↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RABBIT(ラビット)  作者: 龍元


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/11

第十章 狂気の時代


翌朝。


日本中のテレビ局が、昨夜の渋谷で発生した大規模殺傷事件を繰り返し報道していた。

画面に映し出されているのは、午後七時の渋谷スクランブル交差点だった。


無数の歩行者が行き交い、色鮮やかな広告と人々の喧騒に包まれていた繁華街。

しかし、その日常は、二人の男女によって一瞬にして破壊された。


交差点の中央で向かい合う、一人の女と一人の男。

何かを語り合い、互いに笑みを浮かべる二人。

そして、次の瞬間に始まる殺戮。


女が包丁を振るうたびに人が倒れ、男が刃を振り抜くたびに鮮血が飛び散る。

逃げ惑う群衆の悲鳴が響き渡り、交差点は瞬く間に地獄と化していた。


その映像は、事件現場から離れたビルの上階にいた人物が、スマートフォンで撮影したものだった。

さらに、周辺の商業施設や企業の防犯カメラ映像までもが何者かによって流出し、テレビ局やインターネット上に拡散されていた。

複数の角度から撮影された映像には、常識では考えられない二人の動きが鮮明に記録されていた。


車を飛び越える女。

凄まじい速度で駆け抜ける男。

互いの刃をかわしながら、周囲の人間を次々と殺害していく二人の姿。


そして何より異様だったのは、二人が笑っていたことだった。


恐怖も、罪悪感も、躊躇もない。

まるで殺し合いそのものを楽しんでいるかのように。

画面が切り替わり、ニュースキャスターが険しい表情で原稿を読み上げた。


「昨夜午後七時頃、東京都渋谷区のスクランブル交差点周辺で発生した大規模殺傷事件について、新たな情報が入ってきました」


キャスターは一度言葉を区切り、手元の資料に視線を落とした。


「警視庁の発表によりますと、現在までに確認された死者は二百人を超え、重傷者も多数に上っています。依然として意識不明の重体となっている方も多く、死者数は今後さらに増える可能性があります」


画面には、規制線によって封鎖された渋谷の街が映し出された。

道路には無数の血痕が残り、破壊された車両や店舗のガラスが、昨夜の惨劇を物語っていた。


現場周辺には多数の警察車両が並び、鑑識官や捜査員が慌ただしく行き交っている。


「事件に関与したとみられるのは、これまで都内で発生した複数の大量殺人事件への関与が疑われている、通称『ラビット』と呼ばれる女。そして、身元不明の男の二人です」


続いて、画面に一枚の静止画像が映し出された。

白いウサギの被り物をした女。

その隣には、黒いロングコートを着た男が立っている。


「警察は、この二人が互いに殺害を目的として争っていた可能性があるとみています。しかし、その過程で多数の一般市民が巻き込まれており、詳しい動機については現在も捜査が続けられています」


さらに別の映像が流れた。

逃げ惑う人々を追い越し、異常な速度で走る二人。

映像を解析した専門家は、その動きについて説明を求められていた。


「通常の人間が、これほどの速度で方向転換を繰り返すことは考えられません。しかも、二人とも極めて高度な反射能力を持っているように見えます。映像に加工がないのであれば、現在の運動生理学では説明が難しい部分があります」


専門家の声にも困惑が滲んでいた。

しかし、世間の関心は身体能力だけに向けられていたわけではなかった。

SNSでは、事件発生直後から関連動画が爆発的に拡散されていた。


『渋谷が地獄になってる』


『これ本当に人間なのか?』


『二人とも笑いながら人を殺してる』


『警察は何をしていたんだ』


『ラビットだけじゃなかったのか』


『あの男は何者なんだ』


映像は海外にも広まり、世界各国の報道機関が一斉に取り上げ始めていた。

近年、世界各地で報告されていた異常な大量殺人事件。


その恐怖が、ついに日本の首都で現実となった。

しかも今回は、数百人もの死傷者を出した事件の一部始終が、世界中の人間に目撃されていたのである。

警察庁には報道機関からの問い合わせが殺到し、政府に対しても説明を求める声が高まっていた。

だが、政府は事件の真相について何も発表できずにいた。


発表できなかったのではない。

真実を知る一部の人間たちが、それを公表することの意味を理解していたからだった。

その日の午後。


東京都内にある政府関連施設。

地下深くに設けられた特別会議室には、日本の国家中枢を担う人物たちが集められていた。

分厚い防音扉の向こうには、外部との通信を厳しく制限された空間が広がっている。


室内中央には大きな長方形の会議机が置かれ、その周囲に十数人の男女が座っていた。


内閣総理大臣。

内閣官房の危機管理担当幹部。

警察庁長官。

警視総監。


そして、警察庁警備局の特別事案対策室長、神崎隆司。

そのほかにも、国家安全保障に関わる政府高官や関係省庁の責任者たちが顔を揃えていた。

会議室の一角には、外国人の研究者が一人座っていた。


アルバート・ウェイン博士。


かつて極秘研究計画『プロジェクト・キメラ』に携わっていた、研究責任者の一人である。


彼の前には分厚い資料が置かれていたが、その手は一度もページをめくろうとはしなかった。

ただ、正面の大型モニターを見つめていた。


「それでは、始めます」


神崎の低い声が会議室に響いた。

その表情には、普段の冷静さの奥に隠しきれない疲労が滲んでいた。


昨夜から一睡もしていない。

事件発生直後から捜査の指揮を執り、政府との連絡調整に追われていたからだった。


「まず、昨夜の渋谷における大量殺傷事件について、現在判明している情報をご報告します」


神崎が手元の端末を操作すると、モニターに渋谷スクランブル交差点の映像が映し出された。


「こちらは周辺施設の防犯カメラから回収した映像です。流出したものとは異なり、事件発生から二人が現場を離れるまでの動きを、複数のカメラで追跡しています」


映像が再生された。

交差点の中央で向かい合う男女。

何かを話し、笑みを浮かべる二人。

そして突然、始まる殺戮。


「……なんだ、これは」


一人の政府高官が思わず呟いた。

映像の中で、男が逃げようとした通行人を斬りつけた。

その直後、女が別の方向へ飛び出し、周囲の人間を次々と襲っていく。


悲鳴。

怒号。

助けを求める声。


それらが重なり合う中で、二人だけが異様な落ち着きを保っていた。

さらに映像が切り替わる。

建物の内部。

狭い通路で刃を交える二人。

その動きは速すぎて、通常速度では細部を捉えることが難しかった。


「少し待ってくれ……」


内閣官房の幹部が顔をしかめた。


「本当に、これを二人だけでやったというのか?」


神崎は重々しく頷いた。


「現時点で確認されている限り、犯行に直接関与した人物はこの二名です」


「馬鹿な……」


別の出席者が口元を押さえた。

画面には、逃げ遅れた人々が次々と倒れていく様子が映し出されている。


一人の官僚は耐えきれずに目を閉じた。

別の人物は、思わず小さな声を上げて顔を背けた。

国家の危機管理を担う者たちでさえ、目の前の映像を平静に見続けることは困難だった。

だが、アルバートだけは違った。

彼は一瞬たりとも視線を逸らさず、映像を凝視していた。


その顔には恐怖が浮かんでいた。

しかし、それだけではない。

長年研究してきたものが、今まさに目の前で現実になっている。


その事実に対する、研究者としての衝撃もあった。

やがて神崎が映像を停止した。

画面には、男の顔が大きく映し出されていた。


「この男についてですが、我々はすでに正体を把握しています」


会議室の視線が一斉に神崎へ向けられた。


「佐伯直人。四十二歳。都内の高校で教師として勤務していた男です。しかし、それは日本国内で使用していた身分に過ぎません」


神崎はそこで言葉を区切り、アルバートへ視線を移した。


「ウェイン博士。確認させていただきます」


アルバートは静かに顔を上げた。


「この男が、プロジェクト・キメラの研究施設から脱走した実験体……ジャック・ザ・リッパーですね?」


会議室が静まり返った。

アルバートはモニターに映る男の顔を見つめた。

そして、ゆっくりと頷いた。


「……間違いありません」


その声には、深い苦悩が滲んでいた。


「彼こそが、我々が長年研究してきた実験体の一人。

ジャック・ザ・リッパーです」


総理大臣が険しい表情を浮かべた。


「つまり、以前から報告を受けていた、あの極秘研究施設の脱走者ということか」


「はい」


アルバートが答えた。


「そして、映像を見る限り、彼の身体能力は我々が把握していたものを遥かに上回っています」


「それはどういう意味だ?」


総理の問いに、アルバートは慎重に言葉を選んだ。


「我々の研究では、優れた身体能力、卓越した知能、そして殺害を躊躇しない精神構造を組み合わせることで、人間の限界を超えた戦闘生命体を生み出すことを目指していました」


アルバートはモニターへ視線を戻した。


「彼は、その研究の中でも極めて優秀な実験体でした。しかし、当時の技術では、ここまでの能力を安定して発揮させることはできなかった」


「では、脱走後に何かが変わったということか?」


「その可能性があります」


アルバートの表情が険しくなった。


「問題は、彼だけではありません」


神崎が端末を操作した。

モニターに、今度は一人の若い女性の顔が映し出された。

白いウサギの被り物を外した、美しい顔立ちの女性。

桜井美咲。


「こちらが、ラビットの正体です」


神崎は資料を開いた。


「桜井美咲。数か月前、家族および交際相手を殺害され、本人も重傷を負った事件の被害者です」


その説明に、会議室の空気がわずかに変わった。


「被害者?」


警視総監が眉をひそめた。


「この女がか?」


「はい。そして、その事件の加害者が佐伯直人です」


神崎は淡々と説明を続けた。


「桜井美咲は佐伯によって家族と交際相手を殺害され、自身も凄惨な暴行を受けました。その後、病院に搬送され、一命を取り留めています」


神崎は次の資料を表示した。


「しかし、退院後の彼女は、以前とはまったく異なる行動を取るようになりました。複数の大量殺人事件を起こし、ラビットと呼ばれるようになったのです」


「つまり、復讐か」


総理が低い声で言った。

神崎は頷いた。


「佐伯を殺害することが、彼女の行動目的の一つだったと考えられます」


「それならば、なぜ無関係の人間まで殺す?」


警視総監の声に怒りが滲んだ。


「家族を殺された被害者が、復讐のために犯人を追う。そこまでは理解できる。しかし、あの映像は何だ!」


彼は机を強く叩いた。


「何百人もの人間を殺しながら笑っている! あれが本当に、数か月前まで普通の生活を送っていた女の子なのか!」


会議室に怒号が響いた。


「一体、彼女の身体に何が起きたというんだ!」


誰も答えられなかった。

神崎でさえ、確証を持って説明できる情報はなかった。

その沈黙を破ったのは、アルバートだった。


「……おそらく、佐伯が何かをしたのでしょう」


全員の視線が集まった。

アルバートは立ち上がり、モニターに映る美咲を見つめた。


「以前、私は皆さんに説明しました。プロジェクト・キメラが目指していたものについて」


彼はゆっくりと語り始めた。


「人間の肉体が持つ限界を引き上げ、反射速度や筋力、神経伝達能力を強化する。そして、高度な知能と判断能力を維持したまま、恐怖や罪悪感、殺害に対する躊躇を極限まで取り除く」


アルバートの声が低くなった。


「それらを一つの肉体に統合できれば、人間は従来の生物学的限界を超えた存在になり得る」


彼は美咲の映像を指さした。


「今、皆さんが見ているこの女性の身体には、まさにその現象が起きています」


会議室がざわめいた。


「待ってくれ」

内閣官房の幹部が口を開いた。


「この女性も、例の研究施設の実験体だったというのか?」


「いいえ」


アルバートは即座に否定した。


「彼女は違います。少なくとも、我々の研究施設で実験を受けた人物ではありません」


「ならば、どうしてこんなことになった!」


「佐伯が、我々の研究を完成させた可能性があります」


その言葉に、会議室が静まり返った。

アルバートは続けた。


「彼は脱走する際、研究に関する膨大なデータを持ち出しています。その中には、人体の神経系や筋肉組織に作用する薬剤の研究情報も含まれていました」


「薬剤……?」


総理が眉をひそめた。


「つまり、その薬を使えば、普通の人間をあのような化け物に変えられるというのか?」


アルバートはすぐには答えなかった。

その沈黙が、かえって会議室の緊張を高めた。


「……可能性はあります」


ようやく口を開いたアルバートの表情は、深刻そのものだった。


「ただし、我々の研究段階では、薬剤だけでここまでの変化を引き起こすことはできませんでした。身体機能を強化できても、神経系への負担や精神の崩壊など、解決できない問題が数多く残されていたのです」


彼は美咲の映像を見つめた。


「しかし、この女性は違う」


映像の中の美咲は、驚異的な身体能力で佐伯と渡り合っていた。


「肉体の強化だけではありません。高速で移動する相手の動きを正確に捉え、瞬時に判断し、反撃している。しかも、極度の興奮状態にありながら、判断能力が失われていない」


アルバートは唇を噛んだ。


「そして何より、殺害に対する心理的抵抗がほとんど見られない」


彼は深く息を吐いた。


「これは、我々が長年追い求めていた研究成果そのものです」


アルバートの胸の奥に、奇妙な感情が込み上げていた。

研究者として、これほどまでに完成された成果を目にしたことはなかった。

長年にわたる実験。

数え切れない失敗。

莫大な研究費と、多くの犠牲。

それらを積み重ねても到達できなかった領域に、一人の少女が立っている。


本来であれば、歓喜すべき瞬間だった。

人類の肉体と精神が、従来の限界を超える。

それは、彼が生涯を捧げて追い求めてきた夢そのものだった。

だが、目の前にあるのは、その成果によって生み出された大量の死体だった。

自分たちが夢見た進化の先に、何が待っていたのか。

アルバートは、その答えを映像の中に見ている気がした。


「……なんということだ」


彼の口から、思わず声が漏れた。

神崎が眉をひそめた。


「博士?」


アルバートは我に返ったように顔を上げた。


「失礼しました」


しかし、その表情から動揺は消えていなかった。


「私は長年、人間の限界を超えることが、人類に新たな可能性をもたらすと信じてきました」

彼はモニターを見つめたまま続けた。


「ですが、もしその進化によって、人間が人間を殺すことに何の抵抗も感じなくなるのだとしたら……」


アルバートは言葉を詰まらせた。


「我々は、取り返しのつかないものを生み出そうとしていたのかもしれません」


誰も言葉を発しなかった。


「佐伯が独自に研究を進め、薬剤を完成させた。そして、それを桜井美咲に投与したのだとすれば……」


アルバートは言葉を止めた。

神崎が静かに尋ねた。


「博士。もし、それが事実だった場合、何が起きるのですか?」


アルバートは神崎を見た。

その目には、明確な恐怖が浮かんでいた。


「……とんでもないことになります」


会議室の空気がさらに重くなった。


「これまでプロジェクト・キメラは、極めて特殊な設備と長期間の研究、そして膨大な費用を必要とする計画でした。実験体を一体生み出すだけでも、途方もない時間と犠牲が必要だったのです」


アルバートは一人ひとりの顔を見渡した。


「しかし、もし佐伯が薬剤によって同様の能力を獲得させる技術を完成させていたとすれば、その前提が崩れます」


「大量生産が可能になるということか?」


警察庁長官が尋ねた。


「その危険があります」


アルバートは頷いた。


「もちろん、現段階では投与された人間が必ず成功するとは限りません。適性によっては死亡する可能性もあります。しかし、彼女という成功例が存在する以上、佐伯がさらに研究を進めることは十分に考えられます」 


アルバートは一度言葉を区切った。

そして、最も恐れていた可能性を口にした。


「……さらに恐ろしいのは、薬剤の投与すら必要としなくなった場合です」


総理が顔を上げた。


「どういうことだ?」


「仮に、この変化を他者へ感染させるような技術にまで発展させたとしたら……」


アルバートの声が震えた。


「人間の身体と精神を強制的に変化させるものが、感染によって広がる可能性があります」


「感染だと……?」


「現時点では、あくまで最悪の仮説です。佐伯がそのような技術を持っている証拠はありません」


アルバートはそう前置きしたうえで、言葉を続けた。


「しかし、もしそれが実現し、しかも感染した人間が殺害衝動を抑えられなくなるようなことが起きれば、社会は維持できなくなります」


会議室は完全な沈黙に包まれた。


「警察も、軍隊も、政府も……その内部から同じ現象が起きるかもしれない」


アルバートの声が低く響いた。


「誰が正常で、誰が変化しているのかも分からなくなる。人々は互いを疑い、恐れ、殺し合うようになるでしょう」


彼はゆっくりと首を振った。


「そのような事態にまで発展すれば、人類そのものが滅亡する可能性すらあります」


誰かが小さく息を呑んだ。

総理大臣は険しい表情のまま、両手を組んでいた。

日本の首都で二百人以上が殺害された。

それだけでも国家的な非常事態だった。

しかし、今この会議室で語られているのは、それを遥かに上回る脅威だった。

人類が、自ら生み出した存在によって滅ぼされる可能性。

長い沈黙の後、神崎が口を開いた。


「……では、我々はどうすればいいのでしょうか」


アルバートは迷わず答えた。


「佐伯を捕らえるしかありません」


彼の表情には、研究者としての後悔と、迫り来る危機への恐怖が入り混じっていた。


「何としても佐伯直人を……ジャック・ザ・リッパーを捕まえなければなりません」


神崎が眉をひそめた。


「しかし、映像をご覧になったでしょう。通常の警察官では到底太刀打ちできません。武装した特殊部隊であっても、どれほどの犠牲が出るか分からない」


「承知しています」


アルバートは静かに答えた。


「それでも、彼を放置することはできません」


総理が重々しく口を開いた。


「博士。一つ聞かせてくれ」


アルバートが顔を向けた。


「我々が持つあらゆる戦力を投入したとして、あの男を確実に捕らえられると思うか?」


アルバートは答えられなかった。

モニターには、佐伯が笑いながら刃を振るう姿が映し出されていた。

かつて、自分たちが生み出した存在。

人類の進化を夢見て作り上げた、究極の戦闘生命体。

その存在が、今や人類そのものを脅かそうとしている。

長い沈黙の末、アルバートは小さく首を振った。


「……分かりません」


その一言が、会議室にいた全員の心を凍りつかせた。

総理は目を閉じた。

神崎は拳を握り締めた。

誰もが理解していた。

彼らは、すでに取り返しのつかないものを、この世界へ解き放ってしまったのかもしれない。

そして、その恐怖は、まだ始まったばかりだった。


  一年後。


世界は、変わり果てていた。

かつて平和を謳歌していた都市には、今や武装した兵士たちが当たり前のように配置されていた。

大通りには装甲車が停車し、交差点には自動小銃を携えた兵士が立っている。


商業施設の入口には厳重な検問所が設けられ、通行人は身分証明書の提示と所持品検査を求められていた。

それでも、人々の不安が消えることはなかった。

世界各地で、異常な大量殺人事件が頻発するようになっていたからである。 


アメリカ。

ヨーロッパ。

アジア。

中東。

アフリカ。


国も地域も関係なかった。

ある日突然、何の前触れもなく人々を襲い始める者たち。


中には、武装した警察官を容易く殺害し、軍の部隊と交戦する者まで現れていた。

彼らの多くは、従来の人間とは比較にならない身体能力を持っていた。


そして、その行動には共通点があった。

殺害に対する躊躇がない。

他人の命を奪うことに、恐怖も罪悪感も抱かない。

ある者は快楽のために殺し、ある者は怒りのままに殺し、またある者は何の理由もなく人間を襲った。

当初、各国政府はこれらを個別の凶悪犯罪として扱っていた。


しかし、事件の発生件数が増えるにつれ、その認識は大きく変わっていった。

アメリカでは、武装した警察の特殊部隊が、たった一人の犯人によって壊滅させられた。

ヨーロッパでは、軍の装甲車両を奪った男が市街地で暴れ回り、数百人もの死傷者を出した。

アジアのある都市では、複数の異常な身体能力を持つ者たちが同時に出現し、治安部隊との戦闘によって街の一角が壊滅した。


もはや通常の警察組織だけで対処できる事態ではなかった。

各国政府は相次いで軍隊の投入を決定した。

しかし、それでも被害は収まらなかった。


軍の部隊が派遣される頃には、犯人がすでに姿を消していることも珍しくなかった。


さらに、一部の犯人は銃火器による攻撃を巧みに回避し、兵士たちを翻弄した。

高度な知能を持つ者は軍の行動を予測し、待ち伏せや奇襲によって部隊を壊滅させることさえあった。

世界各国の研究機関は、これらの存在を従来の人間とは異なる変異型として調査し始めた。

そして、彼らは一つの名称で呼ばれるようになった。


――ヴァリアント。


変異した者。

従来の人間の限界を超えた存在。

その呼称は報道を通じて瞬く間に世界中へ広まり、人々にとって恐怖の象徴となっていった。


ただし、すべてのヴァリアントが殺人衝動を持っているのかどうかは、明らかになっていなかった。

確認されているのは、異常な身体能力を持つ者たちによる凶悪事件が、世界各地で急増しているという事実だけだった。


その発生原因についても、いまだ確かな答えは得られていなかった。

未知の薬剤によるものなのか。

何らかの感染症なのか。

あるいは、人類そのものに未知の変化が起き始めているのか。


世界中の研究機関が調査を続けていたが、どの仮説も決定的な証拠を欠いていた。

そして、ヴァリアントの出現は、人々の日常を根底から変えてしまった。


学校は閉鎖され、企業は営業を停止し、かつて人々で賑わっていた繁華街からは笑い声が消えていた。

夜間外出禁止令が敷かれた地域も少なくなかった。

誰もが恐れていた。


隣を歩く人間が、突然自分に襲いかかってくるかもしれない。

家族が、友人が、恋人が、ある日突然変わってしまうかもしれない。

そんな恐怖が、人々の日常を支配していた。


テレビでは連日のようにヴァリアントによる事件が報道され、インターネット上には真偽不明の情報が溢れていた。

世界のどこかで、毎日のように人が殺されていた。

それでも人々は、生きていかなければならなかった。

食料を買い、仕事へ向かい、家族を守りながら、明日を迎えようとしていた。


しかし、その明日が無事に訪れる保証は、どこにもなかった。

そして、そんな世界の片隅で。

一組の男女が、楽しそうに街を歩いていた。


冬の冷たい風が、二人のコートを揺らしていた。

女性は美しい顔立ちをしており、長い髪を風になびかせている。

その隣を歩く男は、穏やかな笑みを浮かべながら、彼女の手を握っていた。

二人の様子は、どこにでもいる仲睦まじい恋人同士のようだった。

ただ一つ、違っていたのは。

女性のお腹が、大きく膨らんでいることだった。


「ねえ」


女性が楽しそうに声をかけた。

男が顔を向ける。


「どうしました?」


女性は自分のお腹に手を添えながら、嬉しそうに微笑んだ。


「この子が男の子だったら、私たちより強く育てなきゃね」


その言葉に、男は愉快そうに笑った。


「ははっ! それは素晴らしい。ですが、もし女の子だったら?」


女性は少し考えるように首を傾げた。

すると男は、まるで当然のことを語るように微笑んだ。


「女の子なら、私より弱い男との交際は認められませんね」


「あら、随分と厳しいのね」


女性が笑った。


「当然でしょう。大切な娘を、そこらのつまらない男に渡すわけにはいきませんから」


「ふふっ。それなら、この子は一生結婚できないかもしれないわよ?」


「それは困りましたね」


男はわざとらしく肩をすくめた。


「ですが、私を超える男が現れるというのも、なかなか楽しみではありませんか」


二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。

周囲の人々は、そんな二人を不思議そうに見つめていた。


誰もが俯き、不安げな表情で歩いている街の中で、彼らだけが異様なほど幸せそうだったからである。

やがて二人は、武装した兵士たちが警戒する通りへ差しかかった。

道路の先では、先ほど発生した殺傷事件の現場検証が行われていた。

周囲には規制線が張られ、数台の軍用車両が停車している。

兵士の一人が、二人の姿に気づいた。


「おい! そこの二人!」


兵士は銃を肩から下げたまま、早足で近づいてきた。

「この先は危険だ! ヴァリアントが出没したばかりだ。すぐに引き返せ!」


男は足を止めた。

女性も隣で立ち止まり、兵士を見つめた。


「危険、ですか?」


男が穏やかに尋ねた。


「ああ! まだ犯人が近くに潜んでいる可能性がある。特に妊婦を連れて、こんな場所を歩くんじゃない!」


兵士は苛立ったように声を荒らげた。

男は少し驚いたような顔をした。

そして、嬉しそうに微笑んだ。


「それは、ご親切にどうも」


次の瞬間。

兵士の首が、地面に落ちた。

何が起きたのか、周囲の人間には理解できなかった。

兵士の身体がゆっくりと崩れ落ちる。

悲鳴が上がった。


離れた場所にいた兵士たちが慌てて銃を構える。

しかし、男は彼らに興味すら示さなかった。

女性もまた、何事もなかったかのように微笑んでいた。


男は倒れた兵士を一瞥すると、女性のお腹に優しく手を添えた。


「男の子だったら、こんな弱い男には育ってほしくありませんね」


女性は小さく笑った。


「そうね。女の子だったら、こんな弱い男に惚れちゃ駄目よ」


二人は顔を見合わせた。

そして、声を上げて笑った。

背後では兵士たちが怒号を上げ、銃声が響き始めていた。


それでも、二人は振り返らなかった。

まるで、そんなものなど存在しないかのように。

男は女性の手を取り、再び歩き始めた。

女性は愛おしそうに自分のお腹を撫でながら、男の肩に寄り添った。


「ねえ、あなた」


「何でしょう?」


「この子が生まれたら、どんな世界になっているのかしら?」 


男は少し考えた。

そして、楽しそうに笑った。


「さあ。それは分かりませんね」


彼は女性の手を優しく握り直した。


「ですが、退屈だけはしなさそうです」


女性は満足そうに微笑んだ。


「ふふっ。そうね」


二人の笑い声が、冷たい冬の街に響いていた。

かつて、人類は自らの進化を夢見た。

より強い肉体。

より優れた知能。

そして、恐怖や罪悪感に縛られない精神。

その果てに生み出されたものが、果たして人類の進化だったのか。

それとも、人類を滅亡へと導く新たな生命だったのか。


まだ、誰にも分からない。

ただ一つ、確かなことがあった。

世界が恐怖と絶望に包まれる中で、その二人だけは、誰よりも幸せそうに笑っていた。


そして、女性の胎内には、新たな命が宿っていた。

その命が何を受け継ぎ、何をもたらすのか。

それを知る者は、まだ誰もいなかった。


――狂気の時代は、始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。