六 消失したはずの記録
図書館は、川沿いの高台にあった。
石造りの大きな建物だった。けれど屋根はなく、窓という窓の上の壁が、炎の舌の形に黒く焦げていた。閲覧室だった広い空間には夜空がそのまま落ちてきて、焼け残った書架の骨組みが、墓標のように並んでいる。灰の匂いが、十か月たったいまも、石の奥に染みついていた。
ユノは瓦礫を踏み分けて、閲覧室の奥の、崩れかけた階段を下りた。突き当たりの分厚い防火扉を、前掛けのポケットから出した鍵で開ける。
扉の向こうは、書庫だった。
ここだけは、炎が届かなかったのだ。背の高い書架が何列も並び、紙と黴の、乾いた匂いがした。ユノが電池式のランプを灯すと、書架の本のあいだに、本ではないものがぎっしりと詰めこまれているのが見えた。紙箱。封筒。紐で束ねた便箋。写真。
「公式の記録に載らない遺品や証言は、復興局が処分することになってる」
ランプを床に置きながら、ユノは言った。
「だから、写しをとって、ここに持ってきてる」
わたしは、書架のあいだの冷たい床に腰を下ろした。
目の前の棚に、小さな靴が片方だけ、札をつけて置かれていた。その隣に、焦げた手帳。刺繍の途中で、針を刺したままのハンカチ。
「どうして、そこまで」
「記録は、死んだ人が最後まで持っていられる、たったひとつの形だから」
ユノは、靴の札を指先で直した。
「それまで消されたら、あの人たちは、はじめからいなかったことになる」
書庫のいちばん奥の壁に、何枚もの紙が、隙間なく貼り合わされていた。
手書きの名前が、何百も、壁の端から端までびっしりと並んでいる。そのいちばん上に、ひときわ大きな字で、見出しが書かれていた。
『第九避難所 犠牲者名簿』
九。
その数字を見た瞬間、頭の奥で、白い光が揺れた。照明弾の光。雨に濡れた、錆びた案内板。剥げかけたペンキで描かれた、大きな数字の形――。
白く冷たい壁が、そこに立った。
「旧貨物駅」
壁を見上げて、ユノが言った。
「停戦の四日前。反乱分子が武装蜂起して、避難所を襲った。巻きこまれて、避難していた三百人が死んだ。……公式発表は、それだけ。人数だけで、名前は一度も発表されなかった。だから、わたしが集めた」
ユノは、名簿の端に指先で触れた。
「でも、嘘」
わたしは、ユノを見た。
「第九が片づけられたとき、何人か、うちの安置所に運ばれてきたの。……みんな、撃たれてた。そこまでは、発表のとおり」
ユノの声は、平らだった。平らでなければ話せない、というように。
「でも、一人に一発か、二発。胸か、頭の、同じような場所に。寄せ集めの反乱分子が、暗がりの中で、あんなふうに撃てるはずがない。訓練された兵隊の撃ち方だった。わたしはそれを報告した。何度も。そのたびに、所見の書き直しを命じられた」
わたしの右手の人差し指が、ぴくりと動いた。
引き金を絞るように、一度だけ、曲がった。
わたしはその手を、膝のあいだに強く挟みこんだ。ユノに見えないように。
ユノは胸のポケットから、あの写真を取り出した。
「イオ。弟。十七だった」
首に無線の受話器をかけた少年が、照れくさそうに笑っていた。
「第九避難所で、連絡係をやってた。避難所どうしを繋ぐ、臨時の無線の。……あの夜、第四避難所にいた人たちが、無線でイオの声を聞いてる。何か叫んでて、そのまま途切れたって」
ユノは、写真をランプの光の中に置いた。
「戦争中の通信は、民間の臨時無線も含めて、全部軍が記録して、中央記録塔に保管してるはずなの。だから、申請した」
ユノが書架から抜き出した封筒の束には、どれにも、開いた本と若芽の紋章が刷られていた。
「毎週、一通ずつ。九か月で、三十九通。返事は、全部同じ」
いちばん上の一通を、ユノは開いてみせた。
『当該記録は、戦災により消失しました』
わたしは、写真の中の少年の顔を見ていた。
見ないようにしようとした。けれど、目が離れなかった。
乾いた前髪。陽射しの下で、笑っている顔。
頭の奥で、雨の音がした。白く冷たい壁が、その音を、向こう側へ押し戻した。
心臓が、胸骨の内側で、急に速く打ちはじめていた。
「……顔色、悪い。傷のせい?」
「……たぶん」
わたしは、嘘をついた。
それから、ジャケットの内ポケットから、ひびの入った黒い端末を取り出した。
「これを、見てほしい。……わたしが殺した人の、端末」
書庫の空気が、止まった。
「今日の夜明け前、目が覚めたら、その人が部屋に入ってきた。わたしを番号で呼んで、上着の内側に手を入れた。そうしたら――」
わたしは、自分の両手を見た。
「身体が、先に動いた。首を、折った」
長い沈黙があった。
「……正当防衛だったって、言いたいの」
「わからない。あの人が何を出そうとしていたのかも。わたしが、止めようと思ったのかどうかも。……本当に、わからないの」
ユノは、わたしの顔を長いこと見ていた。その目の中で、何かが冷えて、固まっていくのがわかった。
「……あとで考える」
やがて、ユノは言った。
「いまは、中身を見る」
ユノは書架の奥の工具箱から、手のひらほどの灰色の機械を取り出した。安置所で使っている、遺品の端末の読み出し器だった。
「持ち主の死亡が登録された端末は、遺族のために開けられるようになってる。死んだ人の端末を、誰にも開けられないままにしないための決まり」
読み出し器の細い線を繋ぐと、ひび割れた画面が、ゆっくりと明るくなった。
『所有者の生体信号途絶を確認
遺品開示モードで起動します』
あの男は、自分の死によって、自分の秘密を開いたのだった。
ユノの指が、文書の一覧のいちばん上を開いた。
『戦後復興局 第三回収班
報告先 聴聞官ヴァル
指令
一、五二八六三を回収せよ。
二、記憶保持状態を確認せよ。
三、中央記録塔の消去作業までに処分せよ。』
処分。
わたしは、その二文字を、何度も読み返した。
回収して、確かめて、処分する。わたしは、そういう手順の中に置かれていた。置き忘れられ、始末を待つ荷物のように。
「記憶、保持状態」
ユノが、低く読み上げた。
「……あなたは、何を覚えてるの。何を覚えていたら、困るの」
わたしは、答えなかった。
雨の駅のことを、わたしは、言わなかった。
指令の下には、短い表が添えられていた。
『関連番号
五二八六〇 処理済
五二八六一 処理済
五二八六二 処理済
五二八六三 未回収』
ロクマル。ロクイチ。ロクニ。
兵舎で目覚めたとき、根元から断ち切られていた三本の糸。その切り口に貼られた札が、この三文字だった。
「処理って……何」
ユノのつぶやきに、わたしは答えを持っていなかった。
ユノの指が、次の文書を開いた。
『中央記録塔 消去対象記録一覧
消去作業開始 停戦協定発効より第三一八日 午前〇時』
細かな記録番号が、果てしなく並んでいた。ユノの指が、それを流していく。速く、速く。そして、ある一行で、ぴたりと止まった。
『九―〇七一一 第九避難所 臨時無線通信記録 封印』
ユノの指が、震えていた。
「……この番号」
声が、ひび割れた。
「三十九回、書いた番号」
ユノは笑おうとした。笑いには、ならなかった。
「消失なんて、してなかった。九か月、ずっと持ってたんだ。持ってて……十四日後に、消すんだ」
ランプの光の中で、ユノの頬を一筋だけ、涙が伝った。ユノはそれを、手の甲で乱暴に拭った。




