四 ベッドの下
身体が、部屋を調べはじめた。
わたしの意思より先に、指先が動いていた。ベッドの鉄の枠をなぞり、支柱の継ぎ目を確かめ、マットレスを載せた板の裏を探っていく。何を探しているのか、わたしにはわからなかった。けれど、身体は知っているようだった。この部屋の、どこが昨日と違い、どこが昨日と同じなのかを。
右の二段ベッドの、下の段。わたしの寝台の、真下。
ロクマルのベッドだった。
身体は、剥き出しのマットレスを持ち上げた。埃が舞い上がり、ランプの光の中で渦を巻いた。マットレスを載せた板の、さらに裏側。指先が、粘つくものに触れた。古い布の粘着帯で、何かが板の裏に貼りつけてある。
剥がすと、手のひらに収まるほどの、布の包みだった。
包みを開くと、折りたたまれた紙が出てきた。色の褪せた、雑誌の頁の切れ端。広げると、写真だった。
海だった。
どこまでも青く、水平線がまっすぐに空を分けている。手前の砂浜に、白い波が、レースのような縁を描いて寄せていた。人は、ひとりも写っていない。
紙の中に、もうひとつ、包まれていたものがあった。
腕時計だった。
革の帯はすり切れ、硝子には、蜘蛛の巣のようなひびが走っている。針は、止まっていた。二十三時十七分。
――終わったら、ここに行こうぜ。
声が、した。
記憶の中の声だった。狭い部屋。机を囲んで、四人で携行食の缶を開けている。豆と、塩辛い肉の匂い。ロクマルが、胸のポケットから、この紙を得意げに取り出して広げる。鼻の頭に、皺を寄せて。
――四人で。戦争が終わったら、海を見に行こう。
――海って、ほんとうに、どこまでも続いてるの。
ロクニが、写真を覗きこんで、小さな声で訊いた。
――続いてる。……たぶん。見たことないけど。
ロクマルは笑った。それから、腕の時計を、指先でこつこつと叩いた。硝子にひびの入った時計を。
――まだ巻いてるのか、それ。止まってるだろう。
俺が言うと、ロクマルは、また鼻に皺を寄せた。
――止まってても、腕に巻いてると、ちゃんと時間が進んでる気がするんだよ。
――止まってるなら、進んでない。
――ロクサンは、夢がないなあ。
記憶は、そこで途切れた。
わたしは、手のひらの時計を見下ろしていた。二十三時十七分。この時計が、どの任務で壊れたのか、思い出そうとした。
思い出せなかった。
左の二段ベッドの、下の段。ロクニのベッド。
身体は、ベッドの後ろの脚と、壁とのあいだの、指一本ぶんの隙間に手を差しこんだ。
指先に、乾いた、軽いものが触れた。
紙の鳥だった。
携行食の包み紙で、折られていた。翼の片側に、印刷された文字が、半分だけ読める。携行食、第三種。折り目は丁寧で、くちばしの先まで、きちんと尖っていた。
――眠れないのか。
闇の中で、俺は訊いた。
任務の前の夜だった。消灯のあとの暗がりで、下の段から、紙のこすれる、かさかさという音が、ずっと聞こえていた。
――折ってると、手が震えないから。
ロクニの声は、それでも、少し震えていた。
――明日も、ここに戻ってこられるかな。
――戻ってくる。
――ロクサンも、眠れないの。
俺は、答えなかった。ロクニは、それを答えだと受けとったらしい。暗がりの中で、包み紙を一枚、上の段の俺のほうへ差し出した。教えてあげる、と言って。
俺の折った鳥は、首が曲がって、翼の大きさが左右で違った。ロクニは、それを見て、ほんの少しだけ、笑った。
その夜、わたしたちは、朝まで眠らなかった。
わたしは、ロクニのベッドの下から出てきた紙の鳥を、手のひらに載せた。首はまっすぐで、翼は左右で同じ大きさだった。ロクニの鳥だった。わたしの、首の曲がった鳥は、どこにもなかった。
左の二段ベッドの、上の段。ロクイチのベッド。
身体は、ベッドの枠の、鉄の管の端に目を留めた。管の口を塞ぐ黒い樹脂の蓋が、ほかの三つの角のものより、わずかに浮いている。指でこじると、蓋は、あっけなく外れた。
管の中に、油紙で包まれた、細長いものが押しこまれていた。
手のひらほどの、黒い箱。軍用の、小さな録音機だった。側面の銘板は、爪で削られたように傷だらけで、ボタンが三つ並んでいる。
――どうして、毎晩、歌う。
見張りの夜だった。瓦礫の山の上に、ロクイチと二人で伏せて、星のない空の下で、朝を待っていた。
――歌ってると、今日が、ちゃんと終わる気がするから。
ロクイチは、いつもの低い声で答えた。それから、胸のポケットから、この黒い箱を取り出して見せた。壊れた通信車の中から、拾ってきたのだという。
――何に使う。
――録るんだよ。俺たちのこと。
――誰が聞く。
――誰も聞かなくていい。
ロクイチは、箱を大事そうに、ポケットに戻した。
――俺たちのことは、たぶん、誰も記録してくれないだろ。だから、自分で録っとくんだ。
わたしは、机の上に、三つの品を並べた。
海の写真に包まれた、止まった時計。携行食の包み紙で折った、鳥。録音機。
ユノは、ランプを机に置き、写真機を構えて、一枚ずつ、それを撮った。閃光が、部屋の埃を白く浮かび上がらせた。
それから、ユノは手帳を取り出した。安置所で、遺品に札をつけるときと同じ手つきで、小さな字を書きつけていく。
『五二八六〇 腕時計(二十三時十七分で停止) 海の写真(雑誌の切り抜き)
五二八六一 録音機
五二八六二 紙の鳥(携行食の包み紙)』
書き終えると、ユノは、顔を上げた。
「この人たちの、家族は?」
わたしは、ユノを見た。
「この時計、誰かに返さないと。遺族に。……家族は、どこにいるの。故郷は? どこの出身?」
わたしは、答えようとした。
ロクマルの、家族。ロクイチの、故郷。ロクニの、生まれた町。
何もなかった。
引き出しを、ひとつずつ開けていく。任務。夜の哨戒。瓦礫の中を這って進んだこと。携行食の缶。豆と、塩辛い肉。消灯のあとの旋律。眠れない夜。紙の鳥。海の写真。そして、ロクマルが言い出した、あの約束。
ある夜の任務の記憶が、ふいに浮かんだ。崩れた橋を、四人で渡っていた。先頭のロクマルが、握った拳を肩の高さに上げる。止まれ、の合図。けれど、わたしたちは、その合図を見るより先に、止まっていた。四人とも、同じ瞬間に。誰かが次に踏み出す足を、誰かが次に向ける銃口を、わたしたちは、声を出さなくても知っていた。ひとつの身体の、四本の腕のように。
それだけだった。
どの引き出しを開けても、その先には、何も入っていなかった。三人が、子どものころの話をした記憶がない。母親の話も、兄弟の話も、戦争の前にどこで何をしていたのかも。三人がそれを話さなかったのか、わたしが覚えていないだけなのか、それさえ、わからなかった。
「……わからない」
ユノの手帳の上で、鉛筆が止まった。
「名前もない。家族も、故郷もない」
ユノは、机の上の海の写真を、指先で持ち上げた。
「これ、雑誌の切り抜きよ。故郷の写真じゃない。……そんな兵隊が、ほんとうにいるの?」
わたしは、黙っていた。
「消されたのかもしれない」
しばらくして、ユノが言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「軍が、あなたたちの記憶を。任務に要らないものを、全部。……そういう噂も、聞いたことがある」
わたしは、机の上の三つの品を見ていた。
任務に要らないもの。
海の写真も、止まった時計も、紙の鳥も、任務には、何の役にも立たなかった。それでも三人は、それを、ベッドの下に隠していた。




