った。


「今は。……本当のことを、全部知るまでは」


 ユノは、銃口を、わたしの胸から、わずかに下げた。けれど、引き金から、指を離さなかった。


「立って」


 わたしは、橋脚に手をついて、立ち上がった。右の脚が、崩れかけた。ユノは、手を貸さなかった。


「その傷、塞がってない」


「……弾の欠片が、中に残ってる」


 ユノは、わたしの肩の傷を、少しのあいだ見ていた。記録係の目で。遺体の傷を、一つずつ台帳に書きつけるときの目で。


 ユノの唇が、かすかに動いた。ひとつ、ふたつ。撃たれた穴の数を、数えているのだとわかった。


「地下に、診療所がある」


 やがて、ユノは言った。


「届けを出せない怪我人のための、もぐりの診療所。医者は、もういないけど。……うちの安置所に、そこから遺体が運ばれてきたことがある」


 ユノは、拳銃を持ち直して、橋の下の、暗い路地の口を顎で示した。


「歩いて。わたしの前を」


 わたしは、歩きだした。


 雨の中へ。ユノの銃口を、背中に感じながら。


 背中の、ちょうど心臓の裏あたりに、見えない冷たい点がひとつあった。ユノの指が、ほんの少し力をこめれば、そこに穴が開く。わたしは、その点を感じながら、一歩ずつ、脚を引きずって歩いた。


 黒い画面の中で、時刻だけが進みつづけていた、十三分。


 顔を塗りつぶされた、四つの影。


 封印された、指揮官の名前。封印された、部隊の名前。


 塔の記録の中に、わたしの名前は、どこにもなかった。番号さえ、なかった。あの夜、あの駅にいた兵士は、記録のどこにも、存在していなかった。


 けれど、わたしの身体は、覚えていた。


 引き金の重さを。標的確認、という声に、振り向く速さを。


 わたしの記憶の白い壁の向こうに、あの黒い十三分がある。そして、その十三分の中に、少年が、口を開けて立っている。


 背中で、ユノの足音が、わたしの足音のすぐ後ろを、ついてきていた。


 一分間に、百二十の心臓の音と一緒に。


 わたしの胸の中で、わたしの鼓動は、雨の中でも、正確に、六十を刻みつづけていた。

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