二 蔦のフェンス
わたしはジャケットを裏返しに着て、ユノの作業帽を目深にかぶった。裏地の灰色は、どこにでもいる復員兵の上着に見えた。
街の壁には、わたしの顔が貼られていた。
安置所で番犬のレンズが捉えたのだろう、少し斜め上から見下ろした、肩までの黒髪の女。その下に、赤い大きな文字。
『危険 旧軍暴走義体
見かけた方は近づかず通報を』
手配書は、尋ね人の紙の上から、糊で無造作に重ねて貼られていた。端から、下に隠れた紙の文字が、わずかに覗いている。探しています。八歳。赤い靴。
わたしは帽子のつばを下げ、ユノの半歩後ろを歩いた。
街はずれで家並みが途切れると、あとは、丘へ続く一本道だった。
昨日の夜明け前、わたしが下りてきた道だった。
一本道の入口には、昨日はなかった柵が置かれていた。
『焼却作業のため この先通行止め』
柵の脇で、保安服を着た若い男が、退屈そうに煙草を吸っていた。腰の無線機が、時おり、ざらついた声を吐き出す。第六兵站区、作業前倒し。現場は正午を待たずに――。
わたしたちは、男の視界に入る手前で、道の脇の水路へ下りた。干上がった溝の底を、腰をかがめて進む。頭上の道を、白い車両が一台、丘のほうへ走り抜けていった。溝の縁の草が、その風に煽られて、わたしたちの背中を叩いた。
男の煙草の匂いが遠ざかるまで、身体は、一度も足音を立てなかった。ユノの足音の分まで、わたしの耳が数えていた。溝が道と合流するところで、わたしたちは、ふたたび道へ上がった。
陽は高く、蝉がうるさいほど鳴いていた。背の高い夏草が、道の両側から覆いかぶさってくる。汗が、帽子の下からこめかみを伝い、顎の先から滴り落ちた。拭っても、拭っても、汗は止まらなかった。
そして、その汗は、この暑さの中で、奇妙なほど冷たかった。
「……大丈夫?」
息を切らしながら、ユノが振り返った。ユノの額にも汗が浮いていた。けれど、ユノの汗は、ユノの頬と同じように、赤く上気した熱を帯びていた。
「大丈夫」
わたしは、冷たい汗を、袖で拭った。
振り返ると、丘の下に、街が広がっていた。
昨日の夜明け前、この丘から見下ろしたときには、灯りの海だった街。昼の光の中では、それは、無数の屋根の連なりだった。塞がれた銃痕の白い斑点を散らした、灰色と赤錆色の屋根。そのあいだから、細い煙が、何本も立ちのぼっている。炊事の煙だった。戦火の煙ではなかった。
そのまんなかに、白い塔が、昼の光を撥ねて立っていた。
丘の中腹で、道を外れた。草をかき分け、斜面を斜めに登っていくと、やがて、金網のフェンスが現れた。
わたしの背丈の倍ほどの高さ。上端に巻かれた、錆びた有刺鉄線。金網に幾重にも絡みついた、蔦。昨日の夜明け前、わたしが越えたフェンスだった。有刺鉄線が一か所だけ、押し下げられて歪んだまま残っている。
蔦に半ば埋もれた金属の板は、そのままだった。
『中央軍 第六兵站区 関係者以外立入禁止』
けれど、その隣に、真新しい白い板が一枚、針金で括りつけられていた。
『戦後復興局管理地
焼却処理予定区域につき立入禁止』
わたしたちは、蔦の陰に身を伏せ、金網の隙間から、敷地の中を覗いた。
ひび割れた舗装の広場。割れ目という割れ目から伸びた雑草。その向こうに、屋根の低い倉庫が三棟並び、いちばん奥の斜面に、半ば土に埋もれるようにして、窓のないコンクリートの建物がうずくまっている。
兵舎だった。
昨日の夜明け前、わたしは、あの建物の脇の扉から出て、この広場を、ひとりで横切ったのだった。あの男が乗ってきた白い輸送車は、もう、どこにもなかった。雑草の上に、太い轍の跡だけが残っていた。
広場には、昨日はなかったものが並んでいた。
復興局の紋章をつけた、白い大型車両が二台。白い防護服を着た作業員たちが、倉庫の扉に、何か黒い筒のようなものを取りつけている。そして、広場の真ん中に、見たことのない機械が、低く唸りながらうずくまっていた。
履帯を履いた、平たく重たげな車体。背中に、丸い鉄の容器を三つ背負っている。車体の前から、鶴の首のように長い腕が伸びていて、その先に、黒く煤けた太い噴き口がついていた。
焼却機、とユノが声を殺して言った。
「安置所に、あれで焼かれた建物から、遺体が運ばれてきたことがある。……骨まで、ほとんど残ってなかった」
身体は、もう数えていた。
防護服の作業員が、四人。小銃を提げた保安服の男が、二人。番犬が、一体。番犬は、フェンスの内側に沿って、決まった速さで敷地を巡回している。一周、およそ四分。
焼却機の長い首が、ゆっくりと持ち上がり、いちばん手前の倉庫へ向いた。
正午には、まだ一時間以上ある。
噴き口から、橙色の炎の舌が、吐き出された。
倉庫の屋根が、一瞬で火に包まれた。熱風が、フェンスの蔦を揺らした。
「……急いでる」
ユノが、つぶやいた。
一棟目。二棟目。三棟目。そして、兵舎。身体は、焼却機の速さと、倉庫の大きさを量った。兵舎に炎が届くまで、およそ四十分。
番犬が、広場の向こうの角を曲がって、見えなくなった。
わたしは蔦を足がかりにしてフェンスを登り、歪んだ有刺鉄線の上から、ユノに手を伸ばした。ユノの手首を掴んで、引き上げる。ユノの身体は、驚くほど軽かった。ユノを抱えたまま、向こう側の草むらへ跳んだ。
錆びた貨物用の容器の陰から陰へ。燃えはじめた倉庫の煙が、広場を斜めに流れて、わたしたちの姿を隠した。
兵舎の脇の、鉄の扉にたどりついたとき、番犬の足音が、ちょうど広場の反対側の角を曲がってくるところだった。




