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RABBIT(ラビット)  作者: 龍元


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第七章 狂気の招待状


朝の光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。

東京都内の閑静な住宅街。その一角に建つ二階建ての一軒家で、一人の少女が朝食を取っていた。

テーブルの上には、軽く焼いた食パンと湯気の立つコーヒー。少女はパンを一口かじると、正面のテレビへ視線を向けた。


『続いて、都内のハンバーガー店で発生した無差別殺傷事件の続報です』


画面には、黄色い規制線に囲まれた店舗が映し出されていた。


『この事件では十七人が死亡、二十三人が負傷しました。警視庁は、ウサギの仮面を着用した女による犯行とみて、行方を追っています』


映像が切り替わり、店内の防犯カメラに記録された犯人の姿が映し出された。

ウサギの仮面を被り、血に染まった制服を着た少女。その手には刃物が握られ、周囲には倒れた人々の姿があった。


『犯人はインターネット上で「ラビット」と呼ばれており、関連する動画や投稿が急速に拡散しています。SNS上では、その異常な犯行に恐怖の声が広がる一方、犯人の正体を巡る憶測も飛び交っています』


少女はコーヒーカップを口元へ運んだ。


「ラビット……」


小さく呟き、画面の中の自分を眺める。

美咲は、自分が全国的に報道される殺人鬼になるなど、以前なら想像もできなかっただろう。人を殺すことも、誰かの悲鳴を聞きながら平然としていられることも、かつての自分には考えられないことだった。

だが、今は違う。


恐怖は薄れ、罪悪感も後悔も失われつつあった。人を殺してはいけないという、かつて当たり前だった感覚さえ、遠い昔の記憶のようになっていた。

最初の頃は、自分の変化に戸惑いもあった。しかし、その戸惑いすら日を追うごとに薄れている。

美咲は何事もなかったようにパンをもう一口かじった。


『近年、世界各地では、従来の犯罪とは明らかに異なる異常な大量殺人事件が相次いでいます』


ニュース番組は、海外で発生した事件を紹介し始めた。

アメリカ、ヨーロッパ、アジア。複数の国で、常識では説明できないほど残虐な殺人事件が発生していた。犯人の中には、武装した警察官を相手に異常な身体能力を発揮した者もいたという。


『こうした事件との関連性について、警察当局は現時点で確認されていないとしています。しかし、日本でも今回、白昼の繁華街で大規模な無差別殺傷事件が発生したことで、国民の不安は急速に高まっています』


画面には街頭インタビューが映し出された。


『怖いですよ。普通にご飯を食べていただけで殺されるなんて……』


『犯人がまだ捕まっていないんでしょう? 子供を外に出すのも怖いです』


『そんな人間、本当にいるんですか?』


美咲は、特に興味を示さなかった。他人が自分をどう思っているかなど、どうでもよかった。

彼女が考えているのは、ただ一人の男のことだった。

佐伯。

自分からすべてを奪った男。悠真を殺し、家族を奪い、自分をこんな身体に変えた男。

その名前を思い浮かべた瞬間、美咲の胸の奥に激しい怒りが込み上げた。


不思議だった。他人への同情も、罪悪感も、恐怖も薄れていく。それなのに、佐伯への憎しみだけは少しも消えなかった。むしろ、日に日に強くなっている。


「……どこにいるの?」


美咲は静かに呟いた。

佐伯の居場所はわからない。あの男が自分に何をしたのか、そのすべてを理解しているわけでもない。

だが、確信していることがあった。


自分の身体に起きている異常な変化。人間離れした筋力と反射速度。恐怖や罪悪感の消失。そして、人を殺すことに何の抵抗も感じなくなった精神。


これらは、すべて佐伯が仕組んだことだ。

あの男は、自分を実験台にした。

ならば、研究の結果を知りたいはずだ。

美咲はテレビに映るラビットの姿を見つめた。


「……これ、見てるよね?」


口元がわずかに緩んだ。

佐伯は研究者だ。自分の身体にこれほどの変化を起こした人間が、その結果に興味を持たないはずがない。

まして、自分が全国的に報道されるほどの殺人鬼になったと知れば、どうするだろう。


もっと知りたいと思うのではないか。自分がどこまで変わったのか、何ができるようになったのか。そして、これからどうなるのか。


「そうか……」


美咲はゆっくりと笑った。

「私がもっと騒ぎを起こせば……向こうから会いに来てくれるかもしれない」


それは直感だった。しかし、美咲には確信に近いものがあった。

佐伯は必ず、自分に興味を示す。ならば、興味を持たずにはいられないほどの事件を起こせばいい。


そして、もう一つ。

佐伯を殺すためには、今の自分ではまだ足りない。

身体能力がどれほど高くなろうと、殺し方を知らなければ意味がない。あの男がどんな手段で自分を迎え撃つのかもわからない。


だからこそ、経験を積む必要があった。

殴ることも、締めることも、刃物を使うことも。さまざまな方法で人を殺し、確実に命を奪うための技術を身につける。

美咲にとって、それは佐伯を殺すための準備だった。


「待っててね、先生……」


少女の口元に、楽しげな笑みが浮かんだ。


「絶対に殺してあげるから」


美咲は残っていたコーヒーを飲み干すと、椅子から立ち上がった。

玄関へ向かう途中、床に倒れている男の身体を何気なく跨いだ。

リビングには、四人の家族がいた。

父親と思われる男はソファの脇に倒れ、母親は食卓の近くで動かなくなっていた。廊下には二人の子供が倒れている。

壁や床には大量の血が飛び散り、家具は壊れ、室内には激しい争いの痕跡が残されていた。

この家の住人たちだった。

美咲は昨夜、この家に入り込み、四人全員を殺害していた。 

そして、何事もなかったかのように一晩を過ごし、朝になって家族の食料で朝食を取っていたのである。

玄関の鏡の前で、美咲は自分の顔を眺めた。

かつて普通の女子高生だった少女の、美しい顔が映っている。

その顔には、罪悪感も後悔もなかった。

美咲は小さく笑うと、白いウサギの仮面を手に取った。


「さて……次はどこにしようかな」


そして、四人の遺体を残したまま、家を出ていった。

その日から、東京は悪夢に包まれることになった。

最初の事件が発覚したのは、その日の夕方だった。

都内の住宅で一家五人が殺害されているのが発見されたのである。


現場には激しい争いの痕跡が残され、被害者たちはいずれも凄惨な状態で発見された。

しかし、それは始まりにすぎなかった。

翌日には別の住宅で三人が死亡。その数時間後には、さらに別の住宅で四人の遺体が発見された。

事件は連日のように発生し、警察が一つの現場を調べている間にも、新たな通報が入った。


犯行現場は住宅街が中心だった。

被害者の年齢も性別も職業もばらばらで、互いに接点は見つからなかった。

ただ一つ共通していたのは、犯人が人間の命を奪うことに、何の躊躇も見せていないという事実だった。

ある家では、被害者が激しい暴行を受けて死亡していた。

別の家では、首を絞められた遺体が発見された。

さらに別の現場では、逃げようとした住人が室内に仕掛けられた障害物によって動きを封じられ、刃物で何度も傷つけられていた。


犯行の手口は一定していなかった。

むしろ、事件を重ねるごとに殺害方法が増えていた。

警察は当初、複数の犯人による事件の可能性も検討した。しかし、防犯カメラに映った白いウサギの仮面、現場に残された痕跡、目撃情報などから、一連の事件には同一犯が関与している疑いが強まっていった。


そして、一週間後。


警視庁が確認した被害は、五十六件の住宅襲撃事件、死者百五十二人という前例のない規模に達していた。


『警視庁は本日、一連の連続殺人事件について、同一犯による犯行の可能性が極めて高いと発表しました』


テレビでは連日、ラビットに関する報道が続いていた。


『犯人とみられる人物は、白いウサギの仮面を着用した若い女性です。警察は大規模な捜査態勢を敷いていますが、現在も身柄の確保には至っていません』


東京の街から、人が消え始めていた。

夜間の外出を控える住民が増え、商店街では営業時間を短縮する店が相次いだ。学校では集団下校が実施され、子供を登校させない家庭も増えていた。

事件が集中した地域では、一時的に親族の家や地方の宿泊施設へ避難する住民も現れた。

SNSには、ラビットに関する投稿が溢れていた。


『もう東京に住めない』


『警察は何をしているんだ』


『次は自分の家かもしれない』


『あれだけ殺して、どうして捕まらない?』


恐怖と怒り、そして犯人への異常な関心が、社会全体を覆っていた。

だが、ラビットの殺戮は終わらなかった。

翌週、さらに衝撃的な事件が発生した。 


東京都郊外にあるスポーツ合宿施設。

そこでは、全国大会の常連として知られる柔道名門高校の部員たちが、強化合宿を行っていた。

その夜、施設に白いウサギの仮面を被った少女が現れた。

最初に異変に気づいたのは、見回りをしていた男子部員だった。


「おい、誰だよ、お前」 


廊下に立つ少女を見つけ、男子部員は不審そうに声をかけた。

少女は答えなかった。


「関係者以外、入っちゃ駄目なんだけど」


男子部員が近づいた瞬間、少女の腕が動いた。

次の瞬間、男子部員の身体が廊下の壁に叩きつけられた。

鈍い衝撃音が響き、男はそのまま床に崩れ落ちた。

物音を聞きつけた別の部員たちが、部屋から飛び出してきた。


「何だ、今の音!」


「おい、大丈夫か!」


倒れた仲間を見た部員たちの表情が凍りついた。

その先には、白いウサギの仮面を被った少女が立っていた。


「お前がやったのか!」


体格のいい男子部員が怒鳴った。

少女は小さく首を傾げた。


「ねえ、あなたたち、柔道強いんでしょう?」 


場違いなほど穏やかな声だった。


「だったら、ちょっと付き合ってよ」


「ふざけんな!」


男子部員の一人が飛びかかった。

全国大会への出場経験もある実力者だった。

相手の腕を掴み、体勢を崩そうとする。

しかし、少女の身体は動かなかった。


「……は?」


男子部員の顔に困惑が浮かんだ。

次の瞬間、少女が腕を振り払った。

それだけで男子部員の体勢が大きく崩れ、身体が床へ叩きつけられた。 


「ぐっ……!」


男が起き上がろうとした瞬間、少女の拳が振り下ろされた。

その一撃で、男は動かなくなった。 


「お、おい……!」


周囲の部員たちは息を呑んだ。

少女は倒れた男を見下ろし、少し考えるように首を傾げた。


「やっぱり、力だけじゃ駄目なのかな」


彼女は自分の手を眺めた。

人間離れした身体能力はある。

だが、相手の動きを見極め、攻撃を避け、確実に仕留めるための経験はまだ足りない。

佐伯を殺すためには、もっと多くを知らなければならない。


「ねえ、もっと本気で来てよ」


少女は部員たちへ顔を向けた。


「私、練習したいの」


その言葉に、部員たちの背筋が凍りついた。

目の前の少女は、自分たちを人間として見ていなかった。

まるで練習相手を選ぶような気軽さで、命を奪おうとしている。


「全員で押さえろ!」


誰かが叫んだ。

複数の部員が一斉に飛びかかった。

先頭の部員が少女の襟元を掴んだ。

大外刈り。

鍛え抜かれた足が少女の身体を崩し、そのまま床へ投げ倒した。


「よし!」


部員が声を上げた。

だが、次の瞬間、美咲は何事もなかったかのように立ち上がった。


「……今の、もう一回やって」


少女の言葉に、部員は耳を疑った。


「何言ってんだ、お前……!」


再び組みつこうとした瞬間、美咲が動いた。

先ほどとは違った。

襟を掴もうとした手は空を切り、部員は逆に身体を持ち上げられた。


「うわっ!」


背中から床へ投げ飛ばされる。

しかし、全国大会に出場するほどの選手だった。反射的に受け身を取り、すぐに起き上がろうとした。

そのとき、少女の手に包丁が握られていることに気づいた。


「なっ……!」 


刃が閃いた。

部員は悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。首元を押さえた指の間から血が溢れ、やがて動かなくなった。


「おい! しっかりしろ!」


仲間の一人が駆け寄ろうとした。

だが、その前に美咲が立ちはだかった。


「次はあなた?」


「この野郎!」


怒りに顔を歪めた部員が飛びかかった。

相手は少女だった。

しかし、すでに仲間が二人も倒されている。手加減などできる状況ではなかった。

部員は美咲の身体を掴み、得意の背負投げを仕掛けた。

少女の身体が宙を舞った。

床へ叩きつけられる直前、美咲は身体を捻ったが、完全には衝撃を逃がせなかった。


「……痛い」


立ち上がった美咲は、肩を軽く動かした。

そして、嬉しそうに笑った。


「今の、すごいね」 


「化け物め……!」


部員の顔が引きつった。

美咲は包丁を持ったまま、ゆっくりと近づいた。


「もう一回やってみて」


「来るな!」


男は後退した。

その背後から、別の部員が飛び出した。

少女の身体を掴み、足を払おうとする。

だが、美咲はすでにその動きを見ていた。

先ほど自分を投げた部員と、ほとんど同じ動きだった。


「……それ、知ってる」


少女の身体は崩れなかった。

逆に相手を投げ飛ばす。

床に叩きつけられた部員は受け身を取り、すぐに身体を起こした。

しかし、美咲はその動きを待っていた。

立ち上がろうとした男に襲いかかり、包丁を振るった。


「ぎゃああっ!」 


悲鳴が廊下に響いた。

部員は必死に抵抗したが、少女の力を振りほどくことはできなかった。

やがて、その身体が床へ崩れ落ちた。


「何なんだよ……こいつ……」


残された部員たちは、完全に動揺していた。

美咲はゆっくりと振り返った。


「ねえ、他の技も見せてよ」


誰も答えなかった。


「あなたたち、強いんでしょう?」


その声には、怒りも興奮もなかった。

ただ、純粋な好奇心だけがあった。


「ふざけるな!」


一人の部員が叫んだ。

仲間を殺された怒りが、恐怖を上回った。


「お前なんかに……!」


男が突進した。

美咲は、その動きをじっと見つめた。

相手が何をしようとしているのか、以前よりもはっきりとわかった。

肩の動き。

視線。

足の運び。

先ほどまで自分を苦しめていた柔道の技が、次第に予測できるようになっていた。

部員が組みつこうとした瞬間、美咲は身体をかわした。


「……遅い」


少女の腕が動いた。

部員は床へ投げ飛ばされ、すぐに受け身を取った。

だが、起き上がったときには、美咲が目の前にいた。


「ひっ……!」


包丁が振り下ろされた。

男は必死に腕で防ごうとしたが、抵抗は長く続かなかった。

血が床へ広がっていく。


「や、やめろ……!」


別の部員が後ずさった。

その顔には、もはや戦う意思など残っていなかった。


「逃げろ!」


誰かが叫んだ。

その言葉をきっかけに、部員たちは一斉に走り出した。

美咲は、逃げていく背中を眺めた。


「……あれ?」


小さく首を傾げる。


「もう終わり?」


廊下の奥で、部員たちが必死に走っていた。


「早く! 外に出ろ!」


「警察! 誰か警察呼べ!」


「何なんだよ、あいつ!」


恐怖に駆られた少年たちは、出口を目指した。

だが、背後から足音が近づいてきた。

ゆっくりとした足音だった。


「ねえ……」

少女の声が響いた。


「まだ終わってないよ?」


振り返った部員の顔が引きつった。

白いウサギの仮面。

その手には、血に染まった包丁が握られていた。


「うわあああっ!」


少年たちは悲鳴を上げて走った。

美咲は追いかけた。

先頭の部員が非常口へ飛びついた。

扉を開けようとした瞬間、背後から悲鳴が聞こえた。


「助けてくれ!」


振り返ると、仲間の一人が床に倒れていた。

その傍らには、白いウサギの仮面を被った少女が立っていた。


「早く開けろ!」


別の部員が叫んだ。

扉が開いた。

夜の冷たい空気が流れ込んできた。

少年たちは外へ飛び出した。

だが、安心する暇はなかった。

背後から、また悲鳴が響いた。


「待って! 置いていくな!」


転倒した部員が、必死に手を伸ばしていた。

仲間の一人が足を止めた。


「おい! 立て!」

助けようと駆け寄った。

しかし、その背後に少女が現れた。


「……優しいんだね」


美咲は楽しそうに言った。


「でも、邪魔」


次の瞬間、二人の悲鳴が夜の施設に響き渡った。

残された部員たちは、もう振り返らなかった。

ただ、必死に逃げた。

しかし、少女の足音は消えなかった。

一人、また一人。

逃げていた少年たちの声が途絶えていった。

最後に残った部員は、施設の裏手にある物置へ逃げ込んだ。

扉を閉め、震える手で鍵をかける。 


「はあっ……はあっ……!」


呼吸が止まらなかった。

スマートフォンを取り出し、警察へ電話をかけようとした。

だが、指が震えて画面を操作できない。

「頼む……頼むから……!」

そのときだった。

コン、コン。

扉を叩く音がした。

少年の身体が凍りついた。


「……ねえ」


扉の向こうから、少女の声が聞こえた。


「そこにいるんでしょう?」


少年は口を押さえた。

声を出してはいけない。

息を殺し、必死に祈った。

どうか、気づかないでくれ。

どうか、どこかへ行ってくれ。

しかし、少女は離れなかった。


「開けてよ」


コン、コン。

再び扉が叩かれた。


「……お願い……助けて……あ母さん…怖い…」


少年の目から涙が溢れた。

次の瞬間、激しい衝撃音が響いた。

扉が大きく歪んだ。


「ひっ……!」


二度目の衝撃。

鍵が壊れ、扉が開いた。

そこには、白いウサギの仮面を被った少女が立っていた。


「見つけた」


美咲は小さく笑った。

少年は壁際まで後ずさった。


「た、助けて……!」


声が震えていた。


「何でもする……! 金なら……!」


美咲は首を傾げた。


「お金?」


「頼む……殺さないで……!」


少女は少し考えるように黙った。

そして、ゆっくりと近づいた。


「……その目…ゾクゾクしちゃう」


優しい声だった。



少年の絶叫が、夜の施設に響いた。

やがて、その声も途絶えた。

美咲は物置から出ると、包丁を眺めた。

何度も相手に掴まれ、投げられそうになった。

最初は見えなかった動きが、次第に見えるようになっていた。


一度受けた技は、次には対応できる。

相手の動きを読み、攻撃をかわし、反撃する。

戦うたびに、自分の中で何かが変わっていく。

美咲は小さく笑った。 


「……楽しかった…あはっ」


そして、倒れた部員たちを振り返ることもなく、施設を後にした。

翌朝、事件は全国に報道された。


『昨夜、東京都郊外のスポーツ合宿施設で、柔道部員らが襲撃される事件が発生しました。警視庁は、現場の状況などから、連続殺人事件の犯人であるラビットが関与した可能性が高いとみて捜査しています』


画面には、救急車と警察車両が集まる施設の映像が流れていた。


『被害に遭ったのは、全国大会でも実績を持つ柔道名門高校の生徒たちです。大勢の生徒が死亡しており、警察は詳しい被害状況の確認を急いでいます』


続いて、現場付近から中継する記者が映し出された。


『今回の事件では、日頃から厳しい訓練を積んでいた柔道部員が大勢殺害されていることから、警察は複数の犯人が関与した可能性や、極めて殺傷能力の高い武器が使用された可能性も含めて、慎重に捜査を進めています』


事件の衝撃は、これまで以上に大きかった。

鍛えられた柔道部員たちが、大勢殺害された。

しかも、犯人は依然として逃走している。

東京から離れる人々はさらに増え、各地の駅や空港では、家族を連れて避難する人々の姿が見られるようになった。


ラビットという名前は、もはや単なる殺人犯の呼び名ではなくなっていた。

それは、人々が口にすることさえ恐れる、異常な殺人鬼の象徴となっていた。

その報道を、一人の男が満足そうに眺めていた。

佐伯だった。

薄暗い部屋の中、佐伯はソファに腰掛け、テレビの画面を見つめていた。


『警察は複数犯による犯行や、特殊な武器が使用された可能性についても捜査を進めています』


その言葉を聞いた佐伯は、思わず笑みを浮かべた。


「素晴らしい……」


彼は身を乗り出した。


「本当に素晴らしいですよ、美咲さん」


佐伯は、これまでの事件を記録した資料へ視線を移した。

住宅への侵入。

多様な殺害方法。

そして、今回の柔道名門校への襲撃。

そこには、明らかな変化が見られた。

最初は、圧倒的な身体能力に任せた殺害が中心だった。

しかし、事件を重ねるごとに、犯行の方法が変わっている。

相手の抵抗に応じて攻撃を変え、さまざまな方法で命を奪う。

佐伯は、その意味を理解していた。


「なるほど……私を殺すために、腕を磨いているわけですか」


彼の口元が大きく歪んだ。

かつて自分の教え子だった少女。

ごく普通の女子高生だった美咲が、今では日本中を恐怖に陥れる殺人鬼となっている。

しかも、そのすべての行動が、自分への復讐につながっている。

佐伯は愉快でたまらなかった。


「私に会いたいんですね、美咲さん」


彼はテレビに映るウサギの仮面を見つめた。


「私を殺したくて、殺したくて……仕方がない」


佐伯は声を上げて笑った。


「そのために、これほど大勢の人間を殺しながら、殺人の技術まで磨いているとは……」


笑いが止まらなかった。

自分を憎み、殺そうとしている少女。

だが、その憎悪さえ、佐伯にとっては研究成果の一つだった。


恐怖や罪悪感を薄れさせながら、特定の対象への強烈な憎悪は維持されている。


さらに、その憎悪が行動の目的となり、少女を次々と殺人へ駆り立てている。

佐伯は、自分の改良した薬剤が想像以上の結果を生み出していることに、強い興奮を覚えていた。


「私への憎しみは消えていない。それどころか、罪悪感も殺人への躊躇も失い、憎悪だけが強く残っている……」


彼は満足そうに頷いた。


「やはり、あなたは最高傑作ですよ」


佐伯は資料を閉じた。

ラビットが自分を誘い出そうとしていることは、もはや疑いようがなかった。

事件を起こし続ければ、自分が興味を持つ。

そして、いずれ接触してくる。

美咲は、そう考えているのだろう。

佐伯は楽しげに目を細めた。


「そこまで私のことを考えてくださるとは……教師として、これほど嬉しいことはありませんね」


彼は立ち上がり、机の上から便箋を取り出した。


「ここまで熱烈に誘われては、行くしかありません」


そして、ゆっくりとペンを走らせ始めた。


三日後。


東京都内の住宅街にある一軒家。

そのリビングで、美咲は夕食を取っていた。

テーブルには、温めた料理と飲み物が並んでいる。

美咲は椅子に座り、テレビを眺めながら食事を続けていた。


部屋の隅には、血に染まった男の遺体が倒れていた。

廊下には女が倒れ、二階の寝室には二人の遺体が残されている。

この家に住んでいた四人家族だった。

美咲は数時間前、この家に入り込み、住人全員を殺害していた。

それから冷蔵庫を開け、食事を用意したのである。

テレビでは、相変わらずラビットに関する報道が続いていた。


『警視庁は現在も大規模な捜査を続けていますが、犯人の足取りは依然としてつかめていません』


美咲は料理を口に運んだ。


「……遅いなあ」


小さく呟く。

佐伯からは、まだ何の接触もなかった。

これほど騒ぎを起こしているのに、あの男は姿を見せない。


美咲は少しだけ不満を感じていた。

もっと殺せばいいのだろうか。

もっと大きな事件を起こせば、佐伯は現れるのだろうか。


そう考えていたときだった。

ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。

美咲は顔を上げた。

しばらく待っていたが、誰かが入ってくる気配はない。

美咲は再び食事を始めた。

ピンポーン。

また鳴った。


「……うるさいな」


美咲は眉をひそめた。

ピンポーン。

さらにチャイムが鳴った。

美咲は小さくため息をついた。


「もう……」


椅子から立ち上がる。

どうせ訪問販売か、近所の住人だろう。

この家の住人に用があるのかもしれない。

どちらでもよかった。

邪魔をするなら、殺せばいい。

美咲は玄関へ向かった。

廊下に倒れている女の遺体を跨ぎ、ドアの前に立つ。


「はいはい……」


鍵を外し、勢いよく扉を開けた。

しかし、そこには誰もいなかった。


「……あれ?」


美咲は左右を見回した。

人の姿はない。

そのとき、足元で小さな音がした。

扉を開けた拍子に、一通の封筒が床へ落ちたのだった。


美咲はそれを拾い上げた。

白い封筒。

表には、丁寧な文字で名前が書かれていた。


『愛しのラビットへ』


美咲の指が止まった。

ゆっくりと封筒を開く。

中には、一枚の便箋が入っていた。


『愛しのラビットへ。

いいえ、美咲さんと呼ぶべきでしょうか。

あなたの熱烈なお誘い、確かに受け取りました。

これほどまでに私との再会を望んでくださるとは、教師冥利に尽きます。

あなたが私をどれほど憎んでいるのか、その行動から十分に伝わってきました。

そして、私を殺すために、日々努力を重ねていることも。

本当に素晴らしい成長です。

ぜひ、その成果を直接見せていただきたい。 


三日後、午後七時。 


渋谷スクランブル交差点でお待ちしています。

あなたの成長した姿を、この目で確かめられることを楽しみにしています。  佐伯  』


美咲は、しばらく動かなかった。

便箋に書かれた文字を、一行ずつ確かめるように読み返した。


佐伯。


その名前を見た瞬間、胸の奥から激しい感情が込み上げてきた。

ようやく。

ようやく、あの男が現れる。

自分からすべてを奪った男。

悠真を殺し、家族を奪い、自分をこんな身体に変えた男。

その男が、自分に会いに来るという。


「……あはっ」


美咲の口元が緩んだ。 


「あはは……」


笑いが漏れた。

最初は小さな笑いだった。

しかし、次第に抑えきれなくなっていった。 


「あはははははっ!」


美咲は便箋を握りしめ、声を上げて笑った。

嬉しかった。

これほど嬉しいと思ったのは、いつ以来だろう。

胸が高鳴り、全身が熱くなる。

待ち望んでいた瞬間が、ついに訪れようとしている。


「やっと……」


美咲は笑いながら呟いた。


「やっと会えるんだね、先生……!」


その瞳には、異様な輝きが宿っていた。

かつて悠真と過ごした日々。

家族と笑い合った時間。

何もかもを奪われた、あの日。

そのすべてが、脳裏を駆け巡った。

だが、美咲の顔に悲しみは浮かばなかった。

あるのは、ただ純粋な殺意だけだった。


「待っててね……」


少女は便箋を胸元へ引き寄せた。


「今度は私が、先生の全部を奪ってあげる」


美咲は再び笑った。

その笑い声は、血に染まった家の中にいつまでも響いていた。


三日後。

午後七時。


渋谷スクランブル交差点。

そこで、少女と狂気の創造者が再び顔を合わせようとしていた。

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