第4話 台風のあと、言えなかった好き
夏の終わり。
夏帆のもとに、東京の会社から「戻ってこないか」という連絡が届きます。
戻れば、きっと周囲は安心する。
経歴としても、その方が正しいのかもしれない。
それでも心は、茅ヶ崎に残っている。
海と、店と、
そして――蒼のそばに。
けれど、その気持ちを人生の理由にしていいのか。
夏帆は初めて、自分自身に問いかけます。
八月の終わり、茅ヶ崎に台風が近づいた。
朝から風が強く、ラチエン通りの街路樹が大きく揺れていた。
海は荒れて、白い波が遠くからでもわかるほどだった。
夏帆はいつものように自転車で店へ向かったが、風に押されて、何度かハンドルを取られそうになった。
坂が少ない茅ヶ崎でも、向かい風の日は別だった。
ペダルが重い。
前かごが小さく鳴る。
髪が頬に張りつく。
ラチエン通りを海の方へ進むほど、風に潮の湿り気が混じっていく。
前かごが鳴り、ブレーキワイヤーが小さく震えた。
波音サーフのスクールは、すべて中止になった。
「今日は早じまいだな」
大崎店長が、天気予報を見ながら言った。
店内はいつもより静かだった。
レンタルボードも出番がなく、ウェットスーツも棚に整ったまま。
外を通る人も少ない。
夏帆は予約キャンセルの電話を終え、カウンターの内側で息をついた。
「海、すごいですね」
窓の外を見ながら言うと、蒼が入口のそばで腕を組んだ。
「今日は入っちゃだめな日」
「蒼さんでも?」
「俺でも」
その答えに、夏帆は少し安心した。
海に慣れている蒼でも、入らない日がある。
怖がることは、弱さではないのかもしれない。
そう思った時、スマホが震えた。
画面には、東京で働いていた会社の元上司の名前が表示されていた。
夏帆の指が止まる。
退職してから、個別に連絡が来ることはなかった。
「出なくていいの?」
蒼が聞いた。
「……出ます」
夏帆は店の奥へ行き、電話に出た。
話は短かった。
欠員が出たこと。
人手が足りないこと。
もし戻る気があるなら、以前よりも負担の少ない部署で考えること。
条件も少し見直せること。
「森下さん、まだ若いしね。ここで戻っておいた方が、経歴的にもいいと思うよ」
元上司の声は、悪意のない現実だった。
電話を切ったあと、夏帆はしばらく動けなかった。
戻れる。
その事実は、思ったより重かった。
*
家に帰ってその話をすると、母は少し安心した顔をした。
「戻れるなら、いいんじゃない?」
その言葉に、夏帆は傷ついたわけではなかった。
母は心配しているだけだ。
娘が東京の会社を一年で辞め、地元のサーフショップで働き始めたばかり。
将来を考えれば、正社員に戻れるならその方がいい。
そう思うのは当然だった。
「無理しなくていいのよ。でも、夏帆がもう一回頑張れるなら、お母さんは応援する」
優しい声だった。
だから、余計につらかった。
自分はどうしたいのか。
それが、わからなくなった。
東京に戻れば、親は安心する。
履歴書の空白も小さくなる。
世間的には、きっとその方が正しい。
でも、心はラチエン通りに残っていた。
毎朝、自転車で海へ向かう時間。
波音サーフの店先。
ワックスの匂い。
スクール帰りの子どもたちの声。
ボードを抱えて海へ向かう蒼の背中。
それらを手放したくないと思っている自分がいる。
でも、その理由の中心に蒼がいることを、夏帆は認めるのが怖かった。
好きだから残る。
そんな理由で人生を決めていいのだろうか。
*
翌日、台風は過ぎた。
空は晴れていたけれど、海はまだ荒れていた。
砂浜には流木や海藻が打ち上げられ、空気には湿った匂いが残っている。
夏帆が店に行くと、蒼はすでに来ていた。
店先で、倒れかけた看板を直している。
「おはよう」
「おはようございます」
いつもと同じ挨拶。
でも、夏帆の胸は重かった。
大崎店長は、奥で電話をしていた。
夏帆はカウンターの中に入り、予約表を開く。
けれど文字がうまく頭に入ってこない。
「昨日の電話」
蒼が不意に言った。
夏帆は顔を上げた。
「東京の会社?」
「……はい」
「戻るの?」
その質問は、まっすぐだった。
夏帆は少しだけ笑おうとした。
「まだ決めてません。でも、戻った方がいいのかなって」
蒼は黙った。
その沈黙に、夏帆の胸が小さく痛む。
「親も、その方が安心すると思いますし」
「そっか」
「条件も、前よりはいいみたいで」
「うん」
「ここで働くのも楽しいですけど、ずっとこのままってわけにもいかないし」
言いながら、夏帆は自分の声が少し震えていることに気づいた。
違う。
本当は、そう言いたいわけではない。
でも、蒼に「残ってほしい」と言われたい自分を隠すために、正しそうな言葉を並べている。
蒼は、窓の外の海の方を見た。
「夏帆が決めたなら、それでいいと思う」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
言ってほしかった言葉ではなかった。
行かないで。
残って。
ここにいてほしい。
そんな言葉を期待していた自分が、急に恥ずかしくなった。
「そうですよね」
夏帆は笑った。
うまく笑えたかどうかは、わからなかった。
*
昼過ぎ、夏帆は一人でヘッドランドの近くまで歩いた。
本当は自転車で行けばすぐだった。
けれど、この日は歩きたかった。
風はまだ強く、海は濁っていた。
台風のあとの波は荒く、白く崩れている。
いつもなら、蒼が入っている時間かもしれない。
けれど今日は誰もいない。
夏帆は砂浜に立ち、海を見た。
落ちてもいい。
海って、そういう場所だから。
蒼の声を思い出す。
でも恋は、落ちたらどうなるのだろう。
好きだと言って、もし受け止めてもらえなかったら。
残りたいと言って、もし迷惑そうにされたら。
自分の人生の理由に誰かを入れて、その誰かが離れていったら。
海よりずっと怖い。
スマホが震えた。
里奈からだった。
高校時代の友人で、今も茅ヶ崎で働いている。
「今日、会える?」
短いメッセージ。
夏帆は少し迷ってから、返信した。
「会いたい」
*
夕方、夏帆は里奈と駅近くのカフェで会った。
里奈は高校時代とあまり変わらない明るさで、夏帆の顔を見るなり言った。
「なんか、悩んでますって顔してる」
「してると思う」
「東京?」
「うん」
夏帆は、会社から戻らないかと言われたこと、波音サーフを離れたくないこと、でもそれを理由にしていいのかわからないことを話した。
蒼のことは、少しぼかした。
でも里奈は、すぐに気づいたようだった。
「好きな人いるんだ」
夏帆はカップを持つ手を止めた。
「……わかる?」
「わかる。夏帆、そういう時、説明が急に遠回りになる」
「やだ」
「いいじゃん。好きな人がいるから残りたいって、そんなに悪いこと?」
「悪くはないけど……人生を決める理由としては、弱い気がして」
「じゃあ、仕事だけで決めるのは強いの?」
夏帆は黙った。
里奈はストローで氷をかき混ぜながら言った。
「夏帆、東京から逃げてきたって思ってるんでしょ」
「うん」
「でもさ、戻ってきて働いてるじゃん。毎日ちゃんと店に行ってるじゃん。自転車でラチエン通り走って、海の近くまで通ってるじゃん。誰かに必要とされてるんでしょ」
「……たぶん」
「それって、逃げたあとの続きじゃなくて、新しい生活じゃないの?」
夏帆は、里奈の顔を見た。
「戻ってきたことは、負けじゃないよ」
その言葉は、蒼の言葉とは違う場所から、同じように夏帆を救った。
*
翌朝、夏帆はいつもより早く店に行った。
自転車を店の横に停め、ロッカーを開ける。
中には、初めてスクールに入った日に着たラッシュガードが畳んで入っていた。
まだ少し、潮の匂いがする気がした。
あの日、自分は立てなかった。
でも、落ちて、戻って、もう一度波を待った。
東京に戻るのが怖いわけではない。
茅ヶ崎に残るのが楽だからでもない。
自分は、ここでもう一度立ちたいのだ。
その気持ちに、ようやく名前がついた。
けれど、蒼に会うのは怖かった。
彼は引き止めなかった。
それが答えなのかもしれない。
夏帆はラッシュガードをそっとロッカーに戻した。
その時、店のドアが開く音がした。
蒼の声がする。
「おはよう」
夏帆は振り返り、いつも通りに答えた。
「おはようございます」
好きだと言えなかった。
残りたいとも言えなかった。
蒼もまた、何も言わなかった。
二人の間で、言えない言葉だけが、台風のあとの海のように濁っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
東京へ戻るのか。
茅ヶ崎に残るのか。
夏帆はようやく、「正しそうな道」ではなく、自分が本当に望んでいるものを考え始めました。
けれど、いちばん言ってほしかった人から返ってきたのは、
「夏帆が決めたなら、それでいいと思う」
という言葉。
海では波が来る瞬間を見逃さない蒼なのに、
恋になると、どうしても一歩を踏み出せません。
そして夏帆もまた、
「残りたい」も「好き」も言えないまま。
台風のあとに残った濁りのように、
二人の間には言えなかった言葉だけが残りました。
次はいよいよ最終話。
夏帆は自分の進む道を選び、
蒼は待っているだけだった恋に手を伸ばせるのか。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




