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波待ちの彼は、恋だけが下手だった 〜ラチエン通りのサーフショップで、もう一度はじまる夏〜  作者: ちょこまろ


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3/5

第3話 烏帽子岩の見える海で、彼の夢を知った

少しずつ、蒼のことが気になり始めた夏帆。


いつも明るく、海では誰かの背中を押している彼にも、かつて届かなかった夢がありました。


夢を諦めた人と、

仕事につまずいた人。


夕暮れの茅ヶ崎の海で、二人は初めて、それぞれの弱さを言葉にします。

 夏帆は、蒼のことが気になり始めていた。


 それは、恋と呼ぶにはまだ早い気がした。

 でも、彼が海から戻ってくる時間を、自然と意識している自分がいる。


 朝、実家を出て、自転車で南口側の道を走る。

 ラチエン通りに入ると、夏帆はいつも少しだけペダルをゆるめた。


 この先に、波音サーフがある。

 この先に、蒼がいる。


 そう思うだけで、胸の奥が少し明るくなる。


 店先の砂を掃きながら、ラチエン通りの向こうを見る。

 濡れた髪で戻ってくる蒼の姿を見つけると、今日もちゃんと一日が始まった気がした。


 蒼がスクールに出ている時間、店の中は少し静かになる。


 夏帆はカウンターで予約表を整理しながら、さっきまで店先にいた子どもたちの声を思い出していた。


「今日は立てるかな」

「蒼くん、また押してくれるかな」

「この前、ちょっとだけ波に乗れたんだよ」


 そんなふうに話しながら海へ向かっていった子どもたちの背中を、夏帆は何度も見送ってきた。


 そして、一時間ほどして戻ってくると、みんな顔つきが少し変わっている。


 髪は濡れて、頬は赤く、足には砂がついている。

 さっきまで不安そうだった子が、店の入口で蒼に向かって笑う。


「今の、よかったって言われた!」

「もう一回いけるって言われた!」

「落ちたけど、怖くなかった!」


 夏帆は、タオルを渡しながらその声を聞く。


 蒼が海でどんなふうに教えているのか、夏帆には全部はわからない。

 けれど、戻ってきた子どもたちの顔を見れば、少しだけわかる。


 蒼は、失敗した人を笑わない人なのだ。


 そして、できなかった人の中に、小さくできた部分を見つける人なのだ。


 そのことを知るたびに、夏帆の胸は静かに揺れた。


 蒼は誰にでも優しかった。


 子どもにも、初心者にも、常連にも、大崎店長にも。

 店に来る近所のおばあちゃんにも、配達に来る宅配の人にも。


 ただ、その優しさには、不思議な距離があった。


 近いようで、踏み込めない。

 よく笑うのに、自分の話になるとするりと逃げる。


「蒼さんって、いつからサーフィンしてるんですか?」


 夏帆が聞いた時も、蒼はワックスの箱を整理しながら答えた。


「小学生くらい」


「じゃあ、長いですね」


「茅ヶ崎だしね」


「大会とか出てたんですか?」


「まあ、ちょっと」


 それだけだった。


 ちょっと。


 けれど、蒼の横顔は、ちょっとでは済まない何かを隠しているように見えた。


   *


 その日の夕方、夏帆は店の奥の棚を整理していた。


 古いタオル、切れたリーシュコード、使わなくなったフィン。

 埃をかぶった段ボール箱をどかすと、壁に貼られた古いポスターが出てきた。


 色褪せた大会ポスターだった。


 そこに、蒼がいた。


 今より少し若い。

 高校生くらいだろうか。

 髪は短く、目つきは鋭く、ボードを抱えて海を見ている。


 笑っていない蒼を、夏帆は初めて見た。


 ポスターの端には、地元の期待の若手として彼の名前が書かれていた。


 桐谷蒼。


 その文字を指でなぞりかけた時、後ろから声がした。


「それ、まだあったんだ」


 夏帆は振り返った。


 蒼が立っていた。


「あ、すみません。片付けていたら出てきて」


「別にいいよ」


 蒼は近づいてきて、ポスターを見上げた。


 その顔には、懐かしさも、照れもなかった。

 ただ少しだけ、遠いものを見るような目をしていた。


「蒼さん、すごかったんですね」


「昔の話」


「プロ、目指してたんですか?」


 聞いた瞬間、夏帆は少し後悔した。


 蒼の表情が、ほんの少し固くなったから。


「まあね」


「……すみません」


「なんで謝るの」


「聞かれたくなかったかなって」


 蒼はポスターから目を離し、夏帆を見た。


「聞かれたくないわけじゃない。ただ、話すほどのことでもないから」


 そう言って、蒼はポスターを丸めた。


 その手つきが、妙に静かだった。


   *


 店を閉めたあと、夏帆はゴミ袋を持って外に出た。


 夕方のラチエン通りは、昼間よりも少し落ち着いていた。

 自転車で帰る高校生。

 犬の散歩をする人。

 遠くで聞こえる車の音。


 ゴミ置き場に袋を置いて戻ると、蒼が店先でボードを車に積んでいた。


「夏帆、このあと時間ある?」


 急に名前で呼ばれて、夏帆は少し驚いた。


 前に自分で、夏帆でいいと言った。

 それなのに、実際に呼ばれると胸が跳ねる。


「ありますけど」


「少し、海まで歩かない?」


 夏帆は一瞬だけ迷い、うなずいた。


 自転車は店の横に停めたままにした。

 二人はラチエン通りを海の方へ歩いた。


 夕方の風に、潮の匂いが濃くなっていく。

 夏帆は、蒼の少し後ろを歩いた。


 何を話せばいいのかわからなかった。

 けれど、沈黙は不思議と嫌ではなかった。


 海に出ると、空は薄いオレンジ色に染まっていた。

 サザンビーチの向こうに、烏帽子岩が見える。


 波は昼間より静かだった。

 けれど、絶えず寄せては返している。


 蒼は砂浜に腰を下ろした。

 夏帆も少し離れて座る。


「さっきのポスター」


 蒼が言った。


「はい」


「あれ、高二の時」


「高校生で、あんなふうに載るの、すごいです」


「その頃はね、自分でもそう思ってた」


 蒼は笑った。

 でも、その笑い方は少し苦かった。


「プロになれると思ってた。茅ヶ崎から出て、大会回って、スポンサーついて。そういう未来が、普通に来ると思ってた」


「……」


「でも、怪我した」


 夏帆は何も言えなかった。


「膝。大きい怪我ってほどじゃないけど、戻ってから前みたいに乗れなくなった。怖くなったんだと思う。ここで踏み込んだらまたやるかもって」


「怖く……」


「うん。海の中で、足が止まるようになった」


 蒼は海を見た。


「それでも大会には出た。でも結果は出ない。周りはどんどん上に行く。俺は地元で、昔すごかった人みたいになっていく」


 昔すごかった人。


 その言葉が、夏帆の胸に刺さった。


 東京で頑張れなかった人。

 昔は真面目だった人。

 期待していたのに、途中で折れた人。


 名前は違っても、痛みは似ている気がした。


「諦めたんですか?」


 夏帆は小さく聞いた。


 蒼は少し考えてから答えた。


「諦めたっていうより、届かなかった」


 夕方の風が、二人の間を抜ける。


「でも、海から離れるのは無理だった。だから今は、教えてる」


「悔しくないんですか?」


「悔しくないって言ったら嘘。でも、子どもが初めて立てた時の顔とか、初心者の人が海を怖がらなくなる瞬間とか見ると、これも悪くないって思う」


 蒼はそう言って、砂を指でなぞった。


「ただ、たまに思う。俺は結局、自分が乗れなかった波を、人に教えてるだけなんじゃないかって」


 夏帆は蒼を見た。


 いつも明るい彼が、初めて弱く見えた。


 その弱さを見て、夏帆は少しだけ安心してしまった。

 そんな自分が、ひどいと思った。


 でも同時に、蒼が遠い人ではなくなった気がした。


「私も」


 気づくと、夏帆は口を開いていた。


「私も、東京でうまくいきませんでした」


 蒼は黙って聞いてくれた。


「入社した時は、頑張れると思ってました。ちゃんとメモして、早く覚えて、迷惑かけないようにして。でも、少しずつ遅れていって。質問するのも怖くなって。朝、電車に乗るだけで苦しくなって」


「うん」


「辞めた時、逃げたと思いました」


 言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。


「茅ヶ崎に戻ってきても、安心できなくて。友達はちゃんと働いてるし、親も優しいけど、その優しさが逆につらくて」


「うん」


「私だけ、波に乗れなかったみたいで」


 蒼は少しだけ夏帆を見た。


 そして、静かに言った。


「逃げたって思ってる?」


「思ってます」


「でも、戻ってきたんでしょ」


「はい」


「じゃあ、まだ終わってないよ」


 その言葉に、夏帆は泣きそうになった。


 終わっていない。


 誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。


「いい波ってさ」


 蒼が海を見ながら言った。


「待ってるだけじゃ乗れないんだよ」


「待つのに?」


「うん。待つ。でも、来た瞬間に行かないと乗れない。怖がって迷ってると、波だけ先に行く」


 夏帆は海を見た。


 波が、白く崩れていく。


「難しいですね」


「難しいよ」


「蒼さんでも?」


「俺でも」


 蒼は笑った。


「特に、海以外は下手」


「海以外?」


「人に何か言うとか。引き止めるとか。好きなものに手を伸ばすとか」


 夏帆の胸が、静かに鳴った。


 それは恋の話だろうか。

 それとも夢の話だろうか。


 聞けなかった。


   *


 帰り道、二人はまたラチエン通りを歩いた。


 街灯がつき始め、店の看板がぼんやりと光っている。

 店の横に停めていた夏帆の自転車のかごには、夕方の湿った風が入り込んでいた。


「今日、話してくれてありがとうございました」


 夏帆が言うと、蒼は少し照れたように笑った。


「こっちこそ。夏帆も話してくれたし」


 名前を呼ばれただけで、胸が跳ねる。


「俺のことも、蒼でいいよ」


「……蒼さん」


「さんはつくんだ」


「急には無理です」


「そっか」


 蒼は笑った。


 その笑顔を見て、夏帆は自分の気持ちに気づきかけた。


 私は、この人が好きなのかもしれない。


 でも、それを認めるのは怖かった。


 波に向かって立つより、ずっと怖かった。


 夏帆は自転車に乗り、ラチエン通りを駅の南口側へ戻った。


 坂の少ない道を、ペダルが静かに回る。

 海から離れていくのに、胸の奥では波の音が消えなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


プロを目指していた蒼と、

東京で「頑張れなかった」と思い続けている夏帆。


違う挫折を抱えた二人ですが、


「戻ってきたんでしょ。じゃあ、まだ終わってないよ」


という蒼の言葉によって、夏帆は少しずつ過去だけではなく、これからを見るようになっていきます。


そして、海では迷わず波へ向かえる蒼にも、

人を引き止めたり、好きなものへ手を伸ばしたりすることが苦手な一面が見えてきました。


夏帆の胸に芽生えた気持ちも、もう「気になる」だけでは済まなくなりそうです。


次話では、夏の終わりとともに、夏帆の前にひとつの大きな選択が現れます。


どうぞ続きもお楽しみください。

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