第六章 狂気の波紋
それから数か月後。
薄暗いマンションの一室で、佐伯はパソコンの画面を見つめていた。
画面には、新宿のハンバーガー店で発生した大量殺人事件の映像が映し出されている。
警察が押収した防犯カメラの記録だった。
本来なら、捜査関係者以外が閲覧できるものではない。
しかし、佐伯の手元には、その複製があった。
映像の中では、昼食時の店内に一人の人物が現れていた。
白いウサギの被り物。
制服姿。
手には包丁。
ラビット。
その人物が動き出した瞬間、店内は地獄へと変わった。
逃げようとした男が倒れ、悲鳴を上げた女性が床に崩れ落ちる。
次々と人間が襲われていく。
佐伯は映像を停止した。
そして、数秒巻き戻す。
再生。
再び停止。
何度も同じ場面を繰り返した。
「……これは」
佐伯の口元が、ゆっくりと持ち上がった。
ラビットが、背後から襲いかかろうとした男の動きを察知し、振り返ることなく攻撃をかわしていた。
続く動作にも、一切の無駄がない。
通常の人間では考えられない反応速度だった。
しかも、相手を殺傷することに躊躇がない。
佐伯は椅子から立ち上がった。
「素晴らしい……」
画面に顔を近づける。
「本当に素晴らしい!」
声を上げて笑った。
「成功したんですね、美咲さん!」
自分の予想をはるかに超えていた。
肉体の強化だけではない。
恐怖心の低下。
罪悪感の消失。
善悪を判断する感情の鈍化。
そして、人を殺すことへの躊躇の喪失。
かつて普通の女子高生だった少女が、今では何の迷いもなく人間を殺している。
佐伯はその事実に、身体能力の向上と同じほどの興奮を覚えていた。
画面の中では、ラビットが逃げ惑う人々を追い詰めていた。
抵抗する男の攻撃をかわし、包丁を振るう。
男が倒れる。
ラビットは、その結果を確かめることさえせず、次の標的へと向かっていた。
そこには、人を傷つけることへの恐怖も、命を奪ったことへの後悔も見られなかった。
「……なんということでしょう」
佐伯は興奮を抑えきれない様子で呟いた。
「ここまで見事に作用するとは……!」
彼は椅子に腰を下ろし、再び映像を巻き戻した。
その脳裏には、かつての研究施設の光景が浮かんでいた。
半世紀以上にわたり、国家の機密予算によって続けられてきたプロジェクト・キメラ。
人間の身体能力を限界以上に引き上げ、肉体の修復能力を高め、神経系の反応速度を飛躍的に向上させる。
その研究には、膨大な時間と資金、そして数え切れないほどの実験が費やされていた。
だが、研究者たちは最後まで、理想とする成果を安定して実現することができなかった。
身体機能を強化できても、精神が耐えられない。
肉体が適応しても、神経系に異常が生じる。
能力の向上と引き換えに、実験体が制御不能に陥ることもあった。
佐伯は、その研究を誰よりも近くで見てきた。
そして、施設から脱走する際、長年蓄積されてきた研究データを密かに持ち出していた。
薬剤の配合記録。
実験体の身体変化。
神経系への作用。
失敗例と、その原因についての解析結果。
研究者たちが積み重ねてきた膨大な成果は、佐伯にとって何よりも価値のある財産だった。
脱走後、佐伯はそのデータを基に研究を進めた。
過去の実験で明らかになっていた問題点を洗い出し、既存の理論を見直し、薬剤の改良を重ねていった。
そして、身体機能の強化と同時に、精神面にも作用する薬剤へと進化させた。
人間が危険を感じたときに生じる恐怖。
他者を傷つけることへの抵抗。
命を奪った際に生じる罪悪感。
そうした感情を鈍らせることで、強化された身体能力を、心理的な制約に妨げられることなく発揮させる。
それが、佐伯の目指した成果だった。
しかし、理論と現実は違う。
身体機能と精神の両方に強い変化を与える薬剤が、人間の肉体にどのような影響を及ぼすのか。
佐伯自身にも、完全には予測できていなかった。
そして、その改良薬剤を投与されたのが、美咲だった。
佐伯は画面に映るラビットを見つめた。
「何十年もの研究成果を積み重ねても、あの施設ではここまで到達できなかった……」
その声には、研究者たちへの嘲笑が混じっていた。
「ですが、私は違う。彼らが残した研究を、私はさらに進化させた。そして今、その成果が目の前にある……!」
佐伯の目が輝いた。
画面の中では、ラビットが男の攻撃をかわし、瞬時に反撃していた。
その動きは、人間の限界を超えていた。
だが、佐伯が注目していたのは、それだけではなかった。
ラビットは倒れた男に何の関心も示さず、次の人間へ向かっていく。
悲鳴を上げる女性。
逃げ惑う客。
命乞いをする男。
その誰に対しても、ラビットの行動は変わらなかった。
「……恐怖も、罪悪感もない」
佐伯は感嘆するように呟いた。
「人を殺すことに、これほどまで躊躇がなくなるとは……」
彼は画面に顔を近づけた。
「かつてのあなたなら、目の前で誰かが傷つくだけでも怯えていたでしょう。まして、自分の手で人の命を奪うなど、考えもしなかったはずです」
佐伯の口元が吊り上がった。
「それが今では、何の迷いもなく次々と殺している。自分の行為を正しいか間違っているかなど、考える様子すらない……!」
彼は堪えきれずに笑い始めた。
「素晴らしい! 実に素晴らしいですよ、美咲さん!」
笑い声が薄暗い部屋に響いた。
佐伯の脳裏に、拷問を受けていた美咲の姿が浮かんだ。
家族を奪われ、悠真を殺され、絶望の底へ突き落とされた少女。
あのとき、彼女の瞳には強烈な憎悪が宿っていた。
佐伯自身に向けられた、殺意に近い感情。
その憎悪を抱えたまま、美咲は改良薬剤を投与された。
そして今、画面の中で人々を殺している。
「なるほど……」
佐伯は興味深そうに目を細めた。
「あなたの中に生まれた憎悪は、消えていないんですね」
恐怖や罪悪感は薄れた。
善悪を判断する感情も鈍くなった。
しかし、家族と悠真を奪われた怒りだけは、失われていなかった。
むしろ、その憎悪は、彼女を突き動かす強烈な衝動となっていた。
「私への憎しみは消えていない。それどころか、罪悪感も殺人への躊躇も失い、憎悪だけが強く残っている……」
佐伯は満足そうに頷いた。
「肉体だけではなく、精神にもこれほどの変化をもたらすとは。私の改良は、間違っていなかった」
彼は再び映像を停止した。
画面の中では、ラビットが血に染まった店内を歩いていた。
十七人が死んだ。
二十三人が負傷した。
しかし、佐伯にとって犠牲者の数は、研究成果を示す数字でしかなかった。
かつて普通の女子高生だった少女が、わずか数か月でこれほどの殺人鬼へと変貌した。
その事実こそが、何よりも彼を興奮させていた。
「ですが……まだ完成ではありませんね」
佐伯は冷静さを取り戻した。
ラビットの行動には、時折、感情的な衝動が見られた。
人間を殺すことへの躊躇は失われていても、彼女自身の憎悪が行動を左右している。
佐伯は、それが誰に向けられたものなのかを理解していた。
「私を殺したいんでしょう?」
嬉しそうに笑う。
「いいですよ。探してください」
椅子に深く腰を下ろした。
「あなたがどこまで変わっていくのか、楽しみにしていますよ」
佐伯は再生ボタンを押した。
画面の中で、白いウサギが再び動き出す。
逃げ惑う人々。
血に染まっていく床。
そして、次々と命を奪っていく少女。
その光景を眺める佐伯の表情には、犠牲者への同情も、罪悪感もなかった。
ただ、自らが進化させた研究の成果に対する、異常なまでの満足感が浮かんでいた。
*
警視庁。
捜査一課の会議室では、重苦しい沈黙が続いていた。
大型モニターには、新宿のハンバーガー店で起きた事件の防犯カメラ映像が映し出されている。
死者十七名。
重軽傷者二十三名。
犯人は一人。
白いウサギの被り物をした、正体不明の人物。
捜査一課の黒田誠司警部補は、腕を組んで画面を見つめていた。
隣には若手刑事の三浦健太巡査部長が座っている。
「もう一度、そこを再生しろ」
黒田の低い声に、操作を担当していた捜査員が頷いた。
映像が巻き戻される。
ラビットが店内を移動する。
一人の男が椅子を振り上げる。
その瞬間、ラビットは男の動きに反応し、間合いを外していた。
直後、男は床に倒れた。
三浦が眉をひそめた。
「……黒田さん、これ、おかしくありませんか」
黒田は画面から目を離さずに答えた。
「何がだ」
「この反応速度です。椅子が振り下ろされる前に動いているように見えます」
黒田は黙っていた。
三浦は納得できない様子で続けた。
「それだけじゃありません。犯人は何十人もの人間を相手にしているのに、動きがまったく鈍らないんです」
「興奮状態だった可能性はある」
黒田はそう答えたものの、自分でもその説明が十分ではないことを理解していた。
「ですが、限度があります」
三浦は別の映像を表示した。
「こちらを見てください。犯人は背後の人間に対して、ほとんど振り返ることなく反応しています。まるで、相手がどう動くのか最初からわかっているみたいです」
その声には、刑事としての疑問だけでなく、得体の知れないものに対する恐怖が混じっていた。
黒田は画面を凝視した。
確かに異常だった。
通常の人間であれば、視界の外から接近する相手にここまで正確に対応することは難しい。
まして、これだけの人数を殺傷しながら、動作の精度を維持するなど考えられない。
「薬物反応は?」
黒田が尋ねると、三浦は資料に目を落とした。
「現場から犯人の血液などは採取できていません。ただ、目撃証言では痛みを感じていないようだったという話もあります」
「負傷していたのか?」
「正確には確認できていません。ですが、抵抗した客に殴られても、まったく怯む様子がなかったそうです」
黒田は深く息を吐いた。
「……化け物か」
長年、凶悪事件を担当してきた。
だが、これほど理解できない犯人は初めてだった。
そのときだった。
会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、警視庁刑事部の幹部だった。
その後ろには、見慣れない男たちが三人立っている。
全員が黒いスーツを着ていた。
幹部の表情は硬い。
「黒田警部補」
黒田は立ち上がった。
「はい」
「この事件の映像資料について、特別管理の指示が出た」
黒田の眉がわずかに動いた。
「……特別管理、ですか」
「そうだ。これまでに収集した防犯カメラ映像、解析資料、関連する捜査報告書の複製を、すべて提出してもらう」
「どちらへ提出するのでしょうか」
「警察庁の指定する部署だ」
黒田は幹部の背後にいる男たちを見た。
「現在、捜査中です。映像には犯人の行動が詳細に記録されています。こちらでも継続して解析する必要があります」
「それは承知している。原本は規定どおり保全し、捜査に必要な資料の使用も認める。ただし、今後は閲覧者を限定し、複製や外部への提供には許可を必要とする」
「理由を伺っても?」
幹部は一瞬、言葉を詰まらせた。
「上からの指示だ」
その答えに、黒田の表情が険しくなった。
「十七人が殺されているんです。理由もわからず情報を制限されては、現場としても納得できません」
「納得してもらう必要はない」
幹部の声が低くなった。
「命令だ」
会議室が静まり返った。
黒いスーツの男たちは、担当者から複製資料を受け取り、内容を確認し始めた。
三浦が思わず立ち上がる。
「待ってください! 犯人の情報を共有できなくなれば、捜査に支障が出るかもしれません!」
幹部が三浦を見た。
「君の階級と名前は?」
三浦は一瞬怯んだが、姿勢を正した。
「捜査一課、三浦健太巡査部長です」
「三浦巡査部長。必要な情報は、今後も正規の手続きを通じて共有される。それ以上の説明はできない」
「ですが……」
「それから、ここにいる全員に伝えておく」
幹部は室内を見渡した。
「本日確認した映像の内容について、許可のない部署や外部の人間には一切口外するな」
黒田が顔を上げた。
「……捜査員同士でも、ですか」
「担当者以外には、だ」
「理由を伺っても?」
「答えられない」
黒田は幹部の背後にいる男たちを見た。
彼らは警察官には見えなかった。
所属を示すものもなく、こちらの質問に答える様子もない。
「一つだけ確認させてください」
黒田が言った。
「この事件は、警察の手を離れるということですか」
幹部は少しだけ沈黙した。
「捜査は継続する。ただし、今後は指示された範囲で行え」
「犯人の逮捕は?」
「当然、目指してもらう」
幹部はそこで言葉を切った。
「ただし、犯人を発見した場合は、独断で行動するな。必ず上に報告しろ」
黒田の目が細くなった。
「……どういう意味でしょうか」
「それ以上は聞くな」
幹部はそう告げると、男たちを連れて会議室を出ていった。
残された捜査員たちは、しばらく誰も口を開かなかった。
三浦が小さく呟いた。
「……何なんですか、今の」
黒田は扉を見つめていた。
長年刑事を続けてきた。
政治家が関わる事件も、警察内部の不祥事も、国家機密に関わる案件も見てきた。
だが、これほど露骨に捜査へ介入されたことはなかった。
「黒田さん……」
三浦が不安そうに声をかける。
「俺たち、何を捜査してるんでしょうか」
黒田は答えなかった。
ただ、先ほどの映像を思い出していた。
白いウサギ。
異常な身体能力。
そして、何かを知っているような上層部の態度。
黒田は低い声で呟いた。
「……どうやら、ただの殺人事件じゃなさそうだな」
*
警視庁本部庁舎の地下。
一般の捜査員が立ち入ることのできない、特別管理区域。
その奥にある会議室で、数人の男たちが大型モニターを見つめていた。
先ほど提出された防犯カメラ映像の複製が再生されている。
中央の席に座っているのは、警察庁警備局の特別事案対策室長、神崎隆司。
五十六歳。
国家の安全保障に関わる極秘案件を担当する人物だった。
その隣には、防衛省から派遣された連絡官と、内閣官房の危機管理担当者が座っている。
部屋の照明は落とされていた。
正面のモニターには、白いウサギの被り物をした人物が映っている。
そして、背後の壁に設置された別のモニターには、一人の白髪の男の姿があった。
男の名前は、アルバート・ウェイン。
プロジェクト・キメラに長年関わってきた研究者の一人だった。
現在は政府の保護と監視のもとに置かれ、研究施設の惨劇に関する調査に協力している。
「どうだ、アルバート博士」
神崎が尋ねた。
「この人物に見覚えはあるか」
アルバートは画面を凝視した。
しばらくして、首を横に振った。
「ありません」
「例の施設から脱走した実験体ではないのか」
「違います」
アルバートは即答した。
「少なくとも、私が把握している実験体の中に、この人物はいません」
神崎は腕を組んだ。
「では、この身体能力をどう説明する」
アルバートは黙った。
画面では、ラビットが男の攻撃をかわし、瞬時に反撃していた。
続いて別の人物が襲いかかる。
ラビットはその動きにも反応し、ほとんど間を置かずに次の標的へ向かっていた。
アルバートの表情が険しくなった。
「……映像を止めてください」
神崎が操作員に目を向けた。
映像が停止する。
「ここです」
アルバートは画面の一部を指さした。
「この人物は、相手の攻撃動作が完了する前に反応しています。しかも、反応しているだけではありません。次の行動へ移るまでの時間が異常に短い」
「訓練を受けた人間では不可能なのか」
「不可能とは断言できません。しかし、これほどの動作を連続して行うことは、通常の人体では考えられません」
アルバートは画面を見つめたまま続けた。
「筋力、神経伝達速度、反射能力……いずれか一つが優れているという話ではない。すべてが異常な水準に達しているように見えます」
神崎が尋ねた。
「キメラと同じだと言いたいのか」
「……可能性はあります」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
防衛省の連絡官が身を乗り出す。
「博士。あなたは先ほど、実験体ではないと言ったはずだ」
「ええ。少なくとも、施設から脱走した十人の実験体とは一致しません」
「では、なぜキメラの可能性があると?」
アルバートはゆっくりと息を吐いた。
「私にもわかりません」
そして、画面に映るラビットを見つめた。
「ですが、我々が研究してきた身体機能強化と、あまりにも共通点が多い」
神崎の表情が険しくなる。
「つまり、プロジェクト・キメラと何らかの関わりがあるかもしれない、と」
「そう考えるべきでしょう」
アルバートは頷いた。
「それに、もう一つ気になることがあります」
「何だ」
「この人物には、我々の実験体に見られたような行動制御の兆候がありません」
神崎が眉をひそめた。
「行動制御?」
「我々は実験体の脳内に制御装置を埋め込み、命令違反や攻撃行動を抑制していました。しかし、この人物は完全に自分の意思で動いているように見える」
アルバートは言葉を切った。
「もし、これが人為的に生み出された存在だとすれば……」
「すれば?」
「我々の知らないところで、キメラに関する研究が進められている可能性があります」
沈黙が落ちた。
神崎はしばらく考え込んでいた。
「博士。この人物をどう扱うべきだと思う」
アルバートは即座に答えた。
「生け捕りにしてください」
その声には、強い意志が込められていた。
「絶対に殺してはいけません」
防衛省の連絡官が顔をしかめた。
「十七人を殺し、二十三人を負傷させた凶悪犯だぞ。現場で抵抗すれば、警察官の命も危険にさらされる。そんな相手を、何が何でも生かして捕まえろというのか」
「それでもです!」
アルバートの声が大きくなった。
画面越しに、男たちが彼を見つめる。
アルバートは興奮を抑えるように、一度息を整えた。
「失礼しました。しかし、この人物は極めて重要です」
そして、静かに続けた。
「もし本当にキメラと同等の能力を持っているのなら、どうやってその力を手に入れたのかを調べなければなりません」
「研究のためか?」
神崎の問いに、アルバートは首を横に振った。
「それだけではありません」
画面の中では、白いウサギが血に染まった店内を歩いていた。
「もし、この技術が我々の管理外に流出しているのなら……」
アルバートは神崎を見据えた。
「同じような存在が、ほかにも生み出されているかもしれないのです」
誰も言葉を発しなかった。
やがて神崎が腕を組み直した。
「博士。あなたの言いたいことはわかった。しかし、ここは日本だ。十七人もの国民が殺されている。研究上の価値があるというだけで、現場の警察官に危険を負わせるわけにはいかない」
その声には、明確な拒絶が含まれていた。
アルバートは神崎の表情を見つめた。
「もちろんです。ですが、神崎室長。この人物を殺してしまえば、我々の研究との関係を解明する機会を失うかもしれません」
「それは理解している。だが、現場の安全を犠牲にする理由にはならない」
神崎は厳しい口調で答えた。
そのとき、内閣官房の危機管理担当者が静かに口を開いた。
「神崎室長。博士の要請については、慎重に対応していただきたい」
神崎は不快そうに眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「アメリカ政府から、今回の事件について強い要請が来ています。プロジェクト・キメラに関係する可能性がある以上、対象を生きたまま確保するように、と」
「……アメリカ政府が、日本国内の殺人事件にまで口を出してくるのですか」
神崎の声には、露骨な不快感が滲んでいた。
「それほど重要な案件だということです。すでに日本政府にも外交ルートを通じて圧力がかかっています」
担当者は一度言葉を切り、神崎を見据えた。
「内閣官房としても、可能な限りアメリカ側の要請に応じる方針です。警察庁にも、その方針に沿った対応を求めています」
神崎は奥歯を噛みしめた。
十七人もの国民が殺されている。
それにもかかわらず、外国の研究者の要求を優先しなければならない。
到底、納得できる話ではなかった。
しかし、内閣官房から明確な方針を示された以上、神崎個人の判断で無視するわけにはいかなかった。
「……わかりました。ただし、現場の警察官や一般市民の生命を危険にさらしてまで、生け捕りにするつもりはありません」
「それで結構です」
神崎は険しい表情のまま、モニターに映るアルバートを見た。
「博士。可能な限り生きたまま確保するよう指示します。ただし、現場の安全が最優先です。それだけは理解していただきたい」
アルバートは静かに頷いた。
「ええ。それで十分です」
神崎は隣の連絡官に目を向けた。
「警視庁に通達しろ。対象を発見した場合は、独断で接触せず、速やかに報告すること。確保に際しては、可能な限り生存を優先する。ただし、警察官や一般市民の生命に危険が及ぶ場合は、現場の判断を妨げない」
「了解しました」
連絡官が頷いた。
神崎は続けた。
「それから、この事件に関する情報は、特別事案対策室で一元管理する。報道機関への情報提供も、今後は慎重に判断しろ」
指示を終えると、神崎は再びモニターを見た。
白いウサギの被り物。
人間離れした身体能力。
そして、無差別に人を殺す異常な行動。
「……いったい何者なんだ、お前は」
神崎の呟きに答える者はいなかった。
ただ一人。
モニターの向こうにいるアルバートだけが、画面から目を離せずにいた。
その表情には、恐怖と同時に、研究者としての抑えきれない好奇心が浮かんでいた。
プロジェクト・キメラ。
半世紀以上にわたり続けられてきた、国家の極秘研究。
その研究によって生み出された十人の殺人鬼は、研究施設を壊滅させ、外の世界へと逃亡した。
いまだ、その全員が確保されたわけではない。
そして今、日本で新たな異常が確認された。
白いウサギの被り物をした、正体不明の殺人鬼。
施設から脱走した十人の誰とも一致しない。
それにもかかわらず、キメラの実験体を思わせる異常な身体能力を持っている。
アルバートは、画面の中のラビットを見つめ続けた。
もし、これが単なる偶然ではないとすれば。
もし、自分たちが積み重ねてきた研究成果が、知らないところで利用されているのだとすれば。
問題は、逃亡した十人の殺人鬼だけでは済まなくなる。
「……いったい、何が起きているんだ」
アルバートは誰に聞かせるでもなく呟いた。
答えはなかった。
モニターの中では、白いウサギがゆっくりと振り返っていた。
まるで、画面の向こうからこちらを見つめているかのように。
アルバートの背筋に、冷たいものが走った。
半世紀以上にわたる研究の果てに生み出された怪物たち。
その存在が世界へ解き放たれた今、研究者である自分たちでさえ、何が起きるのか予測できなくなっていた。
そして、アルバートは一つの可能性に恐怖を覚えていた。
プロジェクト・キメラの惨劇は、研究施設の崩壊だけでは終わらない。
むしろ、すべてはこれから始まるのかもしれない。




