五 生きている手
冷媒の噴き出す音が、少しずつ、弱まっていった。
霧が、ゆっくりと沈んでいく。牛乳を張った水盤のように、白いものが氷の表面に溜まり、その上に、薄青い照明の光が戻ってくる。整氷車のエンジンは、いつの間にか止まっていた。熱い金属が冷えていく、かち、かち、という小さな音だけが聞こえた。
氷の上には、霜をまとった写真が、一面に散らばっていた。
睫毛についた霜が溶けて、しずくになり、頬を伝った。その頬に触れてみる。弾丸が掠めたはずの場所には、もう、傷の感触さえなかった。指先に、熱が戻ってきていた。胸は、静かに上下していた。あれだけ動いたあとなのに、やはり、息はほとんど乱れていなかった。
整氷車の運転席から、ユノが降りてきた。
膝が震えていた。ユノはわたしのほうを見ず、まっすぐに、撃ち抜かれた台の列へ歩いていった。裂けた布を一枚ずつ直し、はみ出した手を、布の下へ戻していく。その唇が、ごめんなさい、と何度も動いていた。
それから、ようやく、ユノはわたしに向き直った。
その目が、わたしの脇腹で止まった。
「……見せて」
わたしが何か言うより先に、ユノの手がジャケットの前を開いていた。迷いのない、慣れた手つきだった。灰色の肌着の左の脇腹が、黒く濡れている。ユノは肌着をまくり上げ、そして、手を止めた。
「貫通してる」
前にひとつ。後ろにひとつ。弾丸が入った穴と、抜けた穴。
「なのに――」
ユノの声が、かすれた。
血は、流れていた。赤い血だった。けれど、少なかった。弾丸が身体を貫いたのなら、肌着もズボンも、足もとの氷も、真っ赤に染まっていなければおかしい。わたしの血は、傷口の縁に、とろりと滲んでいるだけだった。そして、それさえも、見ているうちに止まった。
傷口の縁が、動いていた。
内側から、ゆっくりと寄り合っていく。裂けた皮膚が、見えない糸で手繰り寄せられるように。傷の奥が、むず痒かった。何か細かなものが、そこで忙しく、わたしを縫い合わせていた。
ユノは、長いこと、それを見つめていた。
「……聞いたことがある」
やがて、ユノが言った。
「戦争の終わりのほうで、軍が、前線の兵士の身体に、人工の臓器を入れてたって。撃たれても死なない兵隊を作るために。軍は、認めてないけど」
ユノの目が、わたしの顔に上がった。
「ここに運ばれてきた兵士の中にも、三人いた。検視に立ち会ったとき、胸を開けたら、心臓の横に、見たことのない部品が入ってた」
ユノは、わたしの傷に視線を戻した。
「あなたも、そうなんでしょう。軍用の人工臓器か……もっと特殊な、義体か」
「わからない」
「自分の身体なのに?」
「自分の、身体なのに」
ユノは何か言いかけて、やめた。
代わりに、わたしの手首を掴んだ。
指先が、手首の内側の、脈のある場所を探り当てる。死者の手を毎日扱っている人の、正確な指だった。
「霧の中で、あなた、冷たかった」
手首を掴んだまま、ユノは言った。
「覆いかぶさってきたとき。ここに寝てる人たちと、同じくらい冷たかった。……撃たれたんだと思った。死んだんだと思った」
ユノの指の下で、わたしの脈が打っていた。
「でも、いまは温かい」
ユノは、ほんの少しだけ、息を吐いた。
「生きてる手だ」
わたしは、何も言えなかった。
「毎日、死んだ人の手ばっかり触ってるから。わかるの。……それだけは」
建物の外で、サイレンが鳴りはじめた。
ひとつではなかった。遠くから、近くから、いくつものサイレンが重なり合い、この建物を目指して集まってくる。
ユノが、はっとしたように、壊れた通用口を振り返った。
「実弾だった」
ユノはつぶやいた。
「保安部が、市民のいる施設で、実弾を撃った。……こんなこと、あるはずない」
「あなたは、ここに残ったほうがいい」
わたしは言った。
「わたしに脅されたと言えばいい。あなたは、何も知らない」
言いながら、わたしは、自分の言葉に小さな違和感を覚えていた。
それは、ユノを守るための言葉だったのだろうか。それとも身体が、足手まといを置いていくために、わたしの口を使ったのだろうか。
ユノは、首を横に振った。
「あいつら、わたしを撃った」
静かな声だった。
「脚を狙って。わたしを、あなたと間違えて。……照会したのは、わたしの端末。わたしの名前で。残ったら、わたしも『回収』される」
ユノは壊れたカウンターへ駆け戻った。穴の開いた台帳を三冊とも抱え、写真機を首にかける。それから氷の上に屈みこんで、散らばった写真の中から、一枚を拾い上げた。
表面の霜を、親指で拭う。
ユノは、その写真を見なかった。見なくても、誰の顔かわかっている手つきだった。胸のポケットに、そっと滑りこませる。
「こっち」
ユノは、整氷車の車庫へ向かって走り出した。
車庫の床の隅に、鉄の格子の蓋があった。整氷車が削った氷を捨てるための、雪捨ての穴だった。溶けた水は、その底から古い雨水管を通って川へ流れていくのだと、ユノは早口で言った。
格子を持ち上げると、底のほうから、水の流れる音と、冷たく黴びた匂いが上がってきた。
わたしたちは、闇の中へ降りた。
膝まで浸かる、凍えるような水の中を、身をかがめて歩いた。頭上を、サイレンの音が通り過ぎていく。何台もの車が止まる音。扉の開く音。硬い足音。『対象、逸失』という合成音声。
しばらく進んだところで、頭上の格子の向こうを、鉤爪の足音が横切った。
わたしたちは、水の中で動きを止めた。
足音が、格子の真上で止まる。レンズの駆動音。格子の隙間から、細い光が、闇の中を探るように差しこんできた。熱を探しているのだ。
身体が、また熱を捨てはじめた。
けれど、ユノは違う。凍える水の中でも、ユノの身体は、闇の中にくっきりと温かい。
わたしはユノを壁に押しつけ、その上から、自分の身体をかぶせた。冷えきった腕でユノの頭を抱えこみ、ユノの吐く息の熱を、わたしの冷たい胸で覆い隠す。
ユノの心臓が、わたしの胸の下で、激しく打っていた。一分間に、百三十。
光が、わたしたちの頭上の水面を、ゆっくりと撫でていった。
やがて、足音は遠ざかった。
どれくらい歩いたのか。
前方に、ぼんやりと明るい円が見えてきた。雨水管の出口だった。
外は、夕暮れだった。
川面が、残照に赤く染まっている。対岸の街並みの向こうに、あの白い塔が立っていた。暮れていく空の中で、塔の頂の光の環が、ふたたび白く、くっきりと輪郭を取り戻しはじめていた。
ユノは濡れた前髪をかき上げて、塔から目を逸らした。
「隠れる場所がある」
ユノは言った。
「図書館。……燃えたやつ」




