第五章 狂気の創造者
佐伯は、目の前の少女を静かに見つめていた。
そこは東京都内の工業地帯にある、古びた倉庫だっ た。
かつて資材の保管場所として使われていた建物だが、現在はほとんど利用されていない。周囲には同じような倉庫や工場が立ち並び、夜間になると人通りも途絶える。
佐伯は、美咲が意識を失った後、あらかじめ用意していた車でこの場所まで運んでいた。
この倉庫を選んだのは偶然ではない。
佐伯は事前に周辺の監視カメラや人の出入りを調 べ、管理会社による定期巡回の日時まで把握してい た。
建物の裏手には、隣接する工場の搬入口へ通じる通路がある。万が一、誰かが倉庫へ近づいてきても、正面で鉢合わせすることなく立ち去れる構造だった。
そして何より、この倉庫は数日後に管理会社の点検が予定されていた。
佐伯にとって重要なのは、誰にも見つからないことではない。
必要な時間だけ、美咲と二人きりになれること。
そして、すべてが終わった後、彼女が生きたまま発見されることだった。
薄暗い室内には、湿ったコンクリートと錆びた鉄の 臭いが漂っていた。
天井から吊るされた裸電球が、中央に置かれた椅子 を照らしている。
その椅子に、桜井美咲は縛りつけられていた。
両手首と足首は拘束され、制服のまま、力なく頭を 垂れている。
佐伯は椅子を引き寄せ、美咲の正面に腰を下ろし た。
「美咲さん。そろそろ起きていただけませんか」
教室で生徒に声をかけるときと変わらない、穏やかな口調だった。
美咲のまぶたが、かすかに動いた。
ぼんやりとした視界に、裸電球の光が滲んでいる。
頭が重い。
身体を動かそうとして、手足が固定されていることに気づいた。
「……え……?」
美咲は戸惑いながら顔を上げた。
目の前に座っている男を見た瞬間、全身が硬直した。
佐伯。
家族を殺した男。
悠真を殺した男。
自分たちの幸せを、何のためらいもなく踏みにじった男。
「……いや……」
美咲は震える声を漏らした。
逃げようと身体をよじる。しかし、拘束された手足は動かない。
「いやっ! 離して! 離してください!」
恐怖で呼吸を乱しながら、美咲は必死に叫んだ。
佐伯はその様子を眺め、少し困ったように眉を下げ た。
「そんなに暴れると、手首を傷めてしまいますよ」
その言葉に、美咲の表情が歪んだ。
家族を殺した男が、自分の手首を心配している。
あまりにも異常だった。
「どうして……どうして、こんなことをするんですか……!」
美咲は涙を流しながら訴えた。
佐伯はしばらく彼女を見つめていたが、やがて静か に微笑んだ。
「前にもお話ししたでしょう。私は、あなたの中にある狂気を見てみたいんです」
美咲は首を振った。
「そんなもの……ありません……!」
「そうでしょうか」
佐伯は楽しそうに首を傾げた。
「私は教師として、長い間あなたを見てきました。誰にでも優しく、他人の痛みに敏感で、自分よりも周囲の人間を大切にする。実に立派な生徒でした」
懐かしむような声だった。
「ですが、私はずっと不思議だったんです。その優しさが、もし憎しみに変わったらどうなるのだろう、と」
「……何を……言って……」
美咲には理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
佐伯は机の上に置かれた小さなケースを開いた。
中には数本の注射器が並んでいた。
「今日は、少し特別な授業をしましょう」
佐伯が一本を手に取る。
美咲の顔から血の気が引いた。
「……何、それ……」
佐伯は注射器を光にかざした。
「私が作った薬剤です。まだ完成していませんが、非常に興味深い可能性を秘めています」
「やめて……!」
美咲は必死に腕を引こうとした。
「お願いです……! もう、やめてください……!」
佐伯は彼女の懇願を聞きながら、静かに腕を取っ た。
「大丈夫ですよ。すぐに何かが起こるわけではありません」
その言葉に安心する暇もなく、針が皮膚に刺さった。
「いやああっ!」
美咲は泣き叫んだ。
佐伯は注射を終えると、彼女の表情を観察した。
「さて……あなたは、どう変わるのでしょうね」
その目には、教師としての温かさなど微塵もなかっ た。
ただ、未知の結果を待ち望む研究者の興奮だけが浮 かんでいた。
*
最初の日。
美咲は、ただ泣き続けていた。
佐伯は彼女に繰り返し質問した。
家族のこと。
悠真のこと。
失われた日常のこと。
美咲は答えなかった。
答えれば、あの日の光景を思い出してしまう。
父の声。
母の悲鳴。
倒れていく悠真。
血に染まった床。
忘れようとしても、忘れられない。
「……帰りたい……」
美咲は俯いたまま呟いた。
佐伯は机の上で何かを記録していたが、その言葉を 聞くと顔を上げた。
「どこへですか?」
美咲は唇を震わせた。
「……家に……」
「ですが、美咲さん」
佐伯は静かに言った。
「もう、誰も待っていませんよ」
美咲の呼吸が止まった。
頭ではわかっていた。
それでも、誰かにそう言われることには耐えられな かった。
「……やめて……」
佐伯は彼女の目を見つめた。
「あなたのご両親も、悠真君も、もう戻ってきません」
「やめてっ!」
美咲は泣き叫んだ。
「お願いだから……もう言わないで……!」
佐伯は黙って彼女を見ていた。
しばらくして、穏やかに尋ねた。
「私が憎いですか?」
美咲は答えなかった。
「許せませんか?」
涙が頬を伝った。
「……許せる……わけ……ない……」
佐伯の目が細くなった。
「そうでしょうね」
その声には、かすかな満足が滲んでいた。
「その気持ちは、忘れないでください」
美咲は意味がわからず、顔を上げた。
佐伯は微笑んでいた。
「きっと、あなたの役に立ちますから」
*
二日目。
美咲の身体には、すでに異変が現れ始めていた。
最初に感じたのは、奇妙な熱だった。
全身の奥が熱い。
心臓の鼓動が、普段よりもはっきりと聞こえる。
耳を澄ませば、遠くを走る車の音まで聞き取れるよ うな気がした。
だが、それ以上に美咲を苦しめていたのは、身体に 刻まれた傷だった。
佐伯は、彼女の反応を確かめるように刃物を使って いた。
鋭い痛みが走るたび、美咲は悲鳴を上げた。
「いやっ! 痛い! やめて!」
椅子が激しく揺れた。
佐伯は手を止め、美咲の顔を覗き込んだ。
「痛いですか?」
「……お願い……もう……」
美咲は涙と鼻水で顔を濡らしながら、必死に懇願した。
「何でもします……だから……助けて……」
佐伯はしばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「何でも、ですか?」
美咲は何度も頷いた。
「……はい……お願い……」
「では、私を許せますか?」
その瞬間、美咲の表情が凍りついた。
目の前の男を許す。
家族を殺し、悠真を奪った男を。
そんなことができるはずがなかった。
しかし、許すと言えば、この苦痛が終わるかもしれ ない。
美咲は唇を震わせた。
「……ゆる……」
言葉が続かなかった。
佐伯は黙って待っていた。
「……許せ……ません……」
ようやく絞り出した声だった。
佐伯の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「なるほど」
彼は楽しそうに頷いた。
「自分の命がかかっていても、そこだけは譲れないんですね」
美咲は再び泣き出した。
「……お願い……殺さないで……」
佐伯は彼女の涙を見つめた。
「殺しませんよ。少なくとも、今は」
その言葉に、美咲の身体が震えた。
佐伯は再び注射器を取り出した。
「あなたには、まだ確かめたいことがたくさんありますから」
美咲は首を振った。
「……いや……もう……いや……」
しかし、佐伯は止まらなかった。
薬剤が投与される。
美咲は目を閉じ、ただ震えていた。
しばらくすると、胸の奥に奇妙な感覚が広がり始めた。
恐怖は消えていない。
痛みもある。
それなのに、頭の中で何かが変わり始めていた。
佐伯の顔を見るたびに、胸の奥が焼けるように熱く なる。
今までは、ただ怖かった。
だが、その恐怖の奥に、別の感情が生まれていた。
許せない。
どうして、この男だけが笑っているのか。
どうして、家族も悠真も死んだのに、この男は生き ているのか。
美咲は涙に濡れた目で、佐伯を見つめた。
佐伯は、その変化を見逃さなかった。
「……いいですね」
小さく呟いた。
「少しずつ、見えてきましたよ」
*
三日目。
美咲は、自分の身体に起きている変化を理解できずにいた。
眠っているのか、目を覚ましているのかさえ曖昧だった。
意識を失うたびに、家族の夢を見た。
母が台所に立っている。
父が新聞を読んでいる。
悠真が笑っている。
何でもない、ありふれた日常。
美咲が声をかけようとすると、決まって全員が振り返った。
そして、その顔が血に染まる。
「いやあああっ!」
美咲は悲鳴を上げて目を覚ました。
目の前には、佐伯がいた。
「おはようございます、美咲さん」
その穏やかな声を聞いた瞬間、美咲は泣き崩れた。
「……先生……」
無意識に、かつての呼び方が口から漏れた。
「……お願い……もう……帰してください……」
佐伯は少しだけ目を細めた。
「まだ私を先生と呼んでくれるんですね」
美咲は俯いた。
かつて信頼していた教師。
両親を説得してくれた人。
自分たちの未来を応援してくれた人。
そのすべてが嘘だった。
「……どうして……」
美咲の声は震えていた。
「……私たちが……何をしたんですか……」
佐伯は首を傾げた。
「何もしていませんよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
美咲は顔を上げた。
「……だったら……どうして……!」
「あなたが、興味深かったからです」
佐伯は当然のことのように答えた。
「私は、あなたが大切なものを失ったとき、どんな人間になるのか知りたかった。それだけですよ」
美咲は呆然とした。
家族も、悠真も。
自分の身体も、未来も。
すべてを奪った理由が、ただの興味。
「……そんな……」
涙が溢れた。
「……そんな理由で……?」
佐伯は穏やかに頷いた。
「ええ」
その瞬間、美咲の胸の奥で何かが激しく脈打った。
悲しみではなかった。
恐怖とも違った。
今まで感じたことのないほど強い怒りだった。
「……ふざけないで……」
美咲は俯いたまま呟いた。
佐伯の眉が、わずかに動いた。
「何ですか?」
「……ふざけないでよ……!」
美咲は顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、佐伯を睨みつけていた。
「お父さんも……お母さんも……悠真も……!」
声が震える。
「みんな……生きてたのに……!」
美咲は拘束された腕を激しく動かした。
「返してよ! みんなを返してよ!」
佐伯は黙っていた。
「何で……何であんたなんかに……!」
美咲は泣き叫んだ。
「絶対に許さない……! 絶対に……!」
佐伯は、その表情をじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……そうですか」
声には、隠しきれない喜びが混じっていた。
「ようやく、少しだけ本当のあなたが見えてきましたね」
美咲は荒い息を繰り返した。
自分でも、なぜこれほど激しく怒りが込み上げてく るのかわからなかった。
佐伯への憎しみは、最初からあった。
だが、今は違う。
胸の奥に生まれた怒りが、身体の隅々にまで広がっ ていく。
その感覚が、恐ろしかった。
佐伯は注射器を手に取った。
「もう少し、続けてみましょう」
美咲の表情が一変した。
「……いや……!」
先ほどまでの怒りが、再び恐怖に押し潰される。
「やめて! お願い! もうやめて!」
佐伯はその反応を見て、小さく頷いた。
「まだ恐怖の方が強いようですね」
そして、静かに微笑んだ。
「ですが、心配はいりません。あなたは確実に変わり始めていますよ」
*
四日目。
佐伯は、美咲の身体に現れた変化に驚いていた。
前日まで深く傷ついていた箇所の一部が、異常な速 さで塞がり始めていた。
もちろん、すべての傷が治ったわけではない。
筋肉や神経に及んだ損傷は依然として深刻で、身体 を動かすだけでも激しい痛みが走る。
しかし、通常では考えられない回復反応が起きてい ることは明らかだった。
「……素晴らしい」
佐伯は美咲の腕を観察しながら呟いた。
「私の想定よりも、はるかに早い」
美咲は力なく俯いていた。
もう、声を出すことさえ辛かった。
佐伯は彼女の顔を覗き込んだ。
「美咲さん。聞こえていますか?」
返事はない。
「あなたの身体は、今までとは違うものになり始めています」
美咲のまぶたが、わずかに動いた。
「……何を……したの……」
佐伯は嬉しそうに微笑んだ。
「少しだけ、人間の限界を超える手助けをしたんですよ」
「……元に……戻して……」
美咲はかすれた声で懇願した。
「……お願い……元に戻して……」
佐伯は首を横に振った。
「それはできません」
美咲の目から涙が零れた。
「……どうして……」
「あなたが、まだ完成していないからです」
その言葉に、美咲は顔を上げた。
「……完成……?」
「ええ」
佐伯は椅子を引き寄せた。
「人間は、自分の感情を理性で抑え込んでいます。誰かを憎んでも、簡単には殺そうとしない。恐怖や罪悪感が、その行動を止めるからです」
美咲は黙っていた。
「ですが、もし、その枷がなくなったらどうなるでしょう」
佐伯は彼女の瞳を覗き込んだ。
「あなたは、私を許せないと言いましたね」
美咲の表情が強張った。
「その気持ちを、ずっと大切にしてください」
「……何で……」
佐伯は微笑んだ。
「それが、あなたを生かすかもしれないからです」
佐伯自身にも、薬剤がどこまで作用するのかはわかっていなかった。
肉体の強化に耐えられず、命を落とす可能性もあ る。
精神が崩壊し、何も考えられなくなる可能性もあっ た。
しかし、美咲はまだ自分の意思を保っている。
恐怖に怯え、命乞いをしながらも、佐伯への恨みだ けは失っていない。
その事実が、佐伯を興奮させていた。
彼女の中にある憎悪が、変化し続ける精神をつなぎ 止めているのではないか。
それは、まだ証明されていない仮説だった。
だが、佐伯は確信に近い期待を抱き始めていた。
「……あなたは、私が思っていた以上に面白い人間ですよ」
佐伯は満足そうに呟いた。
*
五日目。
美咲は、泣くことが少なくなっていた。
涙が枯れたわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、何かがおかしかった。
以前なら、佐伯が近づくだけで身体が震えた。
刃物を見れば、声を上げて助けを求めた。
今も怖い。
痛みも感じる。
それなのに、以前ほど身体が言うことを聞かなくな ることはなかった。
佐伯が目の前に立っている。
美咲は、その顔を見つめていた。
眼鏡。
穏やかな目元。
人のよさそうな笑顔。
何度も教室で見た顔だった。
美咲は、その顔を見ているうちに、あることに気づ いた。
自分は、この男のことを何も知らなかった。
優しい教師だと思っていた。
信頼できる大人だと思っていた。
その結果、家族も悠真も失った。
「……先生」
美咲が静かに呼びかけた。
佐伯は顔を上げた。
「はい。何でしょう?」
「……どうして……笑っていられるんですか……」
佐伯は少し考えるように首を傾げた。
「楽しいからですよ」
美咲は黙っていた。
「あなたの変化を見るのが、非常に楽しいんです」
その言葉を聞いても、美咲は泣かなかった。
ただ、佐伯の顔を見つめていた。
「……そう……」
小さな声だった。
佐伯は、その反応に興味を示した。
「今日は、随分と落ち着いていますね」
美咲は答えなかった。
佐伯が机に向かって背を向ける。
その背中を、美咲はじっと見つめた。
今、手が自由だったら。
あの机の上にある刃物を取れたら。
そんな考えが、突然頭に浮かんだ。
美咲は息を呑んだ。
自分が何を考えたのか、理解した瞬間だった。
怖かった。
自分の中に、知らない何かが生まれ始めている。
美咲は慌てて目を閉じた。
だが、頭に浮かんだ考えは消えなかった。
佐伯は振り返った。
「どうしました?」
美咲は首を振った。
「……何でも……ありません……」
佐伯はしばらく彼女を観察していた。
そして、机の上の記録に目を落とした。
以前よりも恐怖反応が弱まっている。
感情の変化は、すでに明らかだった。
しかし、佐伯が何より興味を抱いたのは、美咲の視 線だった。
以前は、刃物から逃れようとしていた。
今は、刃物そのものを見ている。
その違いに、佐伯は気づいていた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「そういう変化も起こるんですね」
美咲は何も答えなかった。
ただ、佐伯が机の上に置いた刃物から、なかなか目 を離せずにいた。
*
六日目。
美咲の精神は、限界に近づいていた。
眠れば悪夢を見る。
目を覚ませば佐伯がいる。
身体は傷つき、薬剤による異常な熱が絶えず全身を 駆け巡っていた。
しかし、以前とは決定的に違うことがあった。
美咲は、佐伯の顔を見ても目を逸らさなくなってい た。
「美咲さん」
佐伯が声をかけた。
「今日は、少し質問を変えてみましょう」
美咲はゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、私にどうしてほしいですか?」
以前なら、迷わず答えていただろう。
解放してほしい。
家に帰してほしい。
もう傷つけないでほしい。
だが、今は違った。
美咲はしばらく佐伯を見つめていた。
「……苦しんで……ほしい……」
佐伯の眉が動いた。
「ほう」
美咲の唇が震えた。
「……私たちが……どれだけ……苦しかったか……」
声はかすれていた。
「……同じように……苦しんでほしい……」
佐伯は静かに微笑んだ。
「それは、復讐したいということですか?」
美咲は答えなかった。
自分でも、その感情をどう表現すればよいのかわか らなかった。
ただ、佐伯が何事もなかったように笑っていること が許せなかった。
家族も悠真も、もう二度と笑うことはできない。
それなのに、この男だけが楽しそうに生きている。
その事実を考えるたび、胸の奥が熱くなった。
「……許さない……」
美咲は呟いた。
「……絶対に……許さない……」
佐伯は満足そうに頷いた。
「ええ。それでいいんです」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、あなたがどこまで変わるのか見てみたい」
美咲は顔を上げた。
佐伯の笑顔を見た瞬間、またあの考えが浮かんだ。
この男がいなくなれば。
この男が、もう二度と笑えなくなれば。
胸の奥に、奇妙な感覚が広がった。
以前なら、そんなことを考える自分が恐ろしくなっ た。
だが、今は違う。
その考えを、以前ほど恐ろしいとは感じなくなって いた。
美咲は、自分の変化に気づいていた。
それでも、止めることができなかった。
*
七日目。
倉庫の中には、異様な静けさが漂っていた。
美咲は椅子に縛りつけられたまま、俯いていた。
全身には無数の傷が刻まれている。
制服は血に染まり、身体はひどく衰弱していた。
しかし、佐伯はその姿を見て、満足そうに微笑んで いた。
「……驚きましたね」
彼は美咲の正面に腰を下ろした。
「ここまで耐えるとは、思っていませんでした」
美咲は顔を上げなかった。
「薬剤の効果も、私の予想を超えています。これほどの損傷を受けながら、まだ意識を保っている」
佐伯は興奮を隠せない様子だった。
「しかも、精神が完全に崩壊していない。素晴らしいことですよ」
美咲は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た瞬間、佐伯は言葉を止めた。
以前とは違っていた。
恐怖が完全に消えたわけではない。
悲しみも、苦痛も残っている。
だが、その奥にある憎悪は、もはや隠しようがないほど強くなっていた。
「……先生……」
美咲が呟いた。
「はい」
佐伯は穏やかに返事をした。
美咲はしばらく彼を見つめていた。
「……私……」
言葉が途切れた。
胸の奥で、何かが激しく脈打っている。
佐伯の顔を見る。
家族の最期を思い出す。
悠真の声が蘇る。
そして、目の前の男が笑っている。
美咲は唇を噛み締めた。
「……あなたを……」
声が震えた。
佐伯は身を乗り出した。
「私を?」
美咲は顔を上げた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
だが、今までのような命乞いの涙ではなかった。
「……殺してやる……」
佐伯の表情が変わった。
美咲は、はっきりと言った。
「……絶対に……殺してやる……!」
その瞬間、佐伯の口元が大きく吊り上がった。
「……ああ」
感嘆の声が漏れた。
「ようやく……」
佐伯は立ち上がった。
そして、美咲の瞳を覗き込んだ。
「ようやく、そこまで辿り着いたんですね」
美咲は佐伯を睨み続けた。
その目には、以前のような迷いがなかった。
目の前の男を殺したい。
その衝動が、恐怖よりも強くなっていた。
佐伯は声を上げて笑った。
「素晴らしい!」
倉庫の中に、笑い声が響いた。
「本当に素晴らしいですよ、美咲さん!」
彼は興奮した様子で歩き回った。
「私の薬剤が、ここまでの変化を引き起こすとは!」
しかし、すぐに足を止めた。
そして、再び美咲を見つめた。
「……いや、違いますね」
佐伯はゆっくりと首を振った。
「薬剤だけではありません」
その声には、純粋な感嘆が混じっていた。
「あなた自身が、素晴らしいんですよ」
美咲は何も答えなかった。
ただ、佐伯を睨み続けていた。
佐伯は嬉しそうに微笑んだ。
「私は、あなたの中にある狂気を見たいと思っていました」
彼は美咲の顔を覗き込んだ。
「ですが、まさかここまで美しい形で目覚めるとは……」
そのときだった。
倉庫の外から、車のエンジン音が聞こえた。
続いて、複数の足音。
「おい、誰かいるのか?」
男の声が響いた。
佐伯は壁の時計を見上げた。
「……おや」
予定していた時間だった。
管理会社による定期点検。
佐伯は机の上の道具を片づけ始めた。
美咲がかすかに顔を上げる。
外に人がいる。
助けが来たのかもしれない。
その瞬間、美咲の胸の奥に、わずかな希望が生まれ た。
「……たす……け……」
かすれた声だった。
佐伯はその様子を見て、静かに微笑んだ。
「助かりたいですか?」
美咲は答えなかった。
佐伯を睨みつけたまま、荒い呼吸を繰り返してい た。
「そうでしょうね」
佐伯は上着を羽織った。
「まだ死にたくない。ですが、私のことは殺したい」
その声には、楽しげな響きがあった。
「実に興味深いですね」
外から再び声がした。
「鍵が開いてるぞ!」
佐伯は裏手の通用口へ向かった。
そして、扉の前で振り返った。
「美咲さん」
その声は、かつて教室で聞いていた教師の声と何も 変わらなかった。
「今日の授業は、ここまでです」
美咲は顔を上げた。
佐伯は穏やかに微笑んでいた。
「あなたには、まだまだ可能性があります」
美咲は唇を震わせた。
「……絶対に……」
佐伯は楽しそうに目を細めた。
「ええ。わかっていますよ」
そして、静かに言った。
「いつか、私を殺しに来てください」
美咲の瞳が大きく見開かれた。
「そのとき、あなたがどこまで成長しているのか……楽しみにしています」
佐伯は裏口から姿を消した。
間もなく、倉庫の正面扉が開かれた。
中へ入った作業員が、床に広がる血を見て足を止め る。
そして、椅子に縛りつけられた少女の姿を発見し た。
「……何だ、これ……」
男の顔から血の気が引いた。
「おい! 誰か来てくれ!」
悲鳴にも似た叫び声が、倉庫に響き渡った。
美咲は、その声を遠くに聞いていた。
助かった。
そう思ったはずだった。
だが、胸の奥に残っていたのは、安堵だけではなか った。
佐伯の笑顔。
あの穏やかな声。
そして、最後に言われた言葉。
――いつか、私を殺しに来てください。
美咲はゆっくりと目を閉じた。
意識が遠のいていく。
その暗闇の中でも、佐伯への憎悪だけは消えなかっ た。
むしろ、身体の奥深くに刻み込まれたように、強く 残り続けていた。
少女の中で、何かが変わってしまった。
もう、以前の自分には戻れない。
そのことを、美咲自身もまだ理解していなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
佐伯を許す日は、決して来ない。
そして、その憎しみは、やがて彼女自身さえ想像し なかった形で解き放たれることになる。




