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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第三章 記録にない兵士

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一 塔の喉

 夜の川面に、塔が映っていた。


 窓ひとつない白い円柱が、黒い水の上で、細かな雨に打たれて揺れている。その頂で、光の環がゆっくりと回っていた。環がひと巡りするたびに、水面の塔も、ひと巡りずつ光を撒いた。


 兵舎が燃えた日の、翌日の夜だった。停戦記念式典まで、あと十一日と少し。


「もう一度、確認する」


 川べりの葦の陰で、ユノが、ひび割れた端末の画面を指でなぞった。


 回収官の端末には、塔の断面図が残っていた。消去作業に関わる者に配られた、作業区画図だった。地上部は、遺族の閲覧室と、式典の会場。その上に、何十層もの一般記録庫。そして地面の下へ、七つの層が沈んでいる。いちばん底に、四角く囲われた区画があった。


 『地下七層 封印記録庫

  消去作業区画』


「イオの記録は、まず一般記録庫で探す。公式の記録。……そこに何が書いてあるか、この目で確かめたい」


 ユノは、断面図の底を指で叩いた。


「それから、地下七層。封印された記録は、塔の外からは、どうやっても見られない」


 消去対象の一覧には、封印された記録の番号と一緒に、消去作業のための一時解除鍵が並んでいた。消すためには、まず開けなければならないのだ。塔は、自分の秘密を消すための鍵を、消す者たちに持たせていた。


「はぐれたら」


 わたしは言った。


「南の橋の、三本目の橋脚の下」


「……はぐれないで」


 それから、ユノは、黒い取水路の口を見やって、小さく付け足した。


「……わたし、泳ぐの、得意じゃない」


「わたしが、引く」


 ユノは、何も言わずに頷いた。


 ユノは、端末を油紙に包んで、鞄の底に押しこんだ。


 断面図の隅に、細い線が一本、塔の地下から川へ伸びていた。河川取水路、第三系統。塔の地下で唸りつづける無数の記録装置を冷やすために、川の水を吸いこむ管だった。


 その口が、わたしたちの足もとにあった。


 護岸のコンクリートに、黒い半円の口が開いている。錆びた鉄格子の奥で、川の水が、音もなく吸いこまれていた。


 身体は、格子の太さと、錆の深さを見た。


 両手で、二本の格子を掴んだ。力をこめると、錆の皮が剥がれ落ち、鉄が、低く呻きながら左右に開いていった。人がひとり、身体を横にして通れるだけの隙間。


「行こう」


 水は、腰まであった。


 夏の夜だというのに、水は冷たかった。流れが、脚に絡みつき、奥へ奥へと引いていく。ユノが、わたしの上着の背を掴んだ。ランプは点けなかった。暗闇の中で、わたしの目だけが、管の壁の継ぎ目を、ぼんやりと見分けていた。


 五十メートル。百メートル。


 水位が、上がってきた。胸まで。肩まで。


 前方で、管の天井が、水面の下に沈んでいた。


「ここから先は、潜る」


 わたしは、身体が数えた距離を告げた。


「二十メートル。わたしが、引く」


 ユノは、暗闇の中で、何度か浅く息を吸った。それから、わたしの腕を掴む指に、力をこめた。


 潜った。


 音が、消えた。


 冷たく、重い闇だった。流れが、背中を押す。身体は、片腕でユノを抱え、もう片方の腕で管の壁の継ぎ目を掴み、ひとつ、またひとつと、闇の中を手繰っていった。ユノの心臓の音が、水を伝って聞こえた。速い。速くなっていく。


 十メートル。


 ユノの指が、わたしの腕に、爪を立てた。


 十五メートル。


 ユノの身体が、もがきはじめた。


 二十メートル。


 水面を、突き破った。


 ユノが、喉を鳴らして空気を吸いこみ、激しく咳きこんだ。わたしは、ユノの顔を水の上に持ち上げたまま、壁の手すりを掴んだ。わたしの息は、ほとんど乱れていなかった。


 そこは、広い円筒形の部屋だった。


 足もとの水の底で、何かが回っていた。


 巨大な羽根車だった。家一軒ほどもある鉄の羽根が、水の中で、ゆっくりと、重く回転している。回るたびに、水が渦を巻き、わたしたちの脚を、羽根のほうへと引きずりこもうとした。


 ユノの身体が、ずるりと沈んだ。


 身体は、手すりを掴んだ腕一本で、自分とユノの二人分の重さを支えた。肩が軋む。渦の力が、ユノの脚を、羽根の縁へ引いていく。


「手すりに、掴まって」


 ユノの指が、錆びた鉄を掴んだ。わたしは、ユノの腰を下から押し上げ、壁に打ちこまれた梯子へ、その身体を押しつけた。ユノが、一段ずつ這い上がっていく。わたしは、その下から続いた。


 梯子の上は、点検用の足場になっていた。


 ユノは、足場の上に四つん這いになって、しばらく、水を吐きつづけた。


 わたしは、足場の手すりから、下を覗いた。黒い水の底で、羽根車が、変わらぬ速さで回りつづけていた。


 足場の先の扉を抜けると、空気が変わった。


 温かかった。湿った熱気と、機械の油の匂い。天井まで届く太い管が何十本も林立し、そのあいだを、白い湯気が漂っている。管の中を、水が流れる音。どこか遠くで、何千、何万もの機械が、低く、途切れなく唸っていた。


 塔が、呼吸していた。


 壁の配電盤に、小さな札が掛かっていた。式典当日、消去作業中は冷却系統を最大出力とすること。消去には、それだけの熱が要るのだ。戦争のあいだじゅうに書かれた記録を、ひと晩で消し去るための熱が。


 この白い塔の中に、戦争のあいだに書かれた、ありとあらゆる記録が眠っている。その記録を冷やしつづけるために、塔は、夜も昼も、川の水を吸いこみ、熱を吐き出していた。


 あと十一日で、そのすべてが、消される。

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