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RABBIT(ラビット)  作者: 龍元


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第九章 狂愛の幕開け


その中心で、二人の殺人鬼が向かい合っていた。


「さて、美咲さん」


佐伯が嬉しそうに笑った。周囲では人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っていたが、彼の視線は目の前の少女だけに向けられていた。


「そろそろ始めましょうか」


ラビットは包丁を構えた。


「ええ。最高の夜にしましょう」


ウサギの面の奥で、美咲の瞳が細くなった。

目の前にいる男は、自分からすべてを奪った張本人だった。

悠真を殺し、家族を奪い、自分の人生を狂わせた男。

何度殺しても足りないほど憎い。

そのはずなのに、胸の奥では奇妙な興奮が膨らんでいた。


ようやく、この男を自分の手で殺せる。

そう思うだけで、自然と口元が緩んでしまう。

次の瞬間、二人が同時に地面を蹴った。


キィンッ!


鋭い金属音が交差点に響いた。

ラビットの包丁が佐伯の喉元へ迫り、佐伯の刃がその軌道を遮った。

火花のような光が散る。

佐伯は刃を滑らせながら手首を返し、ラビットの首筋へ斬撃を放った。

ラビットは上体を反らしてかわし、その勢いのまま身体を回転させる。

狙いは佐伯の脇腹。

しかし、佐伯はすでに半歩後退していた。

刃が空を切る。


「ははっ! 素晴らしい!」


佐伯が歓喜の声を上げた。


「以前のあなたとは、まるで別人ですね!」


「当たり前でしょう!」


ラビットは着地と同時に踏み込んだ。


「お前を殺すために、どれだけ準備したと思ってるの!」


右から首を狙う。

佐伯が受け止める。

即座に手首を返し、腹部へ突きを放つ。

佐伯は身体をずらしてかわし、ラビットの腕を押さえようとした。

しかし、その手が届くより早く、ラビットは後方へ跳んでいた。


「おや?」


佐伯の眉がわずかに上がった。


「今のは、なかなかよい判断でしたね」


「先生に褒められても嬉しくないわ!」


ラビットは再び切り込んだ。

二人の刃が連続して衝突する。

甲高い金属音が重なり、黒いロングコートが激しく翻った。

周囲の人々には、二人の動きを目で追うことすら難しかった。

交差点の中央で始まった戦闘は、瞬く間に歩道へ移り、さらに車道へと広がっていった。

急停止した車が何台も連なり、クラクションが鳴り響く。

逃げ遅れた男性が、二人の進路上で立ち尽くしていた。


「どけ!」


ラビットは男性を蹴り飛ばした。

男性の身体が車の側面に激突し、そのまま崩れ落ちる。

佐伯はその光景を見て、嬉しそうに目を細めた。


「実に素晴らしい。以前のあなたなら、他人を傷つけることにさえ躊躇していたでしょうに」


「邪魔だっただけよ!」


「ええ。その考え方が素晴らしいんです!」


佐伯は笑いながら斬りかかった。

ラビットは刃を受け止めたが、次の瞬間、佐伯の蹴りが腹部に突き刺さった。


「ぐっ……!」


身体が後方へ吹き飛ぶ。

ラビットは地面に片手をつき、勢いを殺して着地した。

しかし、顔を上げたときには、佐伯が目前に迫っていた。


鋭い刃が横薙ぎに走る。

ラビットは咄嗟に頭を下げた。

ウサギの面の表面に細い傷が走った。


「惜しいですね」


佐伯は穏やかに微笑んだ。


「ですが、あなたの攻撃にはまだ無駄が多い」


ラビットは舌打ちした。

速さでは負けていない。

少なくとも、瞬間的な加速なら自分の方が上回っている。

それなのに攻撃が届かない。

佐伯はラビットが動き出す前から、その行動を予測しているかのようだった。

刃を振り下ろす瞬間には、すでに回避する方向へ身体が動いている。

一方、自分は佐伯の攻撃に反応するだけで精一杯だった。


経験の差。

それが、想像していた以上に大きかった。

だが、不思議と恐怖はなかった。

むしろ、楽しかった。

これまで相手にしてきた人間は、誰もが簡単に倒れた。

命乞いをし、泣き叫び、抵抗らしい抵抗もできずに死んでいった。

しかし、この男は違う。

本気で殺そうとしても、簡単には殺せない。

その事実が、ラビットの胸を高鳴らせていた。


「……あはっ」


少女の口から小さな笑いが漏れた。

佐伯はそれを聞き逃さなかった。


「おや。楽しくなってきましたか?」


「ええ」


ラビットは包丁を握り直した。


「お前が思ってたよりずっと強くて、嬉しいわ」


「それは光栄です」


「簡単に死なれたら、つまらないもの!」


佐伯は一瞬目を見開き、やがて声を上げて笑った。


「ははははっ! 最高ですよ、美咲さん!」


二人は再び激突した。

金属音が連続して響く。

佐伯が右肩を狙う。

ラビットはかわす。

その直後、佐伯の左手が動いた。

ラビットは反射的に身を引いた。

しかし、完全には避けられなかった。

コートの袖が裂け、腕に鋭い痛みが走る。


「……っ!」


ラビットは後退した。

佐伯は追撃せず、嬉しそうに微笑んだ。


「今の動き、覚えておいてくださいね」


「……何?」


「あなたは最初の攻撃をかわした時点で、安心してしまったんです。ですが、戦闘はそこで終わりではありません」


佐伯は刃を軽く振った。


「相手が次に何をするのか。常に考え続けなければなりませんよ」


ラビットは黙って佐伯を見つめた。

腹立たしい。

殺し合いの最中に、教師のような口調で説明を始める。

しかも、その言葉が正しいことが余計に腹立たしかった。


だが、ラビットは気づいていた。

佐伯の動きには、一定の規則がある。

自分が大きく踏み込めば、佐伯は最小限の動きでかわす。


攻撃を連続させれば、刃を受け流しながらこちらの姿勢を崩そうとする。

決して無駄に動かない。

ならば、その動きを覚えればいい。

次に同じ攻撃が来たとき、対応できるように。

ラビットは笑った。


「……ありがとう、先生」


佐伯が首を傾げる。


「おや?」

「いい勉強になったわ」


そして、再び踏み込んだ。

今度は先ほどと同じように、佐伯の右肩へ切り込む。

佐伯は当然のように刃を受け流した。

続けて左手が動く。

だが、その瞬間。

ラビットはすでに身体を沈めていた。

佐伯の攻撃が空を切る。


「……ほう!」


佐伯の目が輝いた。

ラビットは低い姿勢から斬り上げた。

佐伯は後退してかわしたが、黒いコートの裾が裂けた。


「どう?」


ラビットが笑った。

「先生の授業、ちゃんと聞いてたでしょう?」

佐伯は裂けたコートを見下ろした。

そして、心底嬉しそうに笑った。


「……素晴らしい」


彼の胸が高鳴っていた。

自分の動きを見て、即座に学習している。

一度受けた攻撃を、次には見切ろうとする。

身体能力だけではない。

この少女は、戦闘の最中に成長している。


「本当に……素晴らしいですよ、美咲さん!」


佐伯は歓喜に満ちた声を上げた。


「ますます、あなたが欲しくなってしまいます!」


「気持ち悪いこと言わないで!」


ラビットは笑いながら切り込んだ。


「欲しいなら、殺して奪ってみなさいよ!」


「ふふっ。それも魅力的ですが……」


佐伯は刃を受け流しながら、ゆっくりと視線を動かした。


「その前に、あなたへお渡ししたいものがあるんです」


「……何よ?」


「今夜のデートのために、特別なプレゼントを用意してきました」


ラビットは呆れたように笑った。


「プレゼント? 指輪でもくれるの?」


「指輪も素敵ですね。ですが、今夜はもっと特別なものです」


佐伯が示した先には、交差点から少し離れた場所にあるコンビニエンスストアがあった。

店は改装中らしく、ガラス面には大きな垂れ幕が掛かっている。

周囲の店が明るく営業している中、その一軒だけが暗く沈んでいた。

佐伯はコートのポケットから小さな装置を取り出した。


「では、最初のプレゼントです」


ボタンを押す。

店先の垂れ幕が、ゆっくりと巻き上がっていった。

ガラス越しに店内の様子が現れる。


「……何、あれ」


ラビットの声が低くなった。

店内には、大勢の男女がいた。

二十人以上はいるだろう。

床に座り込む者。

倒れたまま身体を動かそうとする者。

互いにしがみつき、必死に助けを求める者。

足に深い傷を負い、自力では立ち上がれない人々もいた。


全員の衣服が濡れ、髪から液体が滴っていた。

若い女性がガラスに向かって何かを叫んでいる。

中年の男性が、必死に窓を叩いていた。

しかし、その声は外まで届かない。

佐伯はうっとりと目を細めた。


「いかがです? なかなか壮観でしょう」


ラビットは黙って店内を見つめた。

濡れた衣服。

逃げられない人々。

佐伯の手にある装置。

その意味を理解した瞬間、少女の口元から笑みが消えた。


「……まさか」


「ええ」


佐伯は嬉しそうに頷いた。


「では、始めましょう」


再びボタンを押した。

次の瞬間、店内に炎が走った。


「――っ!」


ガラスの向こうで人々が一斉に身をよじった。

炎から逃れようと床を這い、互いに押し合いながら出口へ向かう。


若い女性が口を大きく開けて叫んだ。

男性が窓ガラスを激しく叩く。

床に倒れた人々が、必死に身体を動かそうとする。

しかし、逃げ場はなかった。

店内を満たす炎が、恐怖に歪んだ顔を次々と照らし出した。


やがてガラスに亀裂が走った。

そして、店内から凄まじい悲鳴が漏れ始めた。

幾重にも重なる絶叫。

助けを求める声。

絶望に満ちた叫び。

佐伯はゆっくりと目を閉じた。

まるで美しい交響曲を聴いているかのように。


「……ああ」


恍惚とした吐息が漏れた。


「素晴らしい……」


その表情には、心からの幸福が浮かんでいた。


「美咲さん。人間が最後の瞬間に奏でる声には、普段決して聴くことのできない美しさがあるんです」


佐伯は両手を広げた。


「恐怖、絶望、苦痛……それらが重なり合ったとき、実に素晴らしい音楽が生まれる」


彼はラビットへ振り返った。


「あなたのためだけに用意した、特別な演奏会ですよ」


そして、恋人に感想を求めるように微笑んだ。


「いかがですか? お気に召しましたか?」


ラビットは答えなかった。

燃え上がる店内を見つめていた。

以前の自分なら、恐怖で動けなくなっていただろう。

人々を助けようと必死になっていたかもしれない。

だが今は違った。


目の前で大勢の人間が死にかけている。

その事実を理解しているのに、恐怖も悲しみも湧いてこない。

代わりに、胸の奥で奇妙な興奮が膨らんでいた。

悲鳴が重なるたびに、鼓動が速くなる。

そのことに気づいた瞬間、ラビットは小さく笑った。


「あは……」


肩が震えた。


「あははははっ!」


佐伯の目が輝いた。


「おや! 喜んでいただけましたか?」


「ええ、素敵よ」


ラビットは包丁を握り直した。


「でもね……」


ウサギの面の奥で、少女の瞳が細くなった。


「私が一番聞きたいのは、お前の断末魔なのよ!」


一気に踏み込んだ。

鋭い刃が佐伯の喉元へ迫る。


「おっと!」


佐伯は刃を受け止め、楽しそうに後退した。


「おやおや。あまりお気に召しませんでしたか?」


「当たり前でしょう!」


ラビットは連続して切り込んだ。


「私はお前を殺しに来たの!」


「それは残念です」


佐伯は本当にがっかりしたように肩を落とした。


「かなり時間をかけて準備したんですがね」


そして、突然背を向けて走り出した。


「では、次のプレゼントにしましょう!」


「逃げるな!」


ラビットは叫び、後を追った。

冬の渋谷を、二人の黒い影が駆け抜けていく。

巨大な街頭ビジョンには明るい広告が流れ、路上には逃げ惑う人々の悲鳴が響いていた。

佐伯は時折振り返り、ラビットが追ってきていることを確認しては、嬉しそうに笑った。


「こちらですよ、美咲さん!」


「待ちなさい!」


「そんなに急がなくても、逃げたりしませんよ!」


やがて二人は、大型商業施設に隣接した広場へたどり着いた。


広場の中央には、大きな噴水があった。

水面には周囲のイルミネーションが映り込み、青や白の光が静かに揺れている。

しかし、その噴水の中央には、異様な光景があった。

若い男女が、背中合わせに縛りつけられていた。

二人とも二十歳前後だろうか。

男性は女性を庇おうと必死に身体を動かし、女性は涙を流しながら何度も首を振っていた。


「助けて……お願い……!」


女性の声が震えていた。


「誰か! 誰か助けてくれ!」


男性が叫んだ。

佐伯は噴水の前で立ち止まった。


「さて、美咲さん」


ラビットも足を止めた。


「今度は何?」


佐伯は人差し指を唇に当てた。


「少しだけお待ちください。今度は視覚的な芸術です」


ラビットは呆れたように肩をすくめた。


「本当に趣味が悪い男ね」


「ありがとうございます」


佐伯は嬉しそうに笑った。

そして、ゆっくりと指を三本立てた。


「では、カウントダウンを始めましょう」


「三」


噴水の中央で、女性が泣き叫んだ。


「いや……いやあっ!」


「二」


男性が必死に身体をよじる。


「やめろ! 頼む! 彼女だけは!」


「一」


佐伯の姿が消えたように見えた。

次の瞬間、噴水の中央で二人の身体が揺れた。

鋭い刃が閃き、男女の叫びが途切れる。

同時に、噴水が勢いよく吹き上がった。


水柱が夜空へ伸び、周囲のイルミネーションを反射して輝いた。

しかし、噴き上がった水には赤い色が混じっていた。

青白い光に照らされながら、赤く染まった水が無数の飛沫となって降り注ぐ。

縛られた男女は、もう動かなかった。

佐伯は噴水の前で両手を広げた。


「いかがでしょう!」


その顔には、子供のような無邪気な喜びが浮かんでいた。


「光と水、そして生命の終焉が織りなす、幻想的な芸術作品です!」


彼はラビットへ振り返った。


「美咲さん。今度こそお気に召しましたか?」


ラビットはしばらく噴水を見つめていた。

赤く染まった水。

イルミネーション。

冬の夜空へ舞い上がる飛沫。

その光景を見て、胸の奥に奇妙な感情が生まれた。

美しい。


一瞬、そう思ってしまった。

そのことに気づき、ラビットは苛立った。

人が死んでいる。


しかも、目の前で殺したのは、自分が最も憎んでいる男だ。

それなのに、その光景を美しいと感じてしまった。


「……馬鹿じゃないの?」


佐伯が首を傾げる。


「おや?」


「こんなので喜ぶ女がどこにいるのよ!」


ラビットは包丁を構えた。


「この童貞野郎!」


佐伯は目を丸くした。


「それはまた、随分と辛辣ですね」


「女心が分からないなら、今ここで教えてあげる!」


ラビットが切りかかる。

佐伯は軽やかに受け止めた。


「ですが、美咲さん」


刃がぶつかり合う。


「本当にそうでしょうか?」


「何が!」


「あなたは心の中では、私のプレゼントを喜んでいるのではありませんか?」


ラビットの動きが一瞬止まった。

佐伯はその変化を見逃さなかった。


「先ほど、噴水をご覧になったとき……あなたは笑っていましたよ」


「黙れ!」


「以前のあなたなら、あの光景を見て泣き叫んでいたでしょう」


佐伯は嬉しそうに続けた。


「ですが、今のあなたは違う。恐怖も嫌悪も、以前ほど感じていない」


ラビットは歯を食いしばった。


「黙れって言ってるでしょう!」


「そして何より……」


佐伯は顔を近づけた。


「あなたは今夜、心から楽しんでいる」


ラビットは激しく刃を振り抜いた。

佐伯は後退し、距離を取った。

少女の胸の奥では、怒りとは別の感情が渦巻いていた。


否定したかった。

だが、否定できなかった。

自分は確かに楽しんでいる。

佐伯と刃を交えることを。

命を奪うことを。

そして、あの異常な光景を見た瞬間に生まれた、説明できない高揚感を。

それが何より腹立たしかった。


「……だから何?」


ラビットは低く呟いた。


「私がどれだけ変わろうと、お前を殺すことに変わりはない」


佐伯は満足そうに微笑んだ。


「ええ。それでこそ、私の美咲さんです」


「誰がお前のものよ!」


二人は再び走り出した。

やがて、渋谷を代表する巨大な商業ビルへと入り込んだ。

館内では、すでに避難誘導が始まっていた。

外で起きている惨劇から逃れようと、大勢の人々が建物内へ押し寄せていたのだ。

警備員が必死に声を張り上げている。


「落ち着いてください! 押さないで!」


「非常階段へ! 走らないでください!」


しかし、人々の恐怖は限界に達していた。

泣き叫ぶ子供。

家族とはぐれた女性。

携帯電話で助けを求める男性。

館内は混乱に包まれていた。

その中へ、二人の殺人鬼が現れた。

ラビットは走りながら、冷静に状況を分析していた。


佐伯は強い。

想像以上に強かった。

しかし、まったく勝機がないわけではない。

先ほど、自分の攻撃が佐伯のコートを裂いた。

ほんのわずかだが、動きを読むことができた。

問題は、それをどうやって致命的な一撃につなげるかだった。


ラビットは周囲を見渡した。

逃げ惑う大勢の人々。

狭い通路。

無数の障害物。

そして、ふと思いついた。

正面から勝てないのなら、正面から戦わなければいい。

ラビットは人混みの中へ飛び込んだ。


「きゃあああっ!」


悲鳴が上がる。

ラビットは目の前の男性を蹴り飛ばした。

男性は佐伯に向かって飛ばされたが、佐伯はそのまま男を切り刻んだ。

佐伯は一瞬だけ視線をラビットから離した。

その隙に、ラビットが背後へ回り込む。


「もらった!」


刃が閃いた。

しかし、佐伯はすでに反応していた。

切り刻んだ男性の頭部を盾にして、ラビットの攻撃を防いだ。

刃は頭蓋骨に食い込み、途中で止まる。


「おやおや」


佐伯は楽しそうに笑った。


「まだまだ甘いですね、美咲さん」


ラビットは苛立ちを隠さなかった。


「うるさい!!」


食い込んだ頭蓋骨ごと佐伯を切り刻もうとするが、あえなく避けられた。

次の瞬間に佐伯は刃の角度を変え、ラビットの包丁を横から強く弾いた。

乾いた音が響いた。

次の瞬間、包丁の刃が折れた。


「……っ!」


ラビットは折れた包丁を見つめた。

佐伯は教師のような口調で説明を始めた。


「包丁というものは、刃の方向には比較的強いのですが、側面からの衝撃には弱いんですよ」


彼は穏やかに微笑んだ。


「覚えておくと、今後の参考になります」


「……本当に腹立つ男ね」


ラビットは低く呟いた。

そして、突然ロングコートを大きく広げた。

佐伯の目がわずかに見開かれた。

コートの内側には、数十本もの包丁が整然と固定されていた。


長さも形状も異なる刃物。

そのすべてが、今夜のために用意されたものだった。

佐伯は一瞬黙り、やがて声を上げて笑った。


「ははははっ! 素晴らしい!」


ラビットは新しい包丁を引き抜いた。


「先生の授業なんて、聞くつもりないから」


そして再び切りかかった。

激しい金属音が館内に響いた。 

今度のラビットは、ただ闇雲に攻撃しているわけではなかった。


佐伯の足の運び。

重心の移動。

刃を受け流す瞬間の手首の角度。

その一つ一つを観察していた。

佐伯が右へかわす。

ラビットはその方向へ追撃する。

佐伯はさらに後退する。


しかし、次の瞬間、ラビットは突然攻撃を止めた。

佐伯の刃が空を切る。


「……ほう」


佐伯の口元が緩んだ。


「今度は私の反撃を誘いましたか」


「いつまでも同じ手に引っかかると思わないで!」 


ラビットは床を蹴った。

佐伯がかわす。

だが、ラビットはその動きを予測していた。

包丁を持ち替え、佐伯の逃げる方向へ斬撃を放つ。

佐伯は咄嗟に刃を合わせた。


キィンッ!

金属音が響いた。

二人の顔が至近距離まで近づく。


「……素晴らしい」


佐伯は低く呟いた。


「あなたは本当に、恐ろしい女性ですね」


ラビットは笑った。


「今さら気づいたの?」


「ええ。ですが……」


佐伯は力を込め、ラビットの刃を押し返した。


「まだ、私の方が上ですよ」


次の瞬間、佐伯の膝がラビットの腹部に突き刺さった。


「ぐっ……!」


ラビットの身体が折れ曲がる。

さらに佐伯は腕を掴み、床へ投げつけた。

激しい衝撃が全身を走る。

ラビットは咄嗟に身体を丸め、転がりながら距離を取った。

佐伯は追撃しなかった。


「今の受け身も見事でしたね」


「……いちいち解説しないで!」


ラビットは立ち上がった。

口の中に血の味が広がっていた。

痛い。

だが、恐ろしくはない。

むしろ、身体中の神経が研ぎ澄まされていくようだった。


この男は、自分を本気で殺せる。

そう思うだけで、胸が高鳴る。

その感覚が、ラビットには理解できなかった。

自分は佐伯を殺したい。

それだけのはずだった。


なのに、いつの間にか、この殺し合いが終わってしまうことを惜しんでいる。

そんな自分が、どうしようもなく腹立たしかった。


「美咲さん!」


佐伯は楽しそうに呼びかけた。


「実に素晴らしい! ですが、まだ私には届きませんよ!」


「うるさい!」


ラビットは新しい包丁を抜いた。


「絶対に殺してやる!」


そのときだった。


「警察だ! 武器を捨てろ!」


鋭い怒号が響いた。

館内へ駆け込んできた警察官たちが、二人へ銃を向けていた。

床には倒れた人々。

血に染まった通路。

そして、刃物を持った二人の殺人鬼。

警察官たちは目の前の惨状に息を呑んだ。


「動くな!」


若い警察官の声が震えていた。

しかし、二人は止まらなかった。

銃声が響いた。


ラビットは瞬時に身体を沈めた。

佐伯は発砲する警察官の腕の向きと姿勢を見て、射線から外れるように動いた。

銃弾が背後の壁を砕いた。


「おやおや」


佐伯は眉をひそめた。


「せっかくのデートなのに、また邪魔者ですか」


ラビットも不機嫌そうに警察官たちを見た。


「本当に……次から次へと」


佐伯が微笑んだ。


「美咲さん。少しだけ協力しませんか?」


ラビットは一瞬だけ彼を見た。


「……何を?」


「邪魔者を片づけてから、続きを楽しみましょう」


ラビットは小さく笑った。


「いいわよ。でも、その後は絶対に殺すからね」


「もちろんです」


二人は同時に動いた。

銃声が連続して響いた。

佐伯は柱の陰へ滑り込み、ラビットは倒れた商品棚を飛び越えた。

警察官たちは必死に応戦した。


「速すぎる!」


「下がれ! 距離を取れ!」


怒号が飛び交う。

だが、混乱した館内では思うように連携が取れなかった。

ラビットは一人の警察官に飛びかかり、その腕を蹴り上げた。


銃が床に落ちる。

続けて包丁が閃いた。

警察官は首元を押さえながら崩れ落ちた。

佐伯もまた、別の警察官の懐へ入り込んでいた。

短い悲鳴が響き、男が倒れる。

二人は互いの動きを邪魔することなく、次々と警察官を倒していった。


その連携は、まるで長年一緒に戦ってきた者同士のようだった。

ラビットが敵の注意を引けば、佐伯がその隙を突く。

佐伯が相手を追い詰めれば、ラビットが逃げ道を塞ぐ。


言葉を交わす必要すらなかった。

その事実に、佐伯は奇妙な感動を覚えていた。

これほど自分の動きに合わせられる人間が、ほかにいただろうか。

いや、いない。

少なくとも、自分が出会ってきた人間の中には。


「ははっ!」


佐伯は笑った。


「美咲さん! 私たちは案外、相性がよいのかもしれませんね!」


「勘違いしないで!」


ラビットは警察官の攻撃をかわし、包丁を振り抜いた。


「お前を殺すために、動きを見てるだけよ!」


「それでも結構です!」


やがて最後の警察官が倒れた。

館内に、束の間の静寂が訪れた。

床には何人もの警察官が倒れ、銃や装備品が散乱していた。

ラビットは荒い呼吸を整えた。

その直後。

背後から鋭い殺気が迫った。


「――っ!」


振り返る。

佐伯の刃が目前にあった。

キィンッ!

間一髪で受け止める。


「ふふっ。油断はいけませんよ」


佐伯が笑った。


「協力は、もう終わったのでしょう?」


「……本当に性格が悪いわね!」


ラビットは反撃した。

しかし、佐伯は軽やかに受け流した。

再び激しい斬り合いが始まる。

ラビットは攻撃を重ねながら、佐伯の動きを観察し続けた。


少しずつ読めるようになってきた。

だが、それでも決定的な一撃が届かない。

佐伯は自分の攻撃を見切り、常に有利な距離を保っている。

このままでは勝てない。


そのときだった。

チン。

静かな電子音が響いた。

近くのエレベーターが到着した音だった。

ラビットの視線が一瞬だけ動いた。


開いた扉。

中へ駆け込もうとする人々。

そして、狭い密閉空間。

少女の頭に、一つの考えが浮かんだ。

佐伯の強さは、長年の経験によって培われた技術にある。


距離の取り方。

身体の使い方。

攻撃の見切り。


ならば、その技術を十分に使えない場所へ連れ込めばいい。

もちろん、自分も自由には動けなくなる。

だが、今のままでは勝ち目がない。

賭けるしかなかった。

ラビットはゆっくりと包丁を下ろした。


「……ねえ、佐伯先生」


佐伯は首を傾げた。


「何でしょう?」


「さっきから、あなたばっかりプレゼントを用意してくれてるでしょう?」


ラビットは甘えるような声を出した。


「今度は私が、あなたを素敵な場所へ連れていってあげる」


佐伯の表情が明るくなった。


「おお! それは嬉しいですね!」


彼は胸に手を当てた。


「女性からのお誘いを断るなんて、紳士のすることではありません」


ラビットは笑った。


「じゃあ、ついてきて」


彼女は背を向け、エレベーターへ走り出した。

佐伯も楽しそうに後を追った。

開いた扉の中には、五人ほどの男女が乗っていた。

全員が外で起きている事件を知っており、恐怖に顔を引きつらせていた。

そこへ、ウサギの面を被った少女が乗り込んできた。


「……え?」


若い女性が声を漏らした。

続いて佐伯が乗り込む。

扉が閉まった。


密閉された空間に、七人が閉じ込められた。

ラビットは操作盤へ手を伸ばした。

そして、屋上階へ向かうボタンを押した。

エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。


機械の低い駆動音が響く。

誰も喋らなかった。

乗り合わせた人々は、目の前にいる二人が何者なのか理解していた。


顔面蒼白になった男性が、震える手でスマートフォンを握りしめていた。

若い女性は口元を押さえ、涙を流している。

ラビットは佐伯を見つめた。


「ねえ、先生」


「はい?」


「天国に連れていってあげる」


佐伯は目を細めた。


「それはまた、情熱的なお誘いですね」


ラビットは包丁を構えた。


「逃げられないわよ」


佐伯は周囲を見渡した。

狭い箱の中。

身動きの取れない乗客たち。

そして、目の前で殺意を燃やす少女。

彼はゆっくりと笑った。


「なるほど……考えましたね」


ラビットは一気に踏み込んだ。

キィンッ!

狭い空間に、鋭い金属音が響いた。

二人の刃が激しくぶつかり合う。

壁に傷が走り、照明が揺れた。

乗客たちが悲鳴を上げた。


「やめて!」


「助けてくれ!」


しかし、二人は止まらなかった。

ラビットは佐伯の胸元を狙って突きを放った。

佐伯は刃を受け流そうとした。

だが、いつものように大きく身体を動かすことができない。

背後には壁があった。

刃がコートをかすめる。


「……ほう!」


佐伯の目が輝いた。

ラビットは攻撃を止めなかった。

次々と包丁を振るい、佐伯に反撃の余地を与えない。

狭い空間では、大きな動きが必要な攻撃は使いにくい。


だからこそ、ラビットは短く鋭い攻撃を連続させた。

佐伯はそのすべてを受け止めながら、初めて表情を引き締めた。


狭い。


あまりにも狭い。

これまでのように距離を取ることができない。

身体を回転させる余地も限られている。

しかも、ラビットはその制約を承知で攻撃してくる。


「ふふっ……!」


佐伯は笑った。


「面白い!」


ラビットは返事をしなかった。

ひたすら刃を振るった。

そのとき、恐怖に耐えきれなくなった乗客の一人が、扉へ向かって飛び出した。


「助けてくれ!」


男性が叫んだ。

しかし、エレベーターはまだ上昇していた。

逃げ場などない。

男は壁際へ身を寄せようとしたが、激しく動く二人に巻き込まれた。

短い悲鳴が響き、床へ倒れる。

別の女性が泣き叫んだ。


「いやああっ!」


佐伯の刃が閃いた。

女性の声が途切れる。

ラビットもまた、目の前で立ち尽くしていた男性を蹴り飛ばした。


男は壁に激突し、そのまま崩れ落ちた。

残された二人の乗客は、床に伏せて必死に頭を抱えていた。


しかし、二人の殺人鬼にとって、彼らは障害物でしかなかった。

激しい戦闘が続く中、残る乗客たちも次々と倒れていった。

やがて、狭い箱の中で立っているのは、佐伯とラビットだけになった。

床には五人の男女が倒れ、誰一人として動かなかった。


ラビットは荒い呼吸を繰り返した。

肩が痛む。

腕にも傷を負っていた。


それでも、瞳には異様な輝きが宿っていた。

佐伯もまた、頬に汗を浮かべていた。

ここまで追い詰められたのは、いつ以来だろうか。

いや、そもそもこんな経験があっただろうか。

自分と正面から斬り合い、ここまで攻撃を重ねてくる人間など、ほとんどいなかった。


「……美咲さん」


佐伯は笑った。


「本当に、素晴らしいですよ」


「まだ余裕そうね」


ラビットは包丁を握り直した。


「だったら……!」


一気に踏み込む。

佐伯は刃を受け止めた。

しかし、ラビットはそのまま押し込んだ。

金属が軋む。

二人の顔が至近距離まで近づいた。


「……っ!」


佐伯の表情がわずかに変わった。

ラビットの力が、想像以上に強かった。

しかも、攻撃の角度が先ほどまでとは違う。

無駄な動きが減っている。

自分の反撃を予測し、あらかじめ次の動きを準備している。

この短時間で、ここまで成長したというのか。


「……ははっ」


佐伯の口から笑いが漏れた。


「あなたは……本当に……!」


その瞬間、ラビットが突然力を抜いた。

佐伯の身体がわずかに前へ傾く。

そこへ、ラビットの刃が閃いた。


「――っ!」


佐伯は咄嗟に顔を引いた。

しかし、完全には避けられなかった。

頬に鋭い痛みが走る。

赤い血が流れた。

ラビットの瞳が輝いた。

当たった。

初めて、まともに攻撃が届いた。


「……あはっ」


少女の口から笑いが漏れた。


「あはははっ! やっと当たった!」


佐伯は頬に触れた。

指先に赤い血がついている。

それを見た瞬間、彼の表情が変わった。

驚き。

そして、抑えきれない歓喜。


「……素晴らしい」


佐伯は呟いた。


「本当に、素晴らしいですよ……美咲さん!」


ラビットはさらに踏み込んだ。


「まだまだこれからよ!」


刃が交差する。

佐伯のコートが裂けた。

ラビットの肩にも傷が走った。

二人の呼吸が荒くなっていく。

それでも、笑っていた。


「ははははっ!」


佐伯が声を上げた。


「こんなに楽しいのは初めてです!」


「私もよ!」


ラビットは笑い返した。


「こんなにお前を殺したいと思ったこと、ないもの!」


「最高の愛の告白ですね!」


「誰が告白してるのよ!」


刃がぶつかる。

金属音が響く。

佐伯はラビットの攻撃を受け止めながら、次第に余裕を失っていった。


少女の動きが変化し続けている。

先ほどまで通用していた反撃が、今では簡単にかわされる。

一度見せた技を、二度目には警戒される。


しかも、彼女は疲労しているはずなのに、攻撃の鋭さを失っていない。

佐伯は初めて、明確な危機感を覚えた。

このままでは、殺されるかもしれない。

その感覚が、背筋を震わせた。


恐怖。

いや、違う。

歓喜だった。

自分の命を奪えるかもしれない存在が、目の前にいる。

それが、たまらなく嬉しかった。


「……美咲さん!」


佐伯は笑った。


「あなたは本当に……最高です!」


ラビットも笑っていた。


「だったら……!」


最後の力を振り絞る。


「死になさい!」


鋭い斬撃が佐伯の喉元へ迫った。

佐伯は刃を合わせた。


キィンッ!

金属音が響く。

しかし、ラビットは止まらなかった。

さらに踏み込み、佐伯を壁際へ追い詰める。

逃げ場はない。


佐伯の背中が壁に触れた。

ラビットの瞳が輝いた。

もらった。

そう確信した瞬間だった。

佐伯の表情が変わった。

それまで浮かべていた笑みが消え、鋭い眼差しがラビットを捉えた。

彼は無理に後退しようとはしなかった。

逆に、ラビットの懐へ踏み込んだ。


「……っ!」


予想外の動きだった。

距離が一気に詰まる。

ラビットは咄嗟に包丁を引こうとした。

しかし、間に合わなかった。

佐伯の肩が身体にぶつかる。

次の瞬間、強烈な衝撃がラビットを襲った。


「ぐっ……!」


身体が壁に叩きつけられた。

視界が揺れる。

それでもラビットは包丁を離さなかった。

佐伯の首元へ、最後の一撃を放とうとする。

だが、その手首を佐伯が掴んだ。

二人の力が拮抗する。


刃先が佐伯の喉元へ近づいていく。

あと数センチ。

佐伯の顔から、完全に笑みが消えた。

本当に殺される。

その瞬間、彼は全身の力を使ってラビットの腕を押し返した。 


同時に、もう一方の腕を振り抜く。

鈍い衝撃音が響いた。

ラビットの頭が揺れた。


「……あ……」


少女の身体から力が抜ける。

包丁が床へ落ちた。

しかし、佐伯はすぐには手を離さなかった。

まだ反撃してくるかもしれない。

そう警戒していた。

だが、ラビットの瞳から次第に焦点が失われていく。

そして、ゆっくりと身体が崩れ落ちた。

佐伯は咄嗟にその身体を支えた。


「……はぁ……はぁ……」


荒い呼吸が漏れた。

心臓が激しく脈打っている。

頬から血が流れ、肩にも深い傷を負っていた。

全身が痛む。

それでも、佐伯は笑っていた。


「……まったく」


息を整えながら、苦笑した。


「とんでもない女性ですね……」


そのときだった。


チン。


エレベーターが屋上階へ到着した。

扉がゆっくりと開いた。

冷たい夜風が、血の匂いの充満した箱の中へ吹き込んできた。


床には五人の乗客が倒れ、血に染まった壁には無数の傷が刻まれていた。

その中央に、佐伯が立っていた。

黒いロングコートは裂け、顔にも身体にも傷を負っている。


呼吸は荒く、足元も決して安定していなかった。

しかし、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。


腕の中には、意識を失ったラビットがいた。

佐伯はゆっくりと少女を見下ろした。


今なら殺せる。

この少女は、今、自分に抵抗することができない。

首に刃を当てれば、それで終わりだ。

それなのに、佐伯の手は動かなかった。


殺したくない。


その感情に気づいた瞬間、彼は思わず笑った。

自分が。

あれほど人間を殺すことに喜びを感じてきた自分が。

目の前の少女を殺したくないと思っている。

最初は、単なる興味だった。


自分が壊した少女が、どこまで狂気に染まるのか。

その変化を見届けたい。

そして、いつか自分の手で殺してみたい。

そう考えていた。


しかし、今は違う。

この少女を殺してしまえば、二度と彼女と刃を交えることはできない。

あの笑い声も聞けなくなる。

自分を殺そうとする、あの美しい瞳を見ることもできなくなる。

そう考えた瞬間、胸の奥に奇妙な感情が生まれた。

惜しい。


いや、それだけではない。

失いたくない。

佐伯は静かに目を細めた。


「……なるほど」


自分でも理解できない感情だった。

だが、不思議と不快ではなかった。

むしろ、これまで経験したことのない温かさが胸に広がっていた。


佐伯はラビットの身体をそっと抱き上げた。

そして、屋上へ歩き出した。

冬の夜風が吹き抜ける。

眼下には、渋谷の街が広がっていた。


無数のネオン。

車のヘッドライト。

巨大なビル群。

そして、あちらこちらで点滅する赤色灯。

遠くからは、絶え間なくサイレンが響いていた。


佐伯は屋上の中央まで歩き、ラビットを抱えたまま夜空を見上げた。

雲の切れ間には、いくつもの星が輝いていた。

都会の明かりにかき消されながらも、冬の星々は静かに瞬いている。


「……綺麗ですね」


佐伯は呟いた。

その声に応えるように、腕の中の少女がわずかに動いた。


「……ん……」


ラビットがゆっくりと目を開けた。

ぼんやりとした視界。

冷たい風。

そして、自分を抱きかかえている佐伯の顔。


「……何……してるのよ……」


かすれた声だった。

佐伯は優しく微笑んだ。


「お目覚めですか、美咲さん」


「……殺すわよ……」


「ええ。ですが、今は少しだけ休みましょう」


ラビットは身体を動かそうとした。

しかし、全身に痛みが走り、思うように力が入らなかった。


佐伯もまた、限界に近い状態だった。

それでも彼は、少女を落とさないようにしっかりと抱きかかえていた。


「……馬鹿みたい」


ラビットは小さく呟いた。


「どうして……殺さなかったの?」


佐伯は少し考えた。


「そうですね……」


夜空を見上げる。


「あなたとの時間が、あまりにも楽しかったからでしょうか」


ラビットは黙った。


「私はこれまで、数え切れないほどの人間を殺してきました」


佐伯の声は静かだった。


「ですが、こんな気持ちになったことは一度もありません」


彼は腕の中の少女を見つめた。


「あなたは初めて、私を本気で傷つけ、死を意識させた女性です」


ラビットは鼻で笑った。


「……それ、褒めてるつもり?」


「もちろんです」


佐伯は嬉しそうに答えた。


「最高の褒め言葉ですよ」


ラビットはしばらく彼を見つめていた。

自分を壊した男。

すべてを奪った男。

今でも、殺したいと思っている。


それなのに。

なぜだろう。

この男と刃を交えていた時間が、これまでの人生で最も強烈な興奮として残っている。

あれほど憎んでいたはずなのに。

今、この腕の中にいることが、ひどく奇妙な安心感を生んでいた。

その感情を認めることが、腹立たしかった。


「……ねえ」


ラビットは小さく呟いた。


「はい?」


「面、取って」


佐伯は一瞬だけ驚いた。

そして、ゆっくりとウサギの面を外した。

現れたのは、美咲の素顔だった。


傷ついた頬。

乱れた黒髪。

そして、冬の星空を映した大きな瞳。

佐伯は息を呑んだ。


「……美しい」


美咲は小さく笑った。


「今さら何よ」


「いえ。本当に……」


佐伯は少女を見つめた。


「あなたは、私がこれまで出会った中で、最も美しい女性です」


美咲は彼の顔を見つめ返した。

傷だらけの顔。

血に染まったコート。

それでも、嬉しそうに笑っている男。

自分と同じ。

壊れている。

どうしようもないほどに。

美咲はゆっくりと手を伸ばした。

佐伯の頬に触れる。


「……本当に、最低な男」


「よく言われます」


「変態」


「それも、よく言われますね」


「殺人鬼」


「ええ」


佐伯は微笑んだ。


「あなたもでしょう?」


美咲は一瞬黙り、やがて笑った。


「……あははっ」


その笑顔は、かつての無邪気な少女のものとは違っていた。


しかし、どこか美しかった。

二人の顔がゆっくりと近づいた。

佐伯が一瞬、動きを止めた。

美咲もまた、彼を見つめていた。


そして。


二人の唇が重なった。

冷たい冬の風が、屋上を吹き抜けていく。

眼下では、サイレンが鳴り続けていた。

警察車両が次々と集まり、渋谷の街は混乱に包まれている。


しかし、屋上にいる二人には、もう何も聞こえていないかのようだった。

やがて唇が離れた。

佐伯はしばらく、美咲を見つめていた。

そして、静かに笑った。


「……美咲さん」


「何?」


「私はこれまで、女性という存在を理解したことがありませんでした」


佐伯の声には、珍しく戸惑いが混じっていた。


「ですが、今夜、初めて分かった気がします」


美咲は眉を上げた。


「何が?」


佐伯は彼女の瞳を真っすぐに見つめた。


「私は、あなたを愛してしまったようです」


美咲は目を丸くした。

そして、吹き出した。


「あはははっ! 何それ!」


佐伯は真剣だった。


「冗談ではありません」


「殺し合ったばっかりでしょう?」


「ええ」


「お互い、こんなに傷だらけなのよ?」


「ええ」


「それで愛してるって?」


「はい」


佐伯は微笑んだ。


「これほど心を奪われたことは、生まれて初めてです」


そして、ゆっくりと言った。


「美咲さん。私と結婚してください」


冬の夜空に、その言葉が静かに響いた。

美咲はしばらく呆然としていた。

やがて、肩を震わせた。


「あは……」


そして、声を上げて笑った。


「あはははははっ!」


笑い声が夜風に乗って広がっていく。


「本当に……本当に馬鹿な男!」


佐伯は少し不安そうに眉を下げた。


「……お断りでしょうか?」


美咲は彼の首に腕を回した。

そして、顔を近づけた。


「一回のデートで落ちるほど、私は甘くないわよ」

佐伯は目を細めた。


「では、二回目のデートをお願いしても?」

美咲は唇を吊り上げた。


「次こそ、本当に殺してあげる」


「それは楽しみですね」


「覚悟しておきなさい」


「もちろんです」


美咲はもう一度、佐伯に口づけた。

今度は、彼女の方から。


眼下の渋谷では、無数のサイレンが鳴り響いていた。

逃げ惑う人々の叫び声。

警察官たちの怒号。

赤く点滅する警光灯。


ほんの数時間前まで、恋人たちが笑い合い、若者たちが未来を語っていた街。

その街は今、二人の殺人鬼によって悪夢の舞台へと変えられていた。


しかし、屋上では。

満天の星空の下、傷だらけの男女が抱き合っていた。

互いを殺そうとし、互いを傷つけ、そして互いの狂気に魅了された二人。


それは、決して祝福されることのない恋だった。

愛と呼ぶにはあまりにも歪み、憎しみと呼ぶにはあまりにも甘美な感情。

美咲は佐伯の胸に顔を埋め、小さく笑った。


「……ねえ、先生」


「何でしょう?」


「次のデートは、もっと楽しませてよね」


佐伯は少女を抱きしめ直した。


「ええ。もちろんです」


そして、穏やかに微笑んだ。


「今度こそ、あなたに最高のプレゼントを用意しましょう」


冬の夜風が、二人の黒いコートを揺らした。

その頭上では、何も知らない星々が静かに瞬いていた。


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