三 伏せられたカップ
扉の内側は、昨日と同じ、薄暗く白い廊下だった。
天井の非常灯が、等間隔に、橙色の光の輪を床に落としている。輪と輪のあいだは、闇だった。空調のうめく音は、もう聞こえなかった。
床の埃は、昨日とは違っていた。
義足の、定規で測ったような歩幅の足跡。部屋へ向かうだけで、戻る跡のない、あの男の足跡。その隣を、部屋から外へ向かう、わたしの軍靴の跡。そこまでは、昨日のままだった。
けれど今は、その二つの足跡の上を、無数の靴跡が踏み荒らしていた。硬い靴底。いくつもの大きさ。重いものを引きずった、太い筋が二本。あの男の身体と、わたしが壊した機械を、運び出した跡なのだろう。
廊下の隅に、白い塗料の欠片が、ひとつだけ落ちていた。あの機械が背負っていた、白い箱の欠片だった。人がひとり、ちょうど横たわって収まるほどの大きさの、あの箱。
わたしは、目を逸らした。
ユノが、電池式のランプを灯した。
廊下の突き当たりの扉は、開いたままだった。
ランプの光が、部屋の中を照らした。
窓のない、格納庫のような狭い部屋。壁に沿って、向かい合わせに置かれた二つの二段ベッド。部屋の隅の、小さな折り畳み机。
昨日の朝、わたしが目を覚ました部屋だった。
けれど、ランプの白い光の中で見るそれは、橙色の非常灯の下で見たものとは、違っていた。
昨日、白く、平らに、冷えていると思った三つのマットレスは、白くはなかった。
灰色だった。
薄く、けれど均一に、埃が降り積もっていた。降り積もった雪のように。ベッドの支柱と支柱のあいだに、蜘蛛の巣が張っている。その巣にも、埃がからみついて、灰色の綿のように垂れ下がっていた。
三つのベッドは、片づけられていた。毛布も、枕もない。昨日、目を覚ましたとき、わたしは、はじめから誰も眠っていなかったかのようだと思った。けれど、わたしの昨日の夜までは、そこに毛布があったのだ。ロクニが、端を握りしめて眠っていた毛布が。
入口の近くの床だけ、埃が大きく乱れていた。
あの男が倒れていた場所だった。唇に笑みの形を残したまま、人間には成しえない角度に首を曲げて。いまは、そこには何もない。踏み荒らされた埃と、いくつもの靴跡が、あるだけだった。
ユノは、その場所を黙って見下ろしていた。それから、安置所で遺体の前を通るときと同じように、ほんの短く、目を伏せた。
わたしが眠っていた、右の二段ベッドの上段だけが、違った。
毛布は、なくなっていた。証拠として、持ち去られたのだろう。剥き出しになったマットレスの上に、埃のない場所があった。
人の形をしていた。
頭。肩。腰。まっすぐに伸ばした脚。その形の周りにだけ、灰色の埃が、縁取るように積もっている。まるで、誰かが雪の上に仰向けに倒れて、そのまま、雪が降りつづけたかのように。
ユノが、息を呑んだ。
「……人の形に、埃がない」
ユノは、ランプを掲げたまま、ゆっくりとわたしを振り返った。
「あなた、ここに寝てたの?」
「昨日、ここで、目を覚ました」
「昨日の一晩で、こんなふうにはならない」
ユノの声が、かすれた。
「何か月も、ここで、ずっと、動かずに――」
ユノは、その先を言わなかった。
わたしは、上の段の縁に手をかけ、埃の中の人の形に、指先で触れた。冷たかった。十か月前にわたしが残していったはずの体温など、どこにも残っていなかった。
わたしは、埃の中の人の形を見下ろしていた。
昨日の夜、わたしはここで眠った。ロクマルと、ロクイチと、ロクニと。三人の寝息を聞きながら。そう覚えている。覚えているのに、目の前にあるのは、わたしの身体の形に切り抜かれた、十か月の埃だった。
部屋の隅の、折り畳み机に歩み寄った。
金属のカップが四つ、伏せて並べてあった。
四つとも同じ形で、同じ向きに。昨日と同じだった。けれど、上を向いたカップの底には、灰色の埃が、指の爪ほどの厚さに積もっていた。机の上には、干からびた蛾が一匹、羽を広げたまま横たわっていた。
ユノが、いちばん左のカップを、指先でつまんで、そっと表に返した。
ランプの光が、カップの内側で、きらりと撥ねた。
「……中だけ、きれい」
伏せられていたカップの内側には、埃ひとつ入っていなかった。磨かれた金属が、ランプの光を、昨日のままの鈍い輝きで映していた。
わたしは、いちばん右のカップを手に取った。
縁に、小さなへこみがある。わたしのカップだった。なぜそれがわかるのか、わからないまま、わかった。昨日の夜、わたしはこのカップで水を飲んだ。水は、少し、鉄の味がした。
飲み終えたカップを、四人で、同じ向きに伏せた。ロクマルが決めた、この部屋の決まりだった。伏せておけば、埃が入らない。明日の朝、また表に返せばいい、と。
明日の朝は、来なかった。三人のカップは、伏せられたまま、誰にも表に返されずに、十か月、ここにあった。
わたしは、カップを表に返した。
内側は、きれいだった。昨日のままだった。
外側には、十か月が積もっていた。
わたしの昨日は、このカップの内側にあったのだ。伏せられて、閉じこめられて、外の時間から守られて。そして、そのあいだに、世界の側では、埃が降りつづけていた。三百四の夜の分だけ。
わたしは、カップの底の埃を、指で拭った。
指先が、灰色になった。




