五 欠けた映像
通信記録には、いくつもの小さな記録が束ねられていた。
中央司令部の交信。部隊間の交信。そして、そのいちばん下に、ひとつだけ、ほかとは違う番号がついていた。
『九―〇七一一
第九避難所 臨時無線通信記録』
ユノの指が、その上で、止まった。
三十九回、申請書に書いた番号だった。
指が、震えていた。ユノは、震える指先で、それに触れた。
操作盤の小さな拡声器から、雑音が流れ出した。
雨の音だった。
硝子の天蓋を叩く、激しい雨の音。遠くで、人々のざわめき。子どもの泣き声。そして、そのすぐ近くで、息を切らした、若い声がした。
『――こちら、第九避難所。連絡係の、イオです。第四、聞こえますか』
ユノの肩が、跳ねた。
『兵隊さんが、来ました。中央軍の、兵隊さんです』
声は、弾んでいた。緊張して、それでも、懸命に落ち着いた口調を作ろうとしている、十七歳の少年の声。
『助けに、来てくれたんだと思います。これで、みんな、もう大丈夫――』
音が、途切れた。
雨の音も、ざわめきも、泣き声も、一度に消えた。拡声器は、ただの沈黙を吐き出していた。
画面に、赤い文字が浮かんでいた。
『二三時〇四分〇〇秒以降 記録欠落』
ユノは、動かなかった。
それから、両手で、自分の口を覆った。
声を殺していた。けれど、肩が、震えていた。十か月ぶりに聞いた、弟の声だった。
ユノの指が、もう一度、同じ記録に触れた。
『――こちら、第九避難所。連絡係の、イオです』
もう一度。
『これで、みんな、もう大丈夫――』
三度目の沈黙のあとで、ユノは、ようやく指を離した。頬が、濡れていた。ユノはそれを、拭おうともしなかった。
わたしは、立っていた。
右手の人差し指が、ぴくりと動いた。引き金を絞るように、一度だけ、曲がった。わたしは、その手を、腿に強く押しつけた。
兵隊さんが、来ました。
助けに、来てくれたんだと思います。
あの少年は、そう信じていた。天蓋の下に踏みこんでくる四つの影を、救いだと思って、無線の送信の釦を押していた。
照明弾の白い光。貨車の上に立つ少年。濡れた前髪。その胸もとで、雨に打たれながら明滅していた、小さな赤い灯。
あれは、無線の、送信の灯だったのだ。
白く冷たい壁が、そこに立った。壁の向こうで、少年が、大きく口を開けていた。
「……映像も、ある」
ユノが、かすれた声で言った。
「見る。……全部、見る」
ユノの指が、作戦映像に触れた。
画面が、灰色に揺れた。
上空からの映像だった。監視用の飛行機械が、雨の夜空から見下ろしている。暗視の、緑がかった灰色の世界。雨粒が、画面を斜めに横切っていく。
線路が、何本も並んでいた。錆びた貨車の列。その向こうに、巨大な鉄骨のアーチと、硝子の天蓋。天蓋の下に、ぽつりぽつりと、小さな灯りがともっている。避難した人々の、ランプの灯りだった。
ホームの端に、錆びた案内板が立っていた。剥げかけたペンキで、大きな数字がひとつ、描かれている。
九。
知っていた。
わたしは、この案内板を、知っていた。
画面の隅の時刻が、二十三時三分を刻んでいた。
線路の上を、四つの影が、駅へ向かって歩いていた。
四人とも、同じ装備で、同じ歩幅で、同じ角度に銃を構えている。四人の足どりは、完全に揃っていた。まるで、一匹の大きな生き物が、四本の脚で歩いているように。
崩れた橋を渡った夜の記憶が、胸の奥で、ひやりと動いた。止まれ、の合図を見るより先に、四人とも止まっていた夜。声を出さなくても、互いの次の一歩がわかった夜。
「兵隊が……四人」
ユノが、つぶやいた。
そして、わたしを見た。
ほんの一瞬だった。ユノの目は、すぐに画面に戻った。けれど、その一瞬の視線を、わたしの身体は、正確に捉えていた。
二十三時三分五十八秒。五十九秒。
四つの影が、天蓋の下へ、踏みこんでいく。
二十三時四分、〇〇秒。
画面が、黒くなった。
『映像欠落
二三時〇四分〇〇秒~二三時一六分五九秒』
黒い画面の隅で、時刻だけが、進みつづけていた。
四分。五分。六分。何も映っていない闇の中で、数字だけが、一秒ずつ、確かに時を刻んでいく。この黒い画面の向こうで、何かが起きていた。十三分のあいだ。三百人に。
わたしは、その黒を、見つめていた。
知っている、と思った。
この黒い切り口を、わたしは知っている。わたしの記憶の中で、少年が口を開けた瞬間に立ちはだかる、あの白く冷たい壁。色は違う。けれど、手触りが、同じだった。刃物で、すっぱりと切り落とされた縁の、なめらかさが。
まるで、誰かが、わたしの目の中から、あの夜を、切り取っていったように。
二十三時十七分、〇〇秒。
映像が、戻った。
硝子の天蓋が、なくなっていた。鉄骨のアーチだけが、骨のように残り、そのあいだから、雨が、まっすぐに、駅の中へ降りこんでいる。
ランプの灯りは、ひとつも、ともっていなかった。
ホームの上に、線路の上に、貨車のあいだに、黒いものが、いくつも、いくつも、横たわっていた。雨に打たれて、動かなかった。
ユノが、息を呑む音がした。
ユノの指が、画面の、黒いものの一つに伸びかけて、止まった。あの中の、どれかが。貨車の上か、ホームの端か。ユノは、その指を、自分の胸に引き寄せた。
黒いもののあいだを、四つの影が、一列になって、駅の外へ歩いてくるところだった。
いちばん後ろの影が、足を止めた。
そして、ゆっくりと、上を見上げた。
雨の夜空の、監視機械のほうを。画面の、こちら側を。
その顔は、滲んでいた。
磨りガラスを、はめこんだように。目も、鼻も、口も、輪郭だけを残して、白っぽくぼやけている。記録を封じた誰かが、そこだけを、塗りつぶしたのだろう。
わたしの記憶の中の、三人の顔と、同じだった。
どうしても像を結ばない、ロクマルの顔。ロクイチの顔。ロクニの顔。あの滲み方と、寸分違わず、同じだった。
ユノの指が、画面の隅の、音声の印に触れた。
「……音も、あるはず」
映像の音声は、なかった。代わりに、画面の下に、文字の列が流れはじめた。音声を書き起こした、交信の記録だった。操作盤が、それを、平板な合成の声で、読み上げはじめた。
『二三時〇四分〇〇秒。中央司令部より、実行部隊へ』
抑揚のない、男とも女ともつかない声。
『標的確認』
身体が、振り向いた。




