最終話 波待ちの朝、君の名前を呼んだ
東京へ戻るのか。
茅ヶ崎に残るのか。
そして、蒼への気持ちをどうするのか。
夏帆はようやく、
「周りから見て正しい答え」ではなく、
自分が本当に進みたい道を選ぼうとします。
何度落ちても、また戻ればいい。
波が来たなら、今度こそ自分で踏み出せばいい。
夏の終わり。
二人がそれぞれ待ち続けてきた“波”が、ようやくやってきます。
最終話です。
夏帆は三日間、答えを出せずにいた。
東京の会社には、返事を待ってもらっている。
母は急かさなかった。
大崎店長も何も聞かなかった。
蒼も、何も言わなかった。
それが優しさなのか、距離なのか、夏帆にはわからなかった。
ただ、蒼がいつも通りにスクールへ出ていくたび、胸が痛んだ。
海へ向かう前、蒼はいつも参加者の顔を見る。
「今日は立てなくてもいいよ」
「怖かったら、足だけでもいい」
「まずは、海に慣れよう」
その声は、店の中にいる夏帆にも届く。
夏帆はその言葉を、何度も自分の中で繰り返した。
怖かったら、足だけでもいい。
まずは、海に慣れよう。
では、自分は何に慣れようとしているのだろう。
東京へ戻ること。
茅ヶ崎に残ること。
蒼を好きなままでいること。
それとも、自分の気持ちで、自分の道を決めること。
*
その日の午後、波音サーフには子どもたちのスクールが入っていた。
夏休みの終わりが近いせいか、子どもたちは少し寂しそうで、それでも海へ向かう時は元気だった。
夏帆は受付で名前を確認し、ウェットスーツを渡した。
「サイズ、前と同じで大丈夫?」
「うん!」
「タオル忘れてない?」
「忘れてない!」
何度か来ている男の子が、夏帆を見上げた。
「夏帆さん、やめちゃうの?」
突然の言葉に、夏帆は動きを止めた。
「え?」
「お母さんが、夏帆さん東京に行っちゃうかもって言ってた」
誰かの会話が耳に入ったのだろう。
夏帆は困って笑った。
「まだ決めてないよ」
「やだな」
「え?」
「夏帆さんいると安心するもん」
男の子は、濡れる前の髪を手でぐしゃっとかいた。
「この前、俺がウェットスーツ逆に着そうになった時も、笑わなかったし」
夏帆は言葉を失った。
そんなこと、覚えていなかった。
男の子は続けた。
「だから、またいてよ」
それだけ言って、彼は蒼の方へ走っていった。
夏帆は、しばらくその場に立っていた。
私は、ここで何もしていないと思っていた。
ただレジを打って、予約を受けて、タオルを渡して、床の砂を掃いているだけだと思っていた。
でも、それでも誰かの安心になっていた。
東京から逃げてきた自分が、ここでちゃんと誰かとつながっていた。
東京に戻るのが間違いなのではない。
ただ、今の自分は、戻ることで安心したいだけなのかもしれない。
ちゃんとした場所へ戻ったふりをして、また誰かに「大丈夫」と言ってもらいたいだけなのかもしれない。
ここでなら、失敗した自分のまま、もう一度始められる。
波音サーフで。
ラチエン通りの先にある海のそばで。
落ちてもいいと言ってくれる人たちの中で。
夏帆は、ようやく気づいた。
残りたい理由は、蒼だけではなかった。
蒼がいるから、この場所を好きになった。
でも、この場所で踏み出すと決めるのは、自分自身だった。
胸の奥で、何かが静かに決まった。
*
その夜、夏帆は東京の元上司に電話をした。
「お話をいただいて、ありがとうございました」
声は少し震えた。
でも、逃げなかった。
「でも、今回は戻りません」
電話の向こうで、少し驚いたような沈黙があった。
「本当にいいの?」
「はい」
「若いんだから、よく考えた方がいいよ」
「考えました」
夏帆は窓の外を見た。
遠くに海は見えない。
でも、潮の匂いがする気がした。
「今の場所で、もう少し頑張りたいんです」
電話を切ったあと、夏帆は大きく息を吐いた。
不安は消えなかった。
これで正しいのか、明日になったらまた迷うかもしれない。
でも、初めて自分で波に向かった気がした。
*
翌朝、夏帆はまだ暗いうちに目を覚ました。
窓の外は薄い青色だった。
母を起こさないように家を出る。
玄関先に置いた銀色の自転車を出す。
サドルに夜露が少しついていたので、手で払った。
まだ静かな南口側の道を、自転車で走る。
朝の茅ヶ崎は、昼間よりずっと広く感じた。
車も少ない。
自転車のチェーンの音だけが、規則正しく耳に届く。
坂の少ない道を、ペダルが軽く回る。
ラチエン通りに入る。
海へ向かう。
潮の匂いが濃くなる。
いつも蒼が歩いていた道。
ボードを抱えて、迷わず海へ向かっていた背中。
今日は、夏帆がその道を走っている。
砂浜の近くで自転車を停めた。
前かごが小さく揺れる。
鍵をかける手が、少し震えていた。
海に出ると、朝焼けの光が広がっていた。
ヘッドランドの先で、蒼が波待ちをしていた。
海の上に浮かぶその姿は、やっぱり綺麗だった。
でも、もう遠いだけの人ではなかった。
夏帆は息を整え、砂浜から声を張った。
「蒼さん!」
波の音にかき消されそうだった。
けれど蒼は振り返った。
夏帆はもう一度呼んだ。
「蒼さん!」
蒼が波を見送り、ボードに腹ばいになって岸へ戻ってくる。
海から上がった蒼は、濡れた髪のまま夏帆の前に立った。
「どうしたの、こんな朝早く」
夏帆は息を切らしながら言った。
「私、東京には戻りません」
蒼の表情が変わった。
「……いいの?」
「いいんです」
「本当に?」
「はい。やっと、自分で決めました」
蒼は何かを言おうとして、言えないようだった。
夏帆は、彼の目を見た。
「蒼さん」
「うん」
「本当は、引き止めてほしかったです」
言ってしまった。
胸が痛い。
でも、逃げなかった。
蒼は視線を落とした。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃなくて」
「俺、本当は、行ってほしくなかった」
その言葉で、夏帆の胸が大きく揺れた。
「だったら、言ってくださいよ」
「言えなかった」
「どうして?」
「俺が引き止めていいのか、わからなかった。俺、プロにもなれなかったし、今も小さな店で教えてるだけだし。夏帆が東京に戻れるなら、その方がいいのかもって」
夏帆は首を振った。
「それを決めるのは、私です」
「うん」
「私、蒼さんに人生を決めてもらいたいわけじゃないです。でも、蒼さんがどう思ってるかは、聞きたかった」
蒼は唇を噛んだ。
海ではあんなに迷わない人が、今は不器用に言葉を探している。
夏帆は、その姿が愛しかった。
「俺さ」
蒼が言った。
「波は待てるのに、夏帆のことになると、待つふりしかできなかった」
「え?」
「行ってほしくないって思った。でも言えなかった。言わないまま、夏帆が決めるのを待つふりしてた。本当は、怖かっただけなのに」
蒼は夏帆を見た。
朝の光が、彼の濡れた髪を照らしている。
「好きです」
夏帆の心臓が止まりそうになった。
「店員とか、インストラクターとか関係なく。夏帆が好き」
波の音が、遠くなる。
海では、誰よりも待つことを知っている人。
それなのに恋だけは、こんなにも不器用な人。
夏帆は、その不器用さごと、蒼を好きだと思った。
泣きそうになりながら、夏帆は笑った。
「私も、蒼さんが好きです」
言えた。
落ちるかもしれないと思っていた言葉は、ちゃんと届いた。
蒼は、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、夏帆の目から涙がこぼれた。
「なんで泣くの」
「わかりません」
「落ちた?」
「たぶん」
「じゃあ戻ればいい」
蒼が言う。
夏帆は泣きながら笑った。
「海じゃないのに」
「恋も、似たようなもんじゃない?」
「蒼さん、恋は下手そうです」
「自覚ある」
二人は笑った。
朝の海が、少しずつ明るくなっていく。
*
その日、店が開く前に、夏帆はもう一度サーフィンに挑戦した。
大崎店長に見つかったら、「朝から青春だな」とからかわれそうだったので、二人は少しだけ急いだ。
夏帆は初心者用のボードを抱え、波打ち際に立った。
「怖い?」
蒼が聞く。
「怖いです」
「やめる?」
「やめません」
蒼は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、行こう」
波は大きくなかった。
でも、夏帆にとっては十分だった。
ボードに腹ばいになる。
蒼が後ろから支える。
「顔上げて」
「はい」
「焦らない」
「はい」
「波、来るよ」
水の音が近づく。
ボードが前へ走り出す。
「今!」
夏帆は手をつき、膝を引き寄せた。
足を出そうとして、やっぱりバランスを崩した。
海に落ちる。
水が顔にかかり、耳に入る。
でも、今度は怖くなかった。
夏帆は水の中から顔を上げ、大きく笑った。
「また落ちました!」
蒼も笑っていた。
「いい落ち方だった」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる」
蒼が手を伸ばす。
「もう一回、行く?」
夏帆はその手を取った。
「行きます」
*
昼前、波音サーフはいつも通り開店した。
店先には砂のついたビーチサンダル。
棚にはウェットスーツ。
カウンターには予約表。
窓からはラチエン通りを行き交う自転車が見える。
夏帆はレジの前に立ち、スクールに来た子どもにタオルを渡した。
「おはよう。今日は波、よさそうだよ」
「夏帆さん、今日もいる!」
「いるよ」
子どもは嬉しそうに笑った。
その向こうで、蒼がボードを抱えている。
目が合うと、蒼は少しだけ照れたように笑った。
夏帆も笑い返した。
東京に戻らないと決めたからといって、未来が全部見えたわけではない。
波音サーフの仕事がずっと続くかもわからない。
蒼との恋も、これからきっと何度も迷う。
でも、夏帆はもう、自分を「逃げてきた人」とだけ呼ぶのをやめようと思った。
私は戻ってきた。
そして、ここでもう一度、波を待つことにした。
午後の光が、店の床に差し込む。
ワックスの甘い匂いと、潮の匂いが混じる。
夏帆は予約表を閉じ、外を見た。
ラチエン通りの先に、海がある。
その海で、蒼が待っている。
そして夏帆も、もう砂浜で見ているだけではない。
落ちてもいい。
戻ればいい。
また次の波を待てばいい。
夕方、仕事を終えた夏帆は、店の横に停めた銀色の自転車に乗った。
ラチエン通りを、今度は南口側の実家へ向かって走る。
海から少しずつ離れていくのに、不思議と寂しくなかった。
坂の少ない街で、ペダルは軽く回る。
髪の先には、まだ潮の匂いが残っている。
明日もまた、この道を海へ向かって走る。
そう思っただけで、夏帆は少しだけペダルを強く踏んだ。
茅ヶ崎の海は、今日も光っていた。
― 完 ―
最後まで『波待ちの彼は、恋だけが下手だった』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
東京でつまずき、
「頑張れなかった人」だと思いながら茅ヶ崎へ戻ってきた夏帆。
そして、かつてプロを目指しながら夢に届かず、
それでも海から離れられなかった蒼。
二人とも、思い描いていた人生とは違う場所にいました。
けれど、人生は一度波に乗れなかったからといって、そこで終わるわけではありません。
落ちたら戻る。
また波を待つ。
そして、次の波が来た時には、自分の意思で踏み出してみる。
夏帆が茅ヶ崎に残ると決めたのも、
ただ蒼が好きだったからではありません。
海も、店も、そこで出会った人たちも含めて、
「ここでもう一度、自分の人生を始めたい」と思えたからでした。
そして蒼もようやく、待つだけではなく、自分から夏帆へ手を伸ばしました。
海では誰よりも波を待てるのに、
恋だけはどうしようもなく不器用だった人。
そんな蒼の「好き」が、夏帆にちゃんと届いてくれてよかったと思います。
失敗してもいい。
遠回りしてもいい。
一度帰ってきてもいい。
自分で選んだ場所から、また始めればいい。
そんな気持ちが、この物語から少しでも伝わっていたら嬉しいです。
ここまで二人の夏を見届けてくださり、本当にありがとうございました。




