六 名前は、戦争が終わってから
身体が、ロクマルのベッドに横たわった。
わたしが決めたことではなかった。気がつくと、わたしは埃だらけのマットレスの上に仰向けになり、すぐ真上の、わたしの寝台の底を見上げていた。
上の段のマットレスを支える、古い木の板。そこに、何かが刻まれていた。
「ユノ。……灯りを」
ユノが、ランプを差し入れた。
白い光が、板の裏を照らした。
文字だった。
錆びた釘の先で、何度も何度も引っ掻いて刻んだのだろう。木の繊維がささくれ、溝には、十か月分の埃が細く溜まっていた。
『名前は、戦争が終わってから』
一行の文字は、四つの、違う手で書かれていた。
名前は、の三文字は、大きく、太く、板に深々と食いこんでいた。力いっぱい、得意げに。
戦争が、の三文字は、細く、流れるようだった。一本の線が、次の文字へ、歌うように続いていく。
終わって、の四文字は、小さかった。ひどく震えていて、わ、の丸いところが、何度も書き直されていた。
そして、最後の、から、の二文字は、角ばっていた。飾りのない、硬い、まっすぐな線。
わたしは、手を伸ばした。
人差し指の先が、か、の最初の一画に触れた。そのまま、溝をなぞった。
指が、知っていた。
どこで線を止め、どこで折り、どこで跳ねるのか。わたしの指は、一度も迷わずに、その二文字をなぞり終えた。自分の名前を書くときのように。わたしには、書くべき名前などないのに。
――四人で、何かを決めよう。
声が、した。
消灯のあとの暗がり。この下の段から、ロクマルが、上の段の底を見上げて、そう言った。
――何を。
俺が、上の段から訊いた。
――名前。番号じゃない、名前だよ。俺たちの。
暗がりの向こうの下の段で、ロクニが、笑った。
珍しく、声を立てて。それから、毛布の中で、小さく言った。ほしい、と。
――どんな名前が、いい。
ロクマルが訊いた。
――わからない。……でも、呼ばれたら、すぐに振り向けるのがいい。
ロクニの声は、まだ少し、笑っていた。
向かいの上の段で、ロクイチが、旋律を止めた。
みんなが、黙って、次の言葉を待っていた。
そして、俺は――。
――名前は、戦争が終わってからだ。
俺は、そう言ったのだった。
――今つけても、明日なくすかもしれない。終わってから、決めればいい。四人で。
――終わらなかったら?
ロクニが、小さな声で訊いた。
――終わる。
俺は、そう答えた。根拠など、何もなかったのに。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、ロクマルが、暗がりの中で、鼻に皺を寄せて笑う気配がした。
――じゃあ、約束だ。忘れないように、書いとこう。
ロクマルは、どこからか錆びた釘を一本見つけてきて、自分のベッドに仰向けになり、俺の寝台の底に、最初の三文字を刻んだ。それからロクイチが。ロクニが、震える手で。そして最後に、ロクマルに釘を押しつけられて、俺が、この下の段に潜りこんで、残りの二文字を刻んだ。
から。
――から、の先は、終わってから考えればいい。
俺がそう言うと、ロクマルは、声を殺して、いつまでも笑っていた。
記憶は、そこで終わった。
わたしは、四つの手の文字を、ひとつずつ目でたどった。得意げに食いこんだ、ロクマルの三文字。歌うように続く、ロクイチの三文字。震えながら何度も書き直された、ロクニの四文字。そして、硬く、まっすぐな、わたしの二文字。書いた本人たちは、もう、どこにもいない。けれど、手の形だけが、ここに残っていた。
わたしは、板の裏の文字を見上げたまま、動けなかった。
名前は、戦争が終わってから。
戦争は、終わっていた。
十か月前に。
約束の日は、とうに来ていたのだ。三百四日も前に。そのあいだ、三人は、どこかへ連れていかれ、いなくなり、わたしだけが、この板一枚を隔てた上の段で、何も知らずに眠っていた。
四人で決めるはずだった名前を、三人は、決めないまま、いなくなった。
終わってからにしよう、と言ったのは、わたしだった。
わたしが、待たせたのだ。
「……ロクマル」
わたしは、板の裏に向かって、呼んだ。
「ロクイチ。……ロクニ」
名前ではなかった。番号の、下二桁。それしか、呼ぶものがなかった。
返事は、なかった。
身体の芯から、熱が引いていった。汗が、噴き出した。冷たい汗だった。背中が、マットレスに貼りついていく。わたしは、板の裏に指を当てたまま、震えていた。泣いているのだと思った。けれど、目からは、何もこぼれてこなかった。
ユノは、何も言わなかった。
しばらくして、ユノは、わたしの肩にそっと手を置き、場所を代わってほしいと、仕草で伝えた。わたしが床に下りると、ユノは、ロクマルのベッドに仰向けになり、写真機を、板の裏に向けた。
「名前は、戦争が終わってから」
ユノは、板の裏の文字を、一語ずつ確かめるように読み上げた。遺品の札を読み上げるときと、同じ声で。
閃光が、四つの手で刻まれた文字を、白く浮かび上がらせた。
一枚。角度を変えて、もう一枚。
「……記録した」
ユノは、ベッドから這い出して、写真機の小さな画面を、わたしに見せた。四つの手の文字が、そこに、光の粒になって収まっていた。
「燃やされても、これは残る」
そのとき、匂いがした。
焦げる匂いだった。
廊下の非常灯が、ちかちかと瞬いた。遠くで、何か重いものが崩れる音がした。そして、建物の壁を震わせて、低い唸りが近づいてくる。履帯が、コンクリートを噛む音。
身体が、時間を数え直した。
四十分と見積もった時間の、まだ半分も過ぎていなかった。
焼却機は、倉庫を三つ残らず燃やし終えるのを、待たなかったのだ。




