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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第二章 三つの空床

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19/62

六 名前は、戦争が終わってから

 身体が、ロクマルのベッドに横たわった。


 わたしが決めたことではなかった。気がつくと、わたしは埃だらけのマットレスの上に仰向けになり、すぐ真上の、わたしの寝台の底を見上げていた。


 上の段のマットレスを支える、古い木の板。そこに、何かが刻まれていた。


「ユノ。……灯りを」


 ユノが、ランプを差し入れた。


 白い光が、板の裏を照らした。


 文字だった。


 錆びた釘の先で、何度も何度も引っ掻いて刻んだのだろう。木の繊維がささくれ、溝には、十か月分の埃が細く溜まっていた。


 『名前は、戦争が終わってから』


 一行の文字は、四つの、違う手で書かれていた。


 名前は、の三文字は、大きく、太く、板に深々と食いこんでいた。力いっぱい、得意げに。


 戦争が、の三文字は、細く、流れるようだった。一本の線が、次の文字へ、歌うように続いていく。


 終わって、の四文字は、小さかった。ひどく震えていて、わ、の丸いところが、何度も書き直されていた。


 そして、最後の、から、の二文字は、角ばっていた。飾りのない、硬い、まっすぐな線。


 わたしは、手を伸ばした。


 人差し指の先が、か、の最初の一画に触れた。そのまま、溝をなぞった。


 指が、知っていた。


 どこで線を止め、どこで折り、どこで跳ねるのか。わたしの指は、一度も迷わずに、その二文字をなぞり終えた。自分の名前を書くときのように。わたしには、書くべき名前などないのに。


 ――四人で、何かを決めよう。


 声が、した。


 消灯のあとの暗がり。この下の段から、ロクマルが、上の段の底を見上げて、そう言った。


 ――何を。


 俺が、上の段から訊いた。


 ――名前。番号じゃない、名前だよ。俺たちの。


 暗がりの向こうの下の段で、ロクニが、笑った。


 珍しく、声を立てて。それから、毛布の中で、小さく言った。ほしい、と。


 ――どんな名前が、いい。


 ロクマルが訊いた。


 ――わからない。……でも、呼ばれたら、すぐに振り向けるのがいい。


 ロクニの声は、まだ少し、笑っていた。


 向かいの上の段で、ロクイチが、旋律を止めた。


 みんなが、黙って、次の言葉を待っていた。


 そして、俺は――。


 ――名前は、戦争が終わってからだ。


 俺は、そう言ったのだった。


 ――今つけても、明日なくすかもしれない。終わってから、決めればいい。四人で。


 ――終わらなかったら?


 ロクニが、小さな声で訊いた。


 ――終わる。


 俺は、そう答えた。根拠など、何もなかったのに。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 やがて、ロクマルが、暗がりの中で、鼻に皺を寄せて笑う気配がした。


 ――じゃあ、約束だ。忘れないように、書いとこう。


 ロクマルは、どこからか錆びた釘を一本見つけてきて、自分のベッドに仰向けになり、俺の寝台の底に、最初の三文字を刻んだ。それからロクイチが。ロクニが、震える手で。そして最後に、ロクマルに釘を押しつけられて、俺が、この下の段に潜りこんで、残りの二文字を刻んだ。


 から。


 ――から、の先は、終わってから考えればいい。


 俺がそう言うと、ロクマルは、声を殺して、いつまでも笑っていた。


 記憶は、そこで終わった。


 わたしは、四つの手の文字を、ひとつずつ目でたどった。得意げに食いこんだ、ロクマルの三文字。歌うように続く、ロクイチの三文字。震えながら何度も書き直された、ロクニの四文字。そして、硬く、まっすぐな、わたしの二文字。書いた本人たちは、もう、どこにもいない。けれど、手の形だけが、ここに残っていた。


 わたしは、板の裏の文字を見上げたまま、動けなかった。


 名前は、戦争が終わってから。


 戦争は、終わっていた。


 十か月前に。


 約束の日は、とうに来ていたのだ。三百四日も前に。そのあいだ、三人は、どこかへ連れていかれ、いなくなり、わたしだけが、この板一枚を隔てた上の段で、何も知らずに眠っていた。


 四人で決めるはずだった名前を、三人は、決めないまま、いなくなった。


 終わってからにしよう、と言ったのは、わたしだった。


 わたしが、待たせたのだ。


「……ロクマル」


 わたしは、板の裏に向かって、呼んだ。


「ロクイチ。……ロクニ」


 名前ではなかった。番号の、下二桁。それしか、呼ぶものがなかった。


 返事は、なかった。


 身体の芯から、熱が引いていった。汗が、噴き出した。冷たい汗だった。背中が、マットレスに貼りついていく。わたしは、板の裏に指を当てたまま、震えていた。泣いているのだと思った。けれど、目からは、何もこぼれてこなかった。


 ユノは、何も言わなかった。


 しばらくして、ユノは、わたしの肩にそっと手を置き、場所を代わってほしいと、仕草で伝えた。わたしが床に下りると、ユノは、ロクマルのベッドに仰向けになり、写真機を、板の裏に向けた。


「名前は、戦争が終わってから」


 ユノは、板の裏の文字を、一語ずつ確かめるように読み上げた。遺品の札を読み上げるときと、同じ声で。


 閃光が、四つの手で刻まれた文字を、白く浮かび上がらせた。


 一枚。角度を変えて、もう一枚。


「……記録した」


 ユノは、ベッドから這い出して、写真機の小さな画面を、わたしに見せた。四つの手の文字が、そこに、光の粒になって収まっていた。


「燃やされても、これは残る」


 そのとき、匂いがした。


 焦げる匂いだった。


 廊下の非常灯が、ちかちかと瞬いた。遠くで、何か重いものが崩れる音がした。そして、建物の壁を震わせて、低い唸りが近づいてくる。履帯が、コンクリートを噛む音。


 身体が、時間を数え直した。


 四十分と見積もった時間の、まだ半分も過ぎていなかった。


 焼却機は、倉庫を三つ残らず燃やし終えるのを、待たなかったのだ。

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