第八章 狂人たちの逢瀬
午後七時。
冬の渋谷は、無数の光と人々の熱気に包まれていた。
日が沈んでから数時間が経ち、空はすっかり黒く染まっている。ビルの壁面を覆う巨大な街頭ビジョンには色鮮やかな広告が次々と映し出され、飲食店の看板やネオンが、冷え切った夜の街を照らしていた。
吐く息は白く、道行く人々は厚手のコートやマフラーに身を包んでいる。
仕事帰りの会社員。買い物袋を提げた若者。腕を組んで歩く恋人たち。スマートフォンを片手に談笑する学生たち。
誰もがそれぞれの目的地へ向かい、思い思いの夜を過ごしていた。
駅前では待ち合わせをする人々が行き交い、路上では外国人観光客がカメラを構えている。大型ビジョンから流れる音楽、車のエンジン音、信号機の電子音、そして絶え間なく重なり合う人々の話し声。
日本有数の繁華街は、今夜も普段と変わらない賑わいを見せていた。
その中心にある渋谷スクランブル交差点。
赤信号の前には、数百人もの歩行者が集まっていた。
その群衆の中に、一人の少女が立っていた。
黒いロングコートを羽織り、肩まで伸びた黒髪を冬の風になびかせている。
美咲だった。
今夜、彼女はウサギの面を被っていなかった。
白い肌に整った顔立ち。大きな瞳と、わずかに赤みを帯びた唇。どこにでもいる美しい女子高生にしか見えない。
しかし、その瞳には、かつての美咲が持っていた柔らかな光は残っていなかった。
彼女の視線は、交差点の向こう側に向けられていた。
そこには、一人の男が立っている。
黒いロングコートを身にまとい、両手をポケットに入れた長身の男。
佐伯だった。
彼もまた、美咲を見つめていた。
交差点を挟んだ数十メートルの距離。
行き交う車のヘッドライトが二人の顔を交互に照らし、冷たい風がコートの裾を揺らしていた。
美咲の胸の奥で、何かが静かに脈打っていた。
ようやく会える。
自分からすべてを奪った男。
悠真を殺し、家族を奪い、かつての自分を壊した男。
あの日から何度も夢に見た。
佐伯の喉を切り裂き、その命が尽きる瞬間を。
かつての美咲であれば、その顔を見ただけで恐怖に震えていただろう。
あの倉庫で味わった絶望。逃げ場のない苦痛。どれほど泣き叫んでも、目の前の男は笑っているだけだった。
だが、今は違う。
恐怖も、緊張も、もはや彼女の心を支配することはなかった。
あるのは、胸の奥で燃え続ける憎悪。
そして、その憎悪さえも飲み込もうとする、奇妙な高揚感だった。
殺したい。
あの男を、自分の手で殺したい。
だが、それだけではない。
佐伯がどれほど苦しむのか。どんな表情を見せるのか。あの穏やかな笑顔が恐怖に歪む瞬間、自分はどれほど愉快な気分になるのだろう。
そんな想像をするだけで、自然と口元が緩んでしまう。
美咲は、その変化をもう疑問に思わなくなっていた。
自分が以前とは違う人間になったことなど、とうに理解している。
それがどうしたというのだ。
今夜、あの男を殺せるのなら。
それ以上に望むことなどなかった。
佐伯も同じだった。
遠くからでも分かる少女の美しさ。
そして、その美しい顔の奥に潜む、以前とは比較にならないほど濃密な殺意。
佐伯は思わず口元を緩めた。
自分が壊し、自分が生み出した少女。
あの倉庫で絶望に泣き叫んでいた少女が、今では自分を殺すために堂々と目の前に立っている。
なんと素晴らしい変化だろう。
あのとき、彼女の精神が完全に壊れてしまっていたら、ここまでの楽しみは得られなかった。
だが、美咲は違った。
憎悪を失わず、復讐という目的を持ち続け、そのために自らを変えてきた。
しかも、彼女はすでに大勢の人間を殺している。
かつて人を傷つけることさえ恐れていた少女が、今では殺人そのものに躊躇を見せない。
佐伯にとって、それは何よりも喜ばしい成長だった。
そして今夜、その少女が自分を殺しに来た。
これほど胸が躍る再会があるだろうか。
信号が青に変わった。
電子音が鳴り響き、待ち構えていた群衆が一斉に歩き始める。
美咲も歩き出した。
佐伯もまた、ゆっくりと足を踏み出す。
周囲の人々は互いの肩を避けながら、足早に交差点を渡っていく。
しかし、二人だけは違っていた。
一歩。
また一歩。
互いの姿だけを見つめ、真っすぐに歩いていく。
やがて、交差点の中央で二人は足を止めた。
すぐ横を何人もの歩行者が通り過ぎていく。
大型ビジョンから流れる陽気な音楽が、二人の頭上に降り注いでいた。
佐伯が微笑んだ。
「こんばんは、美咲さん」
その声は、かつて教壇に立っていた頃と何一つ変わらない、穏やかで丁寧なものだった。
「今夜のデートがあまりにも楽しみでしてね。昨日はなかなか寝付けませんでしたよ。こんな気持ちになったのは、本当に久しぶりです」
まるで恋人との待ち合わせに現れた男のように、佐伯は嬉しそうに語った。
だが、その瞳は笑っていなかった。
目の前の少女がどのような殺し方を見せてくれるのか。そして、自分が彼女を追い詰めたとき、今度はどのような表情を浮かべるのか。
佐伯の関心は、ただそれだけに向けられていた。
美咲はその顔を見つめたまま、ゆっくりと唇を吊り上げた。
「あはは……奇遇ね。私もよ」
少女の声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
「あなたの身体を引き裂いて、どんな声で泣き叫ぶのか想像していたら……楽しみすぎて、私も全然眠れなかったの」
美咲は小さく首を傾げた。
「ねえ、佐伯先生。今夜はたくさん叫んでくれるんでしょう?」
その口調は甘く、どこか無邪気ですらあった。
しかし、そこには冗談も虚勢も存在しない。
美咲は本気で、その瞬間を楽しみにしていた。
かつて自分が味わった絶望を、今度は佐伯に味わわせる。
あの男が苦しみ、命乞いをし、最後には自分の手で息絶える。
想像するだけで胸が弾んだ。
その言葉を聞いた佐伯は、心底嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしい。以前のあなたからは想像もできないお誘いですね」
彼の声には、教師が優秀な教え子の成長を喜ぶような満足感が滲んでいた。
「ですが、美咲さん。私も簡単に殺されるつもりはありませんよ。せっかくの機会ですから、あなたがどこまで成長したのか、じっくり確かめさせていただきたい」
「褒めてくれてありがとう。でも、勘違いしないでね」
美咲の笑みが深くなる。
「私はあなたを殺しに来たの。先生に褒めてもらうためじゃないわ」
「ええ。もちろん承知しています」
佐伯は軽く頭を下げた。
「私も、そのつもりで来ましたから」
二人の間を冷たい風が吹き抜けた。
周囲の雑踏は変わらない。
誰も、この二人が交わしている会話の意味を理解していなかった。
佐伯はふと思い出したように右手を胸に当てた。
「そういえば、こうして正式にお会いするのは初めてですね。せっかくですから、改めて自己紹介をしませんか?」
美咲は一瞬だけ目を丸くし、やがて楽しそうに笑った。
「いいわよ。デートなら、最初の挨拶は大切だものね」
彼女はロングコートの裾を軽く摘み、芝居がかった仕草で頭を下げた。
「大切な人を奪われ、家族を奪われ、幸せだった人生をすべて壊された哀れなウサギ……美咲です」
顔を上げた少女の瞳には、凍りつくような殺意が宿っていた。
「今夜は、あなたを殺すために来ました。どうぞよろしく」
佐伯は満足そうに拍手した。
「実に素敵なご挨拶です」
そして、今度は自分が一歩下がった。
「では、私も」
佐伯は優雅に一礼した。
「元教師、佐伯。かつてはごく普通の教育者として、若い人々の成長を見守っておりました」
そこで顔を上げ、唇を歪めた。
「ですが、それは仮の姿です」
美咲の目がわずかに細くなった。
「私の本当の名は――ジャック・ザ・リッパー」
一瞬、美咲の表情が変わった。
「……ジャック・ザ・リッパー?」
その名には聞き覚えがあった。
かつてイギリスで起きた、歴史に名を残す猟奇殺人事件。
切り裂きジャック。
正体不明のまま語り継がれてきた、あまりにも有名な殺人鬼の名前だった。
美咲は佐伯の顔をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「なるほどね……先生がただの変態じゃないことは分かっていたけど、そんな名前まで名乗っているなんて」
その瞳には、もはや驚きよりも好奇心が浮かんでいた。
「でも、少し納得したわ。あれだけ人を苦しめるのが好きなんだもの。普通の人間じゃないとは思っていたけど……本物の怪物だったのね」
佐伯は愉快そうに笑った。
「おや、失礼ですね。怪物とは少々心外です」
「じゃあ、何なの?」
「芸術家、とでも呼んでいただきたいですね」
美咲は吹き出した。
「あははは! 最悪の芸術家ね!」
「ありがとうございます。あなたにそう言っていただけるとは光栄です」
佐伯は嬉しそうに微笑んだ。
美咲もまた、笑っていた。
だが、二人の視線は一度たりとも相手から逸れていない。
どちらも笑顔の奥で、相手を殺す瞬間を思い描いていた。
そして、どちらも自分が殺される可能性など、少しも恐れていなかった。
そのときだった。
「きゃっ!」
背後から歩いてきた若い女性が、美咲の背中にぶつかった。
女性はよろめき、隣にいた恋人らしい男性に支えられた。
「痛っ……何なの、もう……」
女性は顔をしかめ、ぶつけた肩を押さえた。
男性は美咲を睨みつけた。
「おい! 何で交差点の真ん中で立ち止まってんだよ!」
美咲は振り返らなかった。
視線は佐伯に向けられたままだった。
無視されたことで、男性の怒りはさらに強まった。
「おい、聞いてんのか!」
男性は美咲の前に回り込んだ。
女性もその後を追う。
結果として、二人のカップルは美咲と佐伯の間に割って入る形になった。
「何だよ、お前ら。こんなところで喧嘩でもしてんのか?」
男性は佐伯と美咲を交互に見た。
「とりあえず謝れよ。こっちは痛い思いしてんだぞ!」
佐伯は困ったように眉を下げた。
せっかく楽しい時間を過ごしていたというのに。
目の前の男は、まるで自分たちがどれほど無粋なことをしているのか理解していないらしい。
一方、美咲も小さくため息をついていた。
ようやく佐伯と再会できたというのに、見ず知らずの人間に邪魔をされる。
以前の美咲なら、たとえ相手に非があっても謝っていただろう。
だが、今の彼女には、そのような考えは浮かばなかった。
邪魔なものは排除すればいい。
ただ、それだけだった。
「……うるさいですね」
「邪魔をしないでください」
二人の声が重なった。
美咲と佐伯は、一瞬だけ互いの目を見た。
そして、同時に微笑んだ。
次の瞬間だった。
佐伯の右手がコートの内側から閃いた。
男が怒鳴り声を上げようとした瞬間、その首元を鋭い刃が走った。
ほとんど同時に、美咲も動いていた。
彼女の手に握られた包丁が銀色の軌跡を描き、女性の顔を切り裂いた。
「がっ……!」
男性は首元を押さえながら膝を折った。
女性は悲鳴にならない声を漏らし、顔を押さえてよろめいた。
二人とも何が起きたのか理解できないまま、アスファルトへ崩れ落ちた。
足元に赤いものが広がっていく。
近くにいた通行人が足を止めた。
「……え?」
誰かが間の抜けた声を漏らした。
倒れた女性は震える指を顔に当てたまま、目を見開いていた。
何が起きたのか。
なぜ自分が倒れているのか。
なぜ、こんなにも痛いのか。
理解が追いつかなかった。
周囲の人々も同じだった。
あまりにも突然の出来事に、悲鳴すら上がらない。
佐伯は手にした刃物を眺め、残念そうに呟いた。
「せっかくのデートを邪魔するなんて、無粋な方々ですね」
その口調には、人を傷つけたことへの興奮すら感じられなかった。
まるで、食事中に飛んできた虫を払いのけた程度の出来事でしかない。
美咲は足元の二人を一瞥した。
「本当に。せっかく楽しくお話ししていたのに」
彼女の声もまた、驚くほど穏やかだった。
佐伯はそんな美咲を見つめ、満足そうに目を細めた。
「いやはや……驚きました。少しは躊躇するかと思っていましたが、実に見事ですね」
美咲は楽しそうに笑った。
「あら、先生こそ。私が動くのとほとんど同時だったじゃない」
「お褒めいただき光栄です」
「ふふっ。やっぱり、今夜は楽しめそうね」
「ええ。私も同感です」
二人は、足元に倒れた人間など存在しないかのように微笑み合っていた。
その光景こそが、何よりも異常だった。
そして、美咲は肩に掛けていたバッグへ手を伸ばした。
中から取り出したのは、白いウサギの面。
長い耳。
黒くくり抜かれた目。
そして、不気味に笑っているような口元。
美咲はそれをゆっくりと顔に被った。
その姿を見た若い男性が、震える声を漏らした。
「……ラビット?」
数日前からテレビやSNSを騒がせていた、ウサギの面を被った大量殺人犯。
その姿が、今、目の前にある。
「ラビットだ……!」
男の声が裏返った。
「うわああああっ!」
悲鳴が上がった。
それを合図に、周囲の人々が一斉に逃げ始めた。
押し合う人々。
転倒する若者。
泣き叫ぶ女性。
交差点は瞬く間に混乱へと変わった。




