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波待ちの彼は、恋だけが下手だった 〜ラチエン通りのサーフショップで、もう一度はじまる夏〜  作者: ちょこまろ


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第1話 ラチエン通りの先で、彼は波を待っていた

東京でつまずき、故郷の茅ヶ崎へ戻ってきた夏帆。


海の近くで始まる新しい仕事と、そこで出会うひとりの青年。


人生をやり直すには、少し遅いような。

でも、まだ何かを始めるには、きっと遅くない。


夏の茅ヶ崎から始まる物語です。

 茅ヶ崎に戻ってきた日の夜、夏帆は実家の自分の部屋で、段ボール箱を開けないまま座っていた。


 高校生の頃に貼ったままのポストカード。

 日焼けして薄くなったカーテン。

 小さな本棚。

 昔使っていた勉強机。


 何もかもが懐かしいはずなのに、そこにいる自分だけが、少し場違いだった。


 段ボール箱の向こうで、開けた窓からかすかに潮の匂いがした。

 東京にはなかった匂いだった。


 二十三歳。


 大学を出て、東京の会社に就職して、スーツを着て、満員電車に乗って、ちゃんと大人になるはずだった。


 けれど、一年で辞めた。


 朝、電車に乗るのが怖くなった。

 会社の自動ドアをくぐる前に、胸の奥がきゅっと縮むようになった。

 誰かに強く責められたわけではない。

 ただ、小さな失敗を重ねるたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていった。


 退職届を出した日、上司は困ったような顔で言った。


「森下さんは、もう少し頑張れると思っていたんだけどね」


 その言葉は、励ましだったのかもしれない。

 でも夏帆には、最後の判定のように聞こえた。


 頑張れなかった人。


 それが、東京から持ち帰った自分の名前だった。


   *


 夏帆の実家は、茅ヶ崎駅の南口側にあった。


 駅に近いけれど、北口のにぎやかさとは少し違う。

 南口側は、どこか空気がゆるい。

 住宅街の向こうに海があることを、風の匂いがちゃんと教えてくれる。


 翌週、夏帆はラチエン通り沿いにあるサーフショップへ向かった。


 母の知り合いが紹介してくれた店だった。

 人手が足りないらしい。

 レジと受付、スクールの予約管理、レンタルボードの整理。

 サーフィン経験はなくても大丈夫だと聞いた。


 夏帆は、玄関先に置いた銀色の自転車を引っ張り出した。


 高校生の頃から乗っている、少し古い自転車だった。

 ハンドルの端は少し擦れていて、前かごもほんの少し歪んでいる。

 けれど、茅ヶ崎で暮らすにはこれで十分だった。


 茅ヶ崎は、坂が少ない。


 駅の南側に住んでいる夏帆にとって、自転車は昔から足みたいなものだった。

 駅へ行くのも、友達の家へ行くのも、海の近くまで出るのも、自転車があればだいたい足りる。


 東京では、毎朝、駅へ向かう人の流れに飲まれていた。

 けれど今は、駅から離れて、海の方へ向かっている。


 それだけで、自分の人生が少しだけ逆向きに動き出したような気がした。


 ペダルを踏み、ラチエン通りを海の方へ走る。


 最初は、住宅街の匂いだった。

 朝の洗濯物。

 アスファルト。

 開き始めた店のシャッター。


 けれど海へ近づくにつれて、空気の匂いが少しずつ変わっていく。


 潮。

 日焼け止め。

 どこか甘いワックスのような匂い。


 自転車の前かごが小さく揺れる。

 髪の横を、湿った風が抜けていく。


 その途中に、店はあった。


 波音サーフ。


 白い壁は少し潮でくすんでいて、青い看板の文字も、ところどころ剥げていた。

 店先には、砂のついたビーチサンダルが何足も並んでいる。

 軒下にはサーフボードが立てかけられ、窓には古い大会ポスターが貼られていた。


 観光客向けの明るい店というより、地元の人たちが昔から使っている場所。


 夏帆は店の横に自転車を停め、入口の前で一度だけ深呼吸した。


「おはようございます。今日から入ります、森下です」


 店の奥から顔を出したのは、四十代くらいの男だった。

 日焼けした顔に、少し伸びた髪。

 いかにも海の近くで生きてきた人、という雰囲気がある。


「ああ、夏帆ちゃんね。大崎です。よろしく」


「よろしくお願いします」


「そんな固くならなくていいよ。ここ、会社じゃないから」


 会社じゃない。


 その言葉だけで、夏帆は少しだけ息がしやすくなった。


 大崎は店長だった。

 レジの使い方、予約表の見方、レンタルボードの管理、ウェットスーツのサイズ表を簡単に説明してくれた。


「最初は覚えること多いけど、まあ、焦らなくていいから」


「はい」


「海の店はね、焦る人から転ぶんだよ」


 それは冗談のようだったけれど、夏帆はうまく笑えなかった。


 焦ったから、転んだのか。

 それとも、そもそも立てていなかったのか。


 考えかけた時、店のドアが開いた。


 濡れた髪の男の子が入ってきた。


 いや、男の子というには、少し大人だった。

 でも大人の男性というには、どこか少年みたいな空気が残っている。


 身長は高すぎない。

 肩幅はしっかりしていて、濡れた黒髪から水滴が首筋に落ちていた。

 Tシャツの袖から見える腕は、日焼けしている。


「大崎さん、ワックス切れてる」


「またか。奥にあるだろ」


「奥のも空っぽ」


「お前ら使いすぎなんだよ」


 男は笑いながら、カウンターのそばに置いてあるタオルで髪を拭いた。

 その時、夏帆に気づいた。


「あ、今日からの子?」


 軽い声だった。


「森下夏帆です。よろしくお願いします」


「俺、桐谷蒼。スクール担当。よろしく」


 蒼は片手を上げて笑った。


 その笑顔が、夏帆には少し眩しかった。


 太陽の下にいる人の笑い方だと思った。

 自分みたいに、部屋の中でカーテンを閉めていた人間とは違う。


「森下さん、サーフィンやるの?」


「いえ、全然」


「海は?」


「見るのは好きです」


「じゃあ、もったいないね」


 蒼はそう言って、また笑った。


 夏帆は返事に困った。


 海は好きだった。

 でも、波の中に入ったことはほとんどない。

 茅ヶ崎で育ったくせに、サーフィンもできない。

 海の近くにいるのに、いつも砂浜側の人間だった。


「見るのも、悪くないと思います」


 夏帆が小さく言うと、蒼は少し意外そうに目を細めた。


「うん。見るのも悪くない。波って、見てるだけでも飽きないし」


 軽く否定されると思っていた夏帆は、少しだけ力が抜けた。


   *


 その日、夏帆は店の仕事に追われた。


 スクールに来た小学生の受付。

 レンタルボードの番号確認。

 ウェットスーツのサイズ違い。

 電話予約。

 レジの打ち間違い。


 何度も大崎に聞き返し、そのたびに申し訳なくなった。


 東京の会社で働いていた時と同じ感覚が、一瞬だけ戻ってくる。

 また失敗した。

 また迷惑をかけた。

 やっぱり私は、どこへ行っても使えない。


 その時、海から戻ってきた子どもたちが、店先で騒ぎ始めた。


「蒼くん、今日ちょっと立てた!」

「嘘、三秒くらいだろ」

「三秒でも立ったもん!」


 蒼はボードを運びながら笑っていた。


「三秒立てたら、次は四秒いけるよ」


「本当?」


「本当。海は、ちょっとずつでいいから」


 その声が、夏帆の耳に残った。


 ちょっとずつでいい。

 そんなことを、会社で言われたことはなかった。


 夕方になると、店の前の光が柔らかくなった。

 ラチエン通りを通る自転車のベルの音。

 遠くの国道を走る車の音。

 風に混じる潮の匂い。


 蒼は店先で、サーフボードにワックスを塗っていた。


 夏帆は、レジの横を片付けながら、ふと聞いた。


「あの、毎朝、海に入るんですか?」


 蒼は顔を上げた。


「波があれば」


「寒くても?」


「寒くても」


「眠くても?」


「眠くても」


「すごいですね」


 夏帆が言うと、蒼は少し笑った。


「いい波って、待ってくれないから」


 夏帆は、その言葉を心の中で繰り返した。


 いい波は、待ってくれない。


 自分は今まで、何を待っていたのだろう。

 誰かが大丈夫だと言ってくれること。

 また普通の道に戻れること。

 失敗した自分が、最初からいなかったことになる日。


 そんな波は、来るのだろうか。


   *


 翌朝、夏帆は少し早く家を出た。


 理由は特になかった。

 早く店に着いて、昨日の予約表を確認しておきたかった。

 そう自分に言い聞かせていた。


 まだ人通りの少ない南口側の道を、自転車で走る。

 茅ヶ崎の朝は、自転車の音が似合う。

 学生も、買い物へ向かう人も、海へ行く人も、それぞれの速度でペダルを踏んでいる。


 ラチエン通りは、朝の光の中で静かだった。

 昨日よりも空気が澄んでいて、潮の匂いが濃い。


 店の前に近づいた時、夏帆はブレーキをかけた。


 蒼がいた。


 まだ店は開いていない。

 蒼はボードを抱え、海の方へ歩いていくところだった。


 背中はまっすぐだった。

 肩にボードを載せて、何の迷いもなく、朝焼けの方へ進んでいく。


 夏帆は自転車にまたがったまま、その姿を見送った。


 ラチエン通りの先に、海がある。

 彼はそこへ行く。

 たぶん、当たり前のように。


 夏帆には、それが少し羨ましかった。


 自分にも、あんなふうに迷わず向かえる場所があっただろうか。


 昼前、蒼は濡れた髪で店に戻ってきた。


「おはよう、森下さん」


「おはようございます」


「早いね」


「予約表を確認したくて」


「真面目だな」


 その言い方に、からかいはなかった。

 夏帆は少しだけ安心する。


 蒼はカウンターに肘をつき、ふと思いついたように言った。


「森下さん、サーフィンやったことないんだっけ?」


「ないです」


「じゃあ今度、俺が教えるよ」


「無理です」


 夏帆は即答した。


 蒼が笑う。


「早いな」


「私、絶対落ちます」


「落ちてもいいよ」


「え?」


「海って、そういう場所だから」


 その言葉が、昨日からずっと胸の奥に残っていた何かに、そっと触れた。


 落ちてもいい。


 東京では、落ちたら終わりだと思っていた。

 一度つまずいたら、もう戻れないと思っていた。

 でもこの人は、あまりにも自然に言う。


 落ちてもいい、と。


 夏帆は返事をしなかった。

 ただ、店の外から入ってくる潮の匂いを吸い込んだ。


 胸の奥で、小さな波が立っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「落ちてもいいよ。海って、そういう場所だから」


蒼の何気ない一言が、失敗することを怖がっている夏帆の中に、小さく残り始めました。


まだサーフィンもできない。

まだ自分のこれからも決められない。


それでも、ラチエン通りの先にある海で、夏帆の日常は少しずつ動き始めます。


次話では、夏帆が初めて実際に海へ入ることに。

どうぞ続きもお楽しみください。

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