四 氷上の番犬
通用口のほうで、金属のひしゃげる音がした。
鉄の扉が、内側へ弾け飛んだ。蝶番ごと引きちぎられた扉は、床を二度跳ねて、フェンスに叩きつけられた。
四本脚の機械が、滑るように入ってきた。
仔牛ほどの大きさだった。低く、平たく、灰色の装甲板を魚の鱗のように重ねた胴体。短く太い首の先に、蜘蛛の目のように六つのレンズを寄せ集めた頭部がついている。背中の回転台から、短い銃身が一本、前へ突き出していた。脚の先の鉤爪がコンクリートの床を噛み、ぎりぎりと耳障りな音を立てる。
灰色の脇腹に、あの紋章が描かれていた。開いた本と、一本の若芽。
街の人々がそれを何と呼んでいるのか、わたしは知らなかった。けれど見た瞬間に、その名が浮かんだ。
番犬だ。
六つのレンズが、同時に、わたしのほうへ回った。
『五二八六三を確認』
ユノが、息を呑む気配がした。
『回収を開始します』
銃身が、わたしの膝の高さに下がった。
身体は、もう跳んでいた。
カウンターに片足をかけて跳び、フェンスの縁に片手をついて、その上を越える。背後で乾いた連射音が弾け、フェンスの強化樹脂の板が、わたしの踵のすぐ後ろで白く砕け散った。
氷の上に、横ざまに落ちる。
肩から滑った。そのまま白い台と台のあいだを、氷を削りながら十メートル滑り、台の脚の陰で止まる。息ひとつ、乱れていない。
番犬が、フェンスを越えてきた。
重たい着地音。四本の鉤爪が氷に深々と突き立ち、白い削り屑を跳ね上げる。滑らない。この機械は、氷の上でも、地面と同じように走れるのだ。
連射が、台の列を薙いだ。
布が裂けた。木の台が弾けた。凍った布の下の、硬い何かに弾丸がめりこむ、鈍い音が続いた。
わたしは、死者の陰に隠れていた。
身体が、そう選んでいた。この広間でもっとも数の多い遮蔽物は、台と、その上の、凍りついた身体だったから。弾丸はそれにめりこみ、止まり、わたしまで届かない。次の台へ。次の列へ。死者から、死者へ。身体は、それを少しも気にしていなかった。
「やめて!」
ユノの叫び声が、広間に響いた。
「やめて、その人たちを――」
わかっている、とわたしは叫び返したかった。けれど身体は止まらなかった。わたしの嫌悪も、ユノの悲鳴も、身体の計算には、何ひとつ含まれていなかった。
番犬が、跳んだ。
台の列をひと息に跳び越え、わたしの隠れた台ごと、上から押し潰すようにのしかかってくる。木の台が砕けた。わたしは氷の上に仰向けに倒れ、その胸を、鉤爪のついた前脚が重く踏みつけた。
肺から、空気が押し出された。
六つのレンズが、わたしの顔を覗きこむ。銃身がゆっくりと下がり、わたしの右の膝に、ぴたりと押し当てられた。
『膝関節を破壊し、搬送に備えます』
あの男によく似た、丁寧な声だった。
身体の右手が、氷の上を探っていた。砕けた台の、鋭く割れた板きれ。指が、それを掴んだ。
銃声と同時に、身体は、板きれを六つのレンズの真ん中へ叩きこんでいた。
レンズの割れる音。番犬がのけぞり、弾丸は、わたしの膝ではなく、膝の横の氷を穿った。緩んだ前脚の下から、身体は氷の上を滑り抜け、そのまま隣の列の陰へ転がりこんだ。
天井の穴から、黒い円盤が降りてきた。
四枚の羽根。腹に吊られた小さな銃座と、赤い光の点を落とす照準器。光の点が氷の上を走り、わたしの隠れた台の縁で、ぴたりと止まった。
上と、横から、挟まれる。
身体は台の陰から転がり出て、フェンスぎわの柱に跳びついた。柱に括りつけられていた赤い消火器を、留め具ごと引きちぎる。鉄の筒の重さを、腕が一瞬で量った。
投げた。
真上へではなかった。ドローンが、ほんのわずかに左へ逃げるだろう、その先の空間へ。
ドローンの銃座が、飛んでくる赤い筒に、反射的に火を噴いた。
撃ち抜かれた消火器が、空中で破裂した。
白い粉の雲が、ドローンを真下から呑みこんだ。視界を失い、吸気口に粉を詰まらせたドローンは、酔ったように傾き、そのまま吊り下げられた得点板へ突っこんだ。硝子の割れる音。焼きついた三対二の数字が砕け、火花を散らしながら、黒い円盤は氷の上へ落ちてきた。羽根が氷を叩き、独楽のように回る。
身体は、それを踏み砕いた。
リンクの奥で、巻き上げ式の鉄の扉が、悲鳴のような音を立てて持ち上がった。
整氷車の車庫だった。持ち上がる扉の下の隙間から、二体目の番犬が、低く身をかがめて滑りこんでくる。
前と、後ろ。
十字砲火が、氷の上で交差した。
弾丸が、記録係のカウンターを貫いた。棚の紙箱が弾け、遺品が宙に舞う。懐中時計。髪留め。コルク板が裂け、ピンで留められていた紙が、写真が、何十枚も、冷たい空気の中に撒き散らされた。
写真が、降ってきた。
ひらひらと回りながら、人の顔が、氷の上へ降り積もっていく。
そのうちの一枚が、わたしの目の前に、表を上にして落ちた。
十代の少年だった。首に無線の受話器をかけて、照れくさそうに、歯を見せて笑っていた。
身体が、止まった。
ほんの一瞬だった。けれどそれは、この身体が、これまで一度も見せたことのない停止だった。頭の奥で、白い光が弾けた。雨の音がした。硝子の砕ける音がした。誰かが、大きく口を開けて――。
弾丸が、頬を掠めた。
熱い線が、耳の下まで走った。身体は我に返ったように跳ね、次の台の陰へ転がりこんだ。
いまのは、何だ。わたしは、何を見たのだ。
考える暇は、なかった。
身体は、フェンスの足もとを這う太い管を見ていた。
冷媒管、高圧注意。
管の継ぎ目の、赤い弁。身体は踵を振り上げ、その弁を、根元から蹴り折った。
轟音がした。
白い奔流が、真横に噴き出した。凍りつくような気体が氷の表面を這い、渦を巻き、みるみるうちに膨れ上がる。数秒で、広間の半分が、乳を流しこんだような濃い霧に沈んだ。
番犬たちの足が、止まった。
レンズがせわしなく回る音がした。霧を透かそうとして、焦点を合わせては外し、合わせては外す。やがてその駆動音が、ひとつ低い音程に切り替わった。
『光学照合、不能。熱源探知に移行』
熱。
この霧の中で、あの機械は、温度で世界を見るのだ。
そのとき、わたしの身体は、熱を捨てはじめた。
背骨を、あの寒気が駆けのぼった。兵舎で目覚めたときと同じ寒気だった。けれど今度のそれには、はっきりとした目的があった。皮膚の内側で渦を巻いていた熱が、指先から、足の先から、栓を抜かれた水のように引いていく。噴き出した汗がそのまま凍り、睫毛に白い霜をつけた。髪の先が、ぱりぱりと音を立てて凍っていく。
わたしは、氷と同じ温度になっていった。
霧の中で、番犬のレンズが、わたしのすぐ脇を素通りしていった。
見えていないのだ。
俺は、見えない。
頭の中で、誰かがそう言った。わたしの声ではなかった。低く、平らで、ひどく落ち着いた声だった。
そして一瞬、奇妙な感覚があった。わたしの目の奥で、もうひとつの目が、ゆっくりと開いていくような。わたしの目を通して、どこか遠くにいる誰かが、この霧の広間を覗きこんでいるような――。
身体は、霧の中を歩いた。
足音を殺す必要さえなかった。噴き出す冷媒の轟音が、すべてを呑みこんでいる。レンズを割られた一体目の番犬の灰色の背中が、霧の奥にぼんやりと浮かんだ。首を左右に振り、存在しない熱源を探している。
噴き出す冷媒の奔流まで、二メートル。
身体は番犬の真横に回りこみ、その脇腹に肩を入れて、全体重をかけた。
鉤爪が氷を削り、百キロを超える鉄の塊が、横ざまに滑った。灰色の頭部が、白い奔流の真ん中へ突っこむ。
番犬が、跳ねた。
極低温の奔流が、首の付け根の装甲の隙間から、機械の内側へ流れこんでいく。関節の奥の油が凍り、駆動部が軋み、装甲の継ぎ目から、白い霜が花のように噴き出した。四本の脚が、ばらばらの方向へ突っ張ったまま、動かなくなる。
身体は、凍りついた前脚の関節を、横から蹴った。
硝子細工のように、脚が砕けた。
番犬は霜をまとったまま、ゆっくりと氷の上に崩れ落ちた。
あと、一体。
霧の向こうで、二体目の番犬が、ぴたりと動きを止めた。
六つのレンズが、ある一点に向けて、揃って絞りこまれていく。
整氷車の陰だった。
そこに、ユノがいた。
カウンターを撃ち抜かれたあと、ユノはフェンスぎわを這って、広間でいちばん大きな鉄の塊の陰に逃げこんでいたのだ。霧に呑まれた広間の中で、生きた人間の体温を持っているのは、もう、ユノひとりだった。
『熱源、一。対象と推定』
番犬の銃身が、持ち上がる。
『脚部を無力化します』
助けようと思ったのが先だったのか、身体が動いたのが先だったのか、わたしには、わからなかった。
気がつくと、わたしは氷を蹴っていた。霧を裂き、白い台を跳び越え、整氷車の陰へ。うずくまるユノの身体に、覆いかぶさるようにして。
ユノの肩が、氷のようなわたしの腕の中で、びくりと震えた。
連射音。
左の脇腹を、何かが、まっすぐに通り抜けた。
痛みはなかった。ただ、熱かった。焼けた鉄の棒を差しこまれ、すぐに引き抜かれたような熱さ。その熱が、脇腹の一点から、全身へ波紋のように広がっていく。捨てたはずの熱が、身体の中へ、どっと戻ってくる。
『対象を、再確認』
見つかった。
「……動かせる?」
わたしは、ユノの耳もとで訊いた。背後にそびえる、整氷車を。
ユノは青ざめた顔で、それでも一度だけ、頷いた。
「毎朝、これで、氷を張り直してる」
「三つ数えたら、まっすぐ出して。フェンスに沿って」
「あなたは――」
答えずに、わたしは整氷車の陰から飛び出した。
霧の中を、フェンスに沿って走る。わざと足音を立てて。熱を、振りまいて。番犬の銃口が、わたしを追ってくる。弾丸が、背後の強化樹脂の板を次々と砕いていく。
一つ。
番犬が、氷を蹴った。
撃つのをやめ、跳びかかってくる。回収するなら、脚を折って押さえこむほうが確実だと、判断したのだろう。
二つ。
身体は、逃げなかった。跳びかかってきた番犬の前脚を、両腕で受け止める。重い。鉤爪を振りかざした鉄の塊が、全身でのしかかってくる。その勢いのまま、わたしは背中から氷の上に倒れこんだ。倒れながら片足を番犬の腹に当て、蹴り上げる。
番犬の身体が、わたしの頭上を越えて、宙を舞った。
背中からフェンスに叩きつけられた番犬が、もがきながら起き上がろうとする。わたしはその背に跳び乗り、短く太い首に、両腕を巻きつけた。
三つ。
霧の奥に、二つの白い光が灯った。
整氷車の前照灯だった。重いエンジンの唸り。三トン半の鉄の車体が霧を押しのけ、フェンスに沿って、まっすぐに近づいてくる。速くはない。自転車ほどの速さだ。けれど、止まることもない。
番犬の銃身が、回転台ごと、ぐるりと回った。わたしの腕の中で、首をねじるようにして、運転席の――ユノの――ほうへ。
身体は首から腕を解き、番犬の背を蹴って、真上へ跳んだ。
整氷車が、番犬を、フェンスに押しつけた。
鋼が潰れる音がした。装甲板がめくれ上がり、脚が一本、あり得ない方向に跳ね上がる。それでも番犬は、フェンスと整氷車のあいだに挟まれたまま、まだ動いていた。割れずに残った二つのレンズが、運転席のユノを捉えている。ひしゃげた銃身が、震えながら持ち上がっていく。
わたしは、整氷車の鼻先に着地した。
両手で、番犬の頭部を掴んだ。
俺は――。
わたしは、その首を、ねじ折った。
金属の悲鳴が、一度だけ、広間に響いた。
レンズの光が、消えた。
また、首だった。




