七 燃える兵舎
廊下の突き当たりの、正面の扉が、内側へ吹き飛んだ。
橙色の炎が、廊下になだれこんできた。粘つく火の塊が、床に、壁に、天井に、べったりと貼りつき、そこから新しい炎を噴き上げる。焼却機の長い首が、壊れた扉口から、廊下の奥へと、ゆっくり差しこまれてくるのが見えた。
黒い煙が、天井を這って、こちらへ流れてきた。
非常灯が、ひとつ、またひとつと、消えていった。
「口を、塞いで」
わたしはユノの鞄から布を引き出し、ユノの口もとに押し当てた。ユノは咳きこみながら、鞄を胸に抱えこんだ。三つの品と、写真機の入った鞄を。
出口は、もうひとつ。わたしたちが入ってきた、脇の扉。炎が届く前に、あそこまで――。
身体が、止まった。
煙の向こうから、足音がした。
四本の脚が、交互に床を蹴る音。鉤爪が、コンクリートを噛む音。脇の扉のほうから、まっすぐに、この部屋へ向かってくる。
番犬だった。
身体は、ユノを、ロクニのベッドの下へ押しこんだ。
部屋の中は、もう、煙で満ちはじめていた。天井近くは、黒い雲の底のようだった。赤い炎の照り返しが、その雲を、下から不気味に染めている。
番犬の、六つのレンズの駆動音がした。せわしなく焦点を合わせては、外す音。
この煙と炎の中では、あの目は、役に立たない。熱を見る目も。どこもかしこも、燃えているのだから。
だから、あの機械は、耳で探すはずだ。
身体は、折り畳み机の上に手を伸ばした。
金属のカップを、掴んだ。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
身体は、右の二段ベッドの枠を蹴って、上の段へ跳び上がった。わたしの寝台へ。天井の、煙の雲の底へ。
番犬が、部屋の入口に現れた。
低く身をかがめ、六つのレンズを左右に振っている。背中の銃身が、ゆっくりと、部屋の中を舐めていく。
ロクニのベッドの下で、ユノが、咳を殺した。
ほんの小さな音だった。けれど、番犬の銃身は、ぴたりと止まり、ゆっくりと、ロクニのベッドのほうへ下がっていった。
ユノの心臓の音が、聞こえた。一分間に、百四十。
身体は、もう、腕を振りかぶっていた。
身体が、ひとつめのカップを投げた。
部屋の奥の、左の隅へ。
ロクマルのカップが、壁に当たって、甲高い音を立てた。
番犬の銃身が、一瞬で、そちらを向いた。連射。壁が、火花を散らして砕けた。
ふたつめ。入口の脇の、右の隅へ。
ロクイチのカップが、床を跳ねて、鐘のように鳴った。
番犬が、振り向く。撃つ。
みっつめ。ロクニのベッドの、反対側へ。ユノの隠れている場所から、いちばん遠いところへ。
ロクニのカップが、転がって、長く、細く、鳴りつづけた。
番犬が、その音を追って、部屋の奥へ一歩踏みこみ、わたしの寝台の真下に来た。
身体は、上の段から、落ちた。
番犬の背中に、膝から着地する。灰色の装甲板が軋む。番犬が暴れる前に、身体の両腕は、もう、その短く太い首に巻きついていた。
ひねった。
金属の悲鳴が、炎の音に呑まれた。
レンズの光が、消えた。
わたしは、動かなくなった番犬の背から下りた。
四つ目のカップが、わたしのジャケットのポケットに入っていた。
身体は、それを投げなかった。三つを投げ、わたしのカップだけを残した。それが、ただ三つで足りるという計算だったのか、それとも、わたしが、それを投げさせなかったのか。わたしには、わからなかった。
三人のカップは、煙の底の、どこかに転がっていた。
「ユノ」
ベッドの下から、ユノが這い出してきた。顔が、煤で黒くなっていた。
廊下は、もう、炎の川だった。
脇の扉まで、十五メートル。そのあいだの床にも壁にも、粘つく炎が貼りついて、燃えている。
身体は、倒れた番犬の脇腹に指をかけ、灰色の装甲板を一枚、留め具ごと引き剥がした。わたしの背丈の半分ほどの、湾曲した鋼の板。
わたしはユノを片腕で抱え上げ、もう片方の腕で、装甲板を盾のように炎へ向けた。
「目を、閉じて」
炎の中へ、踏みこんだ。
熱が、顔を叩いた。装甲板の縁から回りこんだ炎が、ジャケットの袖を舐め、裾に燃え移る。髪の焦げる匂い。汗が、滝のように噴き出した。噴き出したそばから、炎の熱に焼かれて、湯気になって消えていく。
熱いはずだった。
なのに、身体の芯は、凍えるように冷たかった。燃える廊下の真ん中で、わたしは、寒気に震えていた。
背後で、焼却機の長い首が、廊下の奥へ、さらに差しこまれてくる音がした。噴き口が、息を吸いこむように、一瞬、静かになる。
身体は、ユノを抱えたまま、跳んだ。
背中を、炎の奔流が薙いだ。
脇の扉を、肩で突き破った。
外の光と、夏草の匂いが、わたしたちを包んだ。
わたしは、燃えるジャケットを脱ぎ捨て、ユノを抱えたまま、雑草の中を転がった。背中の火が、土と草に揉み消されていく。
「……見せて」
咳きこみながら、ユノが、わたしの背中に手を伸ばした。
「あとで」
わたしは、ユノの手首を掴んで、立ち上がらせた。
広場の向こうで、保安服の男たちが、何かを叫びながら、こちらを指さしていた。
乾いた銃声が、二つ、続けざまに鳴った。
足もとの草が、弾けて飛んだ。身体は、ユノを抱えこむように引き寄せ、自分の背中を、銃声とユノのあいだに置いた。三発目が、わたしの耳のすぐ横の空気を裂いた。
そのとき、兵舎の屋根の上で、何かが弾けた。燃え移った炎が、屋根に積まれていた古い燃料の缶に届いたのだ。橙色の火の玉が膨れ上がり、黒い煙が、広場を一瞬で覆い隠した。男たちの叫び声が、煙の向こうで、咳きこむ声に変わった。
煙が、斜面を流れていた。わたしはユノの手を引き、煙の帯の中を、蔦のフェンスへ走った。フェンスを越え、夏草の斜面を、転がるように駆け下りた。
背後で、轟音がした。
振り返ると、兵舎の低い屋根が、炎の中へ、ゆっくりと沈んでいくところだった。
二つの二段ベッドも。埃の中の、人の形も。板の裏に刻まれた、四つの手の文字も。床に転がった、三つのカップも。すべてが、黒い煙になって、夏の空へ昇っていった。
燃えていくのは、わたしの昨日だった。三人と眠った、最後の夜。明日の朝、また表に返すはずだった、伏せたカップ。わたしが昨日だと信じていた、十か月前の、あの部屋。
丘の中腹の、大きな岩の陰で、わたしたちは、ようやく足を止めた。
ユノは、膝をついて、長いこと咳きこんでいた。それから、震える手で、鞄の口を開けた。
海の写真に包まれた、止まった時計。携行食の包み紙で折った、鳥。布にくるんだ、録音機。
写真機の小さな画面の中の、四つの手の文字。
ひとつも、欠けていなかった。
ユノは、それを確かめると、鞄を胸に抱いたまま、空を見上げた。
「……残った」
それから、ユノは、わたしの顔を見た。
「あなた、燃えてる中で、震えてた」
「寒かった」
ユノは、何か言いかけて、やめた。煤で黒くなった顔の中で、目だけが、じっとわたしを見ていた。
わたしは、ポケットから、自分のカップを取り出した。
外側は、煤と埃で黒く汚れていた。内側は、きれいなままだった。
丘の下に、街が広がっていた。そのまんなかに、白い塔が、真昼の光の中に立っていた。
「塔へ行こう」
ユノが言った。
「イオの記録を探しに。……それから、あなたたちの記録も」
わたしは、頷いた。
停戦記念式典まで、あと、十二日と十一時間。
名前は、戦争が終わってから。
戦争は、終わった。約束の日は、とうに過ぎた。それなのに、わたしは、まだ、自分の名前を決められずにいる。四人で決めるはずだったものを、ひとりで決める方法を、わたしは知らなかった。
わたしは、ユノの鞄の中の、ロクマルの時計に目を落とした。
ひび割れた硝子の奥で、針は、二十三時十七分を指したまま、止まっている。
この時計が、どの任務で壊れたのか、わたしは、思い出せなかった。
思い出そうとすると、雨の音がした。




