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波待ちの彼は、恋だけが下手だった 〜ラチエン通りのサーフショップで、もう一度はじまる夏〜  作者: ちょこまろ


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第2話 落ちてもいいと、彼は笑った

サーフショップで働き始めて一週間。


少しずつ新しい場所に慣れてきた夏帆は、ひょんなことから初めてサーフィンに挑戦することになります。


失敗することが怖い夏帆と、

「落ちてもいい」と笑う蒼。


海の中で、夏帆は小さな一歩を踏み出します。

 波音サーフで働き始めて一週間が過ぎる頃、夏帆はようやく店の匂いに慣れてきた。


 最初は強すぎると思っていたワックスの甘い匂い。

 濡れたウェットスーツの海水の匂い。

 日焼け止め。

 砂。

 木の棚に染みついた潮気。


 東京のオフィスにあった、空調とコピー機と整った机の匂いとはまるで違う。

 けれど、今の夏帆には、この少し雑な空気の方が呼吸しやすかった。


 通勤にも慣れてきた。


 朝、実家を出て、南口側の道を自転車で抜ける。

 ラチエン通りへ入ると、ペダルを踏むたびに、少しずつ海が近づいてくる。


 坂が少ない街だから、無理に力を入れなくても進める。

 東京で毎朝感じていた、駅へ向かう足の重さとは違った。


 夏帆は、海へ向かって走るこの時間が、少しずつ好きになっていた。


 店の仕事も、少しずつ覚えてきた。


「大人用のMはこっち。子ども用は下の棚」

「初心者ボードは黄色いテープが貼ってあるやつ」

「スクールの予約は、名前と時間とレンタル有無を必ず確認」


 大崎店長は細かいことをあまり言わない。

 その分、夏帆は自分でメモを取った。

 レジの横に小さなノートを置き、ウェットスーツのサイズ表や、常連の名前を書いていく。


 蒼は、店を開ける前に海へ入り、昼になるとスクール生たちを連れてまた海へ向かった。


 スクールへ出る前、参加者たちは店先で蒼の説明を聞く。

 子どもたちは、蒼のことを「蒼くん」と呼ぶ。

 大人の初心者も、彼が話し始めると少し安心した顔になる。


「今日は立てなくてもいいよ」

「怖かったら、足だけでもいい」

「まずは、海に慣れよう」


 夏帆はカウンターで予約表を確認しながら、その声を聞いていた。


 蒼は、最初からできることを求めない人だった。

 失敗する前から、失敗してもいい場所を作ってくれる人だった。


 そして一時間ほどしてスクール生たちが戻ってくると、そのことはもっとよくわかった。


 海へ行く前は不安そうだった子どもが、濡れた髪で笑っている。


「今日、ちょっと立てた!」

「蒼くんが、今のよかったって言ってくれた!」

「落ちたけど、怖くなかった!」


 夏帆はタオルを渡しながら、その声を聞く。


 蒼が海でどんなふうに教えているのか、夏帆には全部はわからない。

 けれど、戻ってきた人たちの顔を見れば、少しだけわかる。


 蒼は、失敗した人を笑わない人なのだ。

 それだけは、店にいてもわかった。


   *


 その日の午後、初心者スクールにキャンセルが出た。


「夏帆ちゃん、入ってみれば?」


 大崎店長が、あまりにも軽く言った。


「え?」


「一人分空いたし。店員が一回も海に入ったことないっていうのも、なんか説得力ないだろ」


「でも、私、本当に無理です」


「無理なら途中で戻ればいい。蒼が見るから」


 その言い方は雑だったけれど、突き放す感じではなかった。


 そこへ、蒼がボードを抱えて戻ってきた。


「なに、夏帆入るの?」


「入りません」


「入るって」


 大崎が勝手に決める。


「入らないです」


 夏帆が慌てて言うと、蒼は笑った。


「大丈夫。初心者コースだから」


「初心者以前です」


「じゃあ、ぴったりだ」


 蒼の声は軽い。

 けれど不思議と、馬鹿にされている感じはしなかった。


 結局、夏帆は貸し出し用のラッシュガードを着ることになった。


 鏡の前に立つと、自分がひどく頼りなく見えた。

 髪を後ろで結び、慣れない格好で店の外に出る。


 ラチエン通りを海へ向かって歩く。

 いつもは自転車で通る道を、今日は自分の足で歩いている。

 しかも、ボードを持って。


 ボードは思ったより大きく、うまく抱えられなかった。


「重いです」


「最初はみんなそう」


「これ、本当に乗るものなんですか?」


「乗るものです」


 蒼が笑う。


 その横顔を見ながら、夏帆はふと思った。

 この人は、海に向かう時だけ、少し顔が変わる。


 店で笑っている時よりも、静かになる。

 ふざけているようで、目は遠くの波を見ている。


 砂浜に出ると、光が眩しかった。


 烏帽子岩が遠くに見える。

 海は穏やかそうに見えた。

 でも、足首まで水に入った瞬間、夏帆は思わず息を呑んだ。


 波が近い。


 白く崩れた水が足元をさらっていく。

 砂が動く。

 身体が持っていかれそうになる。


「怖い?」


 蒼が隣で聞いた。


「少し」


「少しなら大丈夫」


「かなりです」


「かなりでも大丈夫」


「適当ですね」


「適当じゃないよ。怖いって思える方がいい。海をなめてないってことだから」


 その言葉で、夏帆は少しだけ肩の力を抜いた。


 砂浜で、蒼は基本姿勢を教えてくれた。


 ボードに腹ばいになる位置。

 手をつく場所。

 顔の向き。

 立つタイミング。


 説明は丁寧だった。

 でも実際に海に入ると、全部がわからなくなった。


「はい、次の波で行くよ」


「え、もうですか?」


「大丈夫。俺が押すから」


「無理です、待ってください」


「待ちすぎると波が行っちゃう」


 蒼が後ろからボードを押す。


 水が音を立てて背中から迫る。

 ボードが急に前へ走り出す。


「手、ついて! 顔上げて!」


 夏帆は言われた通りにしようとした。


 けれど、身体が固まった。

 立つどころか、横に傾き、そのまま海に落ちた。


 水が耳に入り、鼻がつんとする。

 立ち上がると、髪も顔もびしょ濡れだった。


 蒼が近づいてくる。


「大丈夫?」


「大丈夫です」


「今の、初めてにしては悪くない」


「どこがですか」


「ちゃんと落ちた」


「褒めてます?」


「褒めてる」


 夏帆は思わず笑いそうになった。

 でも、次の波でも落ちた。

 その次も、また落ちた。


 周りのスクール生が少しずつボードの上に立ち始める。

 夏帆だけが、何度も海に飲まれていた。


 胸の奥が、だんだん固くなっていく。


 やっぱり。

 まただ。

 どこに行っても、私はできない側にいる。


 四回目に落ちたあと、夏帆はボードを押しながら砂浜に戻った。


「私、やっぱり向いてないです」


 蒼が隣に座る。


「最初から立てる人なんていないよ」


「でも、みんな見てます」


「見てない。みんな自分が落ちることで忙しいから」


 夏帆は思わず蒼を見る。


 蒼は海の方を見ていた。

 その横顔は、いつもの明るさより少し静かだった。


「東京では、落ちたら終わりだった?」


 急に聞かれて、夏帆は黙った。


 蒼は、答えを急がせなかった。


 波の音だけが、二人の間に流れる。


「……そんな感じでした」


 夏帆は小さく言った。


「一回失敗すると、次も失敗する気がして。そうすると、どんどん手が遅くなって、また怒られて。何をしても、間違える気がして」


「うん」


「辞めた時、逃げたと思いました」


「そっか」


 蒼はそれだけ言った。


 慰めるでもない。

 励ますでもない。

 ただ聞いてくれる。


 それが、少しだけありがたかった。


「海は違うよ」


 蒼が言った。


「落ちたら、戻ればいい」


「戻ればいい……」


「うん。ボード拾って、沖見て、また次の波を待つ。それだけ」


 夏帆は膝を抱えた。


「そんな簡単にできますか?」


「簡単じゃないよ。でも、できるまでやる。できなくても、海は怒らないし」


 海は怒らない。


 その言葉で、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけほどけた。


   *


 夏帆はもう一度、海に入った。


 怖さが消えたわけではない。

 波が来るたびに身体は固まる。

 ボードは相変わらず思い通りにならない。


 それでも、さっきより少しだけ、前を見られた。


「次、行くよ」


「はい」


「焦らない。顔上げて」


 蒼がボードを押す。


 波が後ろから来る。

 ボードが走る。


 夏帆は手をつき、膝を引き寄せた。


 一瞬だけ、ボードの上で身体が浮いた。

 立てたわけではない。

 膝をついただけ。

 すぐにバランスを崩して、また海に落ちた。


 けれど、水から顔を上げた時、蒼が遠くから声を張った。


「今の、よかった!」


 その声が、まっすぐ届いた。


 夏帆は、海水で濡れた顔のまま笑った。


 うまくできなかった。

 でも、少しだけできた。


 それが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。


   *


 店に戻る頃には、夏帆の身体はくたくただった。


 濡れたラッシュガードは重い。

 髪は潮でごわごわしている。

 腕も足もだるい。


 それでも、心だけは少し軽かった。


 店の裏で着替え、髪を拭いていると、蒼がタオルを持って入ってきた。


「お疲れ」


「本当に疲れました」


「最初はそんなもん」


「立てなかったです」


「膝つけたじゃん」


「あれは立ったうちに入りますか?」


「入らない」


「ですよね」


「でも、進んだうちには入る」


 夏帆はタオルで髪を押さえながら、蒼を見た。


 また、胸が少し苦しくなった。


 この人は、どうしてそんなふうに言えるのだろう。

 できないことを、できないまま終わらせない。

 小さな変化を、ちゃんと見つける。


「蒼さんって、教えるの上手ですね」


「そう?」


「はい。怖くなくなります」


 蒼は一瞬、目をそらした。


「昔、自分が怖かったからかな」


「え?」


「いや、なんでもない」


 蒼は笑って、店の表へ戻っていった。


 夏帆はその背中を見送った。


 この人にも、怖かった時があったのだろうか。


 その日の帰り道、夏帆は銀色の自転車でラチエン通りを戻った。


 海から遠ざかるにつれて、潮の匂いは少しずつ薄くなる。

 けれど髪には、まだ海の匂いが残っていた。


 ペダルを踏みながら、夏帆は思った。


 私は、まだ立てなかった。

 でも、落ちても終わりじゃなかった。


 そしてもう一つ。


 蒼が笑うと、胸の奥でまた波が立つ。


 それが何なのか、夏帆はまだ名前をつけられなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


何度落ちても、ボードを拾って戻ればいい。

そして、また次の波を待てばいい。


ずっと「失敗したら終わり」だと思っていた夏帆にとって、蒼の言葉と海での経験は、ほんの少しだけ世界の見え方を変えるものになりました。


まだ立てなかった。

でも、少しだけ進めた。


そして夏帆の中では、蒼への気持ちにも小さな波が立ち始めています。


次話では、そんな蒼が抱えている過去と、かつて目指していた夢が少しずつ見えてきます。


どうぞ続きもお楽しみください。

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