五 短い歌
録音機には、まだ、わずかに電気が残っていた。
ユノが、いちばん左のボタンを押した。
小さな拡声器が、かすれた雑音を吐き出した。布のこすれる音。ベッドの枠が軋む音。消灯のあとの、あの部屋の、暗がりの音だった。
『……録ってる?』
低く、柔らかい声がした。
ロクイチ。
『録ってる、録ってる。ほら、歌えよ』
ロクマルの声が、それを急かした。
短い沈黙のあと、旋律が始まった。
歌詞のない、短い、同じところをぐるぐると回る旋律。ロクイチが、消灯のあと、決まって口ずさんでいた旋律。唇を閉じたまま、喉の奥で鳴らす、低い、温かい音だった。
『歌詞、つけようぜ。……きょうの、めしは、まめの、かん』
ロクマルが、旋律に合わせて、でたらめな言葉を乗せた。
『あしたの、めしも、まめの、かん』
『字余りだよ、それ』
ロクイチが、旋律の合間に言った。
『いいんだよ。あさっても、しあさっても、まめの、かん』
くすくすと、小さな笑い声が混じった。
ロクニだった。
ロクニが、笑っていた。毛布の中で、声を殺して。ロクニは、めったに笑わなかった。
『……やめろ。録るな』
別の声が、した。
不機嫌そうな、ぶっきらぼうな声。
『消さないよ』ロクイチが、旋律を止めて言った。『これは、記録だから』
『ロクサンも歌えよ』
『俺は、歌わない』
わたしは、録音機を見つめていた。
女の声だった。
ぶっきらぼうに、俺、と言ったその声は、若い女の声だった。昨日の朝、兵舎の扉に映っていた、あの黒い髪の、灰色の瞳の女の喉から出る声。いま、わたしが話している、この声だった。
『じゃあ、名前が決まったら歌え』
ロクマルが言った。
『そのときは、ちゃんとした歌詞をつけよう。四人の名前を、全部入れてさ』
旋律が、また始まった。
同じところを、ぐるぐると回る。回りながら、少しずつ小さくなっていく。眠りに落ちかけているのだ、とわかった。ロクイチも、ロクマルも、ロクニも。
『……明日も、ここで、聞けるかな』
ロクニの、半分眠った声がした。
『聞けるよ』
ロクイチの声が、旋律の合間に、ささやいた。
『記録だから』
かちり、と音がして、録音は終わった。
埃の匂いのする静けさが、部屋に戻ってきた。
ユノは、録音機を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「……記録だから、か」
ユノの声は、ひどく小さかった。
「いいこと言うのね。その人」
ユノが、録音機から、わたしへと視線を移した。
「……今の、あなた?」
「わたしだと、思う」
「俺、って言ってた」
「昨日まで、わたしは、自分のことを、俺と呼んでいた」
ユノは、何か言いかけて、口を閉じた。わたしの顔を、長いこと見ていた。見知らぬ遺体の、身元の手がかりを探すときのような目で。
わたしは、録音機に指を置いたまま、動けなかった。
旋律が、まだ、耳の奥で回っていた。
ロクイチが、消灯のあとに口ずさんでいた旋律。
そして、わたしは、それを、ここではない場所でも聞いたことがあった。
雨の音。硝子の砕ける音。悲鳴と銃声の、隙間。耳の奥の通信回線の、そのさらに奥で、途切れ途切れに漏れてきた、歌詞のない、同じところをぐるぐると回る――。
白く冷たい壁が、そこに立った。
わたしは、それを、ユノに言わなかった。
言えば、何かが決まってしまう気がした。ロクイチの旋律が、あの雨の夜、どこで、何のために流れていたのか。わたしは、それを知らない。知らないまま黙っていることを、わたしは、選んだ。
録音機を、布で包み直した。ユノの鞄に、三つの品を、そっと入れる。
任務と、食事と、眠れない夜。
わたしが持っている三人の記憶は、それだけだった。けれど、その中に、確かに三人がいた。豆の缶に歌詞をつけるロクマルがいて、記録だからと言ったロクイチがいて、毛布の中で声を殺して笑うロクニがいた。
そして、あの夜の約束が、あった。
四人で、何かを決めよう。
何を、だったか。
思い出そうとすると、頭の芯に、冷たい指が押し当てられた。




