第四章 幸福への憎悪
東京都新宿区。
昼時には会社員や学生、買い物客で賑わう繁華街の一角が、異様な静けさに包まれていた。
大通りには何台ものパトカーが停車し、赤色灯が絶え間なく回転している。
黄色い規制線の向こうには、報道陣と野次馬が押し寄せていた。
その視線の先にあるのは、全国展開する大手ハンバーガーチェーンの店舗だった。
つい数時間前まで、そこは昼食を楽しむ人々の笑い声で溢れていた。
今、その店内に残されているのは、血と死体、そして凄惨な殺戮の痕跡だけだった。
死者十七名。
重軽傷者二十三名。
事件発生からわずか数分間で生み出された、信じがたい被害だった。
店内に足を踏み入れた若い鑑識官が、思わず立ち止まった。
「……なんだよ、これ……」
床一面に広がる血液。
倒れた椅子。ひっくり返ったテーブル。踏み潰されたハンバーガー。
赤く染まったトレーの上には、食べかけのポテトが散乱していた。
注文カウンターの手前には、制服姿の女性店員が倒れている。
彼女のすぐそばには、床に落ちた注文伝票があった。
奥の客席では、若い男女が折り重なるように倒れていた。
テーブルには飲みかけのジュースが二つ。
片方のストローには、まだ口紅の跡が残っている。
その隣の席では、幼い子供を庇うように倒れた女性が発見されていた。
子供は救急隊によって搬送されていたが、女性はすでに息絶えていた。
どの席にも、事件が起きる直前まで続いていた日常の痕跡が残っている。
それが、かえって現場の異常さを際立たせていた。
「うっ……!」
若い警察官が突然口元を押さえた。
慌てて店の外へ駆け出し、建物の脇で激しく嘔吐する。
別の女性警察官は、遺体のそばに落ちていた小さな子供用の靴を見つめたまま動けなくなっていた。
「……ひどい……こんなの……」
声が震え、目から涙がこぼれ落ちる。
その肩に、年配の警察官が静かに手を置いた。
「無理をするな。外で少し休んでこい」
「……すみません……」
女性警察官は何度も頭を下げ、涙を拭いながら店を出ていった。
現場を指揮する警視庁捜査一課の刑事、黒田誠司は、険しい表情で店内を見渡していた。
五十二歳。
二十年以上にわたり数々の殺人事件を担当してきたベテラン刑事だった。
だが、これほどの現場は初めてだった。
「……まるで戦場だな」
黒田が低く呟く。
隣に立つ若手刑事、三浦健太が、手にした資料へ視線を落とした。
「被害者のほとんどに刃物による損傷が確認されています。詳しい鑑定はこれからですが、傷の形状から見て、凶器は包丁の可能性が高いそうです」
「包丁だと?」
「はい。それも一種類ではなく、複数の刃物が使われた可能性があります」
黒田は眉間に深い皺を寄せた。
「……包丁で、十七人を殺して二十三人を負傷させたのか?」
「現時点では、そう考えられています」
「犯人は何人だ?」
三浦は一瞬、返答をためらった。
「……生存者の証言では、一人です」
「一人?」
「はい。白いウサギの被り物をした人物が、店内で突然人々を襲い始めたそうです」
黒田は信じられないという表情を浮かべた。
目の前に広がる惨状を、もう一度見渡す。
「冗談だろう……。銃でも使ったならまだしも、包丁を持った人間が一人で、これだけの人数を……」
言いかけて、黒田は口を閉じた。
現場に残された血痕は、店の入口から客席の奥まで広がっている。
犯人は一か所に留まって襲撃したわけではない。
店内を移動しながら、次々と人間を襲ったことが窺えた。
「……秋葉原の事件と同じ犯人か?」
黒田の問いに、三浦が頷いた。
「恐らくは。二日前の秋葉原の事件でも、ウサギの被り物をした人物が目撃されています」
「今回も同じ格好だったのか?」
「はい。複数の生存者が、白いウサギの被り物をした人物を目撃しています」
「顔は?」
「被り物で隠れていたため、確認できていません。体格から女性の可能性がありますが、身元は不明です」
黒田は黙り込んだ。
「秋葉原のときはナイフだったはずだな」
「そうです。今回は包丁が使われたとみられています」
「凶器を変えた理由は?」
「まだわかりません」
黒田は深く息を吐いた。
「……それにしても、どうやって逃げた?」
「犯人は事件後、店から立ち去ったとみられています。ただ、現在のところ、その後の足取りは掴めていません」
「これだけの騒ぎを起こして、誰にも捕まらずに消えたっていうのか」
「はい……」
黒田はしばらく沈黙した。
「生存者から話は聞けたか?」
「それが……」
三浦の表情が曇る。
「重傷者は現在も病院で治療中です。比較的軽傷だった方々も、強いショック状態にあります」
「一人も話せないのか?」
「断片的な証言はあります。ただ、犯人の動きについて尋ねると、皆さん混乱してしまって……」
三浦は手帳を開いた。
「ある男性は、犯人が突然目の前に現れたと証言しています。別の女性は、逃げようとしたときには、すでに出口に犯人が立っていたと……」
「……どういう意味だ?」
「わかりません。恐怖による記憶の混乱かもしれません」
黒田は腕を組んだ。
包丁を持った人物が一人。
それだけで四十人もの死傷者。
しかも、逃走経路すら掴めていない。
何もかもが常識から外れていた。
「秋葉原の事件との関連を洗い直せ。それから、被害者同士の関係も調べろ」
「はい」
「無差別殺人と決めつけるには、まだ早い」
黒田は店内の奥へ視線を向けた。
壁には、期間限定の新商品を宣伝する大きなポスターが貼られている。
満面の笑みを浮かべたモデルが、ハンバーガーを手にしていた。
その下には、乾き始めた血が飛び散っている。
「……いったい、何が目的なんだ」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
事件の報道は、瞬く間に全国へ広がった。
テレビ各局は通常の番組を中断し、現場からの中継を繰り返していた。
『本日午後、東京都新宿区のハンバーガー店で発生した無差別殺傷事件について、新たな情報が入りました』
画面には、規制線の張られた店舗と、慌ただしく出入りする警察官たちの姿が映し出されている。
『警視庁によりますと、これまでに十七人の死亡が確認され、二十三人が重軽傷を負っています。犯人は現在も逃走中です』
女性アナウンサーは緊張した表情で原稿を読み上げた。
『また、犯人は白いウサギの被り物をしていたとみられ、二日前に秋葉原で発生した殺人事件との関連が調べられています』
画面が切り替わり、専門家が険しい表情で語り始める。
『これだけの人数を短時間で襲撃したというのは、極めて異例です。現時点では犯行の動機も不明で、さらなる事件が発生する危険性も否定できません』
事件の影響は、現場周辺だけに留まらなかった。
近隣の小中学校では児童や生徒の安全を優先し、翌日からの臨時休校を決定。
周辺の商業施設では営業時間を短縮し、警備員を増員する動きが相次いだ。
保護者たちは子供の外出を控えさせ、駅前の人通りも普段より少なくなっていた。
警視庁は周辺地域の警戒を強化し、不審者に関する情報提供を呼びかけた。
しかし、犯人の所在は一向に掴めなかった。
その一方で、インターネット上では別の騒動が起きていた。
SNSに投稿された、事件直後の店舗周辺の映像。
救急車へ運ばれる負傷者。
泣き叫びながら現場から離れる人々。
そして、秋葉原の事件と今回の事件に共通する、白いウサギの被り物。
それらの情報が拡散される中、何者かが犯人に名前を付けた。
――ラビット。
その呼び名は、瞬く間に広まっていった。
『ラビットって秋葉原の犯人と同じやつ?』
『二日で二回も事件起こしてるのかよ』
『包丁二本で四十人も襲うとかあり得る?』
『まだ捕まってないの怖すぎる』
『次はどこに現れるんだ?』
恐怖を訴える者。
犯人の正体を推測する者。
不確かな情報を拡散する者。
中には事件を面白がり、ラビットの姿を模した画像を投稿する者まで現れていた。
だが、どれだけ騒ぎが大きくなっても、一つだけ明らかにならないことがあった。
犯人は、なぜ人を殺すのか。
秋葉原で殺された若者たちと、ハンバーガー店の被害者たち。
その間に、共通する接点は確認されていない。
金銭目的でもなければ、特定の人物を狙った犯行とも思えない。
何の前触れもなく現れ、人々を殺し、姿を消す。
その異常な行動は、日本中に底知れぬ恐怖を広げていた。
誰も知らなかった。
ラビットが人々を襲った理由が、あまりにも身勝手で、あまりにも深い絶望から生まれたものだったことを。
――事件発生の数時間前。
桜井美咲は、新宿の街を彷徨っていた。
秋葉原で三人の男を殺害してから、二日が経っていた。
その間、美咲はただ一人の男を探し続けていた。
佐伯直人。
かつて自分たちの担任教師だった男。
両親から信頼され、幼馴染の恋人である高橋悠真との結婚を後押ししてくれた男。
そして、愛する家族と悠真を目の前で殺し、自分を地獄へ突き落とした男。
もっとも、その名前すら本物ではなかった。
美咲が知っている佐伯直人は、他人の名前を奪った殺人鬼だった。
「……どこにいるの……」
美咲は俯いたまま歩いていた。
「……佐伯先生……」
声には、かつての教え子としての親しみなど微塵もなかった。
あるのは、憎悪だけだった。
何度も何度も、あの日の光景が頭の中で繰り返される。
倒れていく家族。
血に染まった部屋。
そして、二度と動かなくなった悠真。
「……悠真……」
名前を口にした途端、胸が締めつけられた。
もう一度会いたかった。
もう一度、声を聞きたかった。
いつものように笑いかけてほしかった。
だが、どれほど願っても、悠真は戻ってこない。
美咲は足を止めた。
周囲には、買い物を楽しむ若者たちがいた。
笑いながら歩く恋人同士。
子供の手を引く母親。
楽しそうに会話する学生たち。
誰もが当たり前のように、自分の日常を生きている。
その光景が、美咲には耐えられなかった。
――どうして?
美咲の唇が、微かに動いた。
――どうして、みんな笑っているの?
自分は、すべてを奪われた。
大切な家族も、愛する人も、未来も。
それなのに、目の前の人間たちは何も知らずに笑っている。
まるで、自分の悲しみなど存在しないかのように。
そのときだった。
通りの向こうにあるハンバーガー店が目に入った。
大きなガラス窓の向こうには、昼食を楽しむ人々の姿があった。
休日を楽しむ家族連れ。
友人同士で笑い合う学生たち。
ハンバーガーを頬張りながら、楽しそうに話す若い男女。
美咲は、吸い寄せられるように店へ近づいた。
そして、一組のカップルに目を留めた。
窓際の席に座る、制服姿の高校生くらいの男女だった。
少女がハンバーガーを一口食べ、口元についたソースを慌てて拭っている。
向かいの少年が、それを見て笑った。
少女は恥ずかしそうに頬を膨らませ、少年の肩を軽く叩く。
すると少年は、笑いながら自分のポテトを少女の前へ差し出した。
二人は顔を見合わせ、また笑った。
その何気ない光景に、美咲の呼吸が止まった。
――悠真……。
かつて、自分たちもそうだった。
学校帰りに寄り道をして、くだらないことで笑い合った。
悠真はいつも、自分が美味しそうに食べる姿を嬉しそうに見ていた。
『美咲って、本当に幸せそうに食べるよな』
『だって美味しいんだもん』
『じゃあ、俺のも食べる?』
『いいの?』
『美咲が喜ぶなら、いいよ』
そんな会話を、何度交わしただろう。
特別なことなど何もなかった。
ただ一緒にいるだけで、幸せだった。
美咲の目から涙がこぼれた。
「……なんで……」
窓の向こうでは、少年が少女の手を握っていた。
少女は嬉しそうに微笑んでいる。
「……なんで……そこにいるのが……」
美咲の声が震える。
「……私と悠真じゃないの……?」
涙が頬を伝った。
胸の奥から、抑えようのない感情が込み上げてくる。
悲しみ。
絶望。
嫉妬。
そして、激しい怒り。
――どうして、あんたたちは幸せなの?
――どうして、私だけがこんな目に遭わなきゃいけないの?
――私と悠真は、何も悪いことなんてしていないのに。
美咲は窓の向こうの二人を睨みつけた。
少年が少女の頭を優しく撫でている。
その瞬間、美咲の中で何かが壊れた。
「……許さない……」
声は小さかった。
だが、その目からは、先ほどまでの悲しみが消えていた。
「……私から全部奪っておいて……」
美咲の思考は、もはや正常ではなかった。
目の前の人間たちが、自分から何かを奪ったわけではない。
そんなことは、どこかで理解していた。
それでも許せなかった。
自分の世界は終わったのに、他人の世界だけが何事もなかったように続いている。
それが、どうしても許せなかった。
「……みんな……」
美咲はゆっくりとバッグを開いた。
中から取り出したのは、白いウサギの被り物だった。
悠真が買ってくれた、大切な贈り物。
かつては、それを被るだけで悠真が喜んでくれた。
美咲も、そんな悠真を見るのが嬉しかった。
今はもう、悠真の笑顔を見ることはできない。
美咲はウサギの被り物を見つめた。
「……悠真……」
涙が一滴、白いウサギの頬に落ちた。
「……みんな、幸せそうだよ……」
美咲はゆっくりと被り物を頭に被せた。
視界が、ウサギの目の穴を通した狭いものへ変わる。
そして、バッグの中から二本の包丁を取り出した。
両手に一本ずつ握る。
白いウサギの顔が、ガラス窓の向こうへ向けられた。
「……お前らだけが……」
ウサギの被り物の奥で、美咲の唇が歪んだ。
「……幸せなんて……許せない……」
そして、店の入口へ歩き始めた。
午後十二時十八分。
店内は、昼食を求める客で混雑していた。
注文カウンターには長い列ができ、客席もほとんど埋まっている。
店員たちは次々と入る注文を処理し、慌ただしく動き回っていた。
「いらっしゃいませ!」
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「こちらでお召し上がりですか?」
明るい声が飛び交う。
その中へ、一匹の白いウサギが入ってきた。
ラビットだった。
だが、誰も気に留めなかった。
客たちは目の前の食事や会話に夢中になっていた。
友人との話に笑い、スマートフォンを眺め、ハンバーガーを頬張っている。
入口に立つ異様な存在に、誰一人として注意を払わなかった。
最初に気づいたのは、カウンター付近にいた若い女性店員だった。
彼女はラビットの姿を見て、不思議そうに首を傾げた。
白いウサギの被り物。
両手を下げたまま、無言で立ち尽くしている。
店員は少し戸惑った。
何かのイベントだろうか。
それとも、悪ふざけをしている客なのだろうか。
秋葉原で起きた事件のことは、ニュースで見聞きしていた。
だが、目の前の人物がその犯人だとは、思いもしなかった。
「あの……お客様?」
店員は接客用の笑顔を浮かべ、ラビットへ近づいた。
「申し訳ありませんが、店内では被り物を――」
言葉が途切れた。
一瞬だった。
ラビットの右腕が動いた。
次の瞬間、女性店員の首元に赤い線が走った。
「……え?」
店員は何が起きたのかわからない様子で、自分の首に手を当てた。
指の間から血が溢れ出す。
直後、勢いよく噴き出した血液がカウンターと床を赤く染めた。
店員は声を出そうとしたが、言葉にならなかった。
膝が折れ、そのまま床へ崩れ落ちる。
近くにいた男性客の顔に、生温かい血が降りかかった。
「……は?」
男性は呆然と立ち尽くした。
頬に付着した赤い液体を指で拭う。
それが血だと理解するまで、数秒かかった。
「う……うわあああああっ!」
絶叫が店内に響き渡った。
周囲の客たちが一斉に振り向く。
その瞬間、ラビットの左腕が動いた。
男性の顔面を包丁が斬り裂いた。
「ぎゃああああっ!」
男性は顔を押さえ、悲鳴を上げながら倒れた。
床に血が飛び散る。
誰かが叫んだ。
「人が刺された!」
別の客が立ち上がる。
「逃げろ!」
その言葉をきっかけに、店内は一瞬で地獄へ変わった。
悲鳴が悲鳴を呼び、客たちが一斉に立ち上がった。
椅子が倒れる。
テーブルがひっくり返る。
飲み物が床にこぼれ、トレーが宙を舞った。
ラビットは、その混乱の中で動き始めた。
右手の包丁が閃く。
逃げようと背を向けた男が、悲鳴を上げて倒れた。
左手の包丁が振り抜かれる。
近くにいた女性が肩を押さえ、床へ崩れ落ちる。
「やめて! お願い!」
泣き叫ぶ声。
「誰か警察を呼べ!」
「出口! 出口へ!」
ラビットは止まらなかった。
その動きは、人間の限界を遥かに超えていた。
目で追うことさえ難しい速度で客席の間を駆け抜け、次々と人間を襲っていく。
悲鳴が上がったときには、すでに別の場所へ移動している。
客たちは何が起きているのか理解できなかった。
ただ、白いウサギが動くたびに誰かが倒れていく。
それだけはわかった。
「くそっ! ふざけんな!」
体格のいい男性客が、倒れた椅子を持ち上げた。
ラビットが近づいてくる。
「来るなあああっ!」
男は椅子を振り回した。
だが、椅子は空を切った。
「……え?」
次の瞬間、男の身体が宙に浮いた。
ラビットが片腕で男を掴み、信じられない力で投げ飛ばしたのだ。
男の身体はテーブルを巻き込みながら床へ叩きつけられた。
「がっ……!」
息を詰まらせた男の前に、ラビットが立つ。
男は必死に後ずさった。
「ま、待て……!」
だが、ラビットは聞かなかった。
包丁が男の胸へ突き立てられる。
男の身体が大きく跳ね、そのまま動かなくなった。
周囲から悲鳴が上がった。
ラビットはゆっくりと顔を上げた。
白いウサギの目が、逃げ惑う人々を見つめる。
「……お前らだけが……」
被り物の奥から、低い声が漏れた。
「……幸せなんて……」
ラビットの肩が小刻みに震えた。
笑っているのか、泣いているのか。
誰にもわからなかった。
「……許せない……」
そして、突然叫んだ。
「全員死ねえええええっ!」
ラビットが再び駆け出した。
出口には、数十人の客が殺到していた。
「押すな!」
「早く開けろ!」
「助けて!」
人々は互いに押し合い、我先にと逃げようとしていた。
だが、ラビットはその集団へ向かって一直線に突進した。
あまりにも速かった。
誰かが白い影に気づいたときには、すでに目の前に迫っていた。
両手の包丁が次々と振るわれる。
悲鳴。
怒号。
倒れる人々。
逃げようとした男が背中を斬られ、床へ倒れ込んだ。
別の女性が転倒し、這うように出口へ向かう。
そのすぐ横を、ラビットが駆け抜けていった。
店内は完全な混乱状態に陥っていた。
誰が生きていて、誰が死んでいるのか。
誰が助けを求め、誰が逃げようとしているのか。
もはや、誰にもわからなかった。
そのとき、ラビットの視線が窓際の席へ向いた。
先ほどの学生カップルだった。
少年は少女の手を握り、必死に出口を探していた。
「大丈夫! 俺が守るから!」
少年が叫ぶ。
「絶対に離さないから!」
その言葉を聞いた瞬間、ラビットの動きが止まった。
――俺が守るから。
悠真の声が、頭の中に響いた。
いつか、自分に向けられた言葉。
何があっても守ると約束してくれた、大切な人の声。
「……悠真……?」
ラビットは、少年を見つめた。
少年は少女を背後に庇い、震えながら立っていた。
「く、来るな……!」
その姿が、悠真と重なった。
美咲の胸に、激しい痛みが走る。
――違う。
――悠真じゃない。
――悠真は、もういない。
少年が少女を守ろうとする姿が、たまらなく憎かった。
どうして、この少女には守ってくれる人がいるのか。
どうして、自分にはもう誰もいないのか。
「……返して……」
ラビットが呟いた。
少年は意味がわからず、ただ後ずさった。
「……私の悠真を……」
ラビットの声が震える。
「……返してよおおおおっ!」
白いウサギが飛びかかった。
少年は少女を突き飛ばし、逃がそうとした。
「逃げろ!」
その直後、包丁が振り下ろされた。
少年は床へ崩れ落ちた。
「いやああああっ!」
少女の絶叫が響いた。
少女は倒れた少年に駆け寄ろうとした。
だが、その前にラビットが立ちはだかった。
「お願い……! お願いだから……!」
少女は泣きながら首を振った。
「助けて……! 私たち、何もしてない……!」
ラビットは少女を見下ろした。
――何もしていない。
その言葉が、美咲の胸に突き刺さった。
自分だって、何もしていなかった。
悠真だって、何も悪いことなどしていなかった。
それなのに、すべてを奪われた。
「……私だって……」
ラビットが小さく呟く。
「……何もしてなかった……」
少女は涙を流しながら後ずさった。
「……お願い……」
ラビットの両手が、ゆっくりと持ち上がった。
「……なのに……」
白いウサギの奥から、押し殺したような声が漏れる。
「……どうして私だけ……?」
少女の悲鳴が響いた。
そして、その声も途絶えた。
数分後。
店内から、悲鳴が消えた。
ラビットは血に染まった床の中央に立っていた。
周囲には、倒れた人々がいる。
動かない者。
微かに呻き声を上げる者。
テーブルの陰で息を潜め、必死に恐怖に耐える者。
店内の至るところに血が広がり、壁や窓ガラスにも赤い飛沫が残されていた。
ラビットの両手から、血が滴り落ちる。
そのとき、床に落ちた一つのハンバーガーが目に入った。
包み紙から半分ほど飛び出した、食べかけのハンバーガー。
美咲は、それをじっと見つめた。
ほんの少し前まで、ここにいた人々は笑っていた。
食事を楽しみ、友人と話し、恋人と微笑み合っていた。
今は、誰も笑っていない。
それなのに。
「……なんで……」
ラビットは呟いた。
何も変わらなかった。
あれほど憎かった人々を殺しても、胸の奥に渦巻く感情は少しも収まらない。
むしろ、何かがますます大きくなっていくようだった。
美咲の脳裏に、悠真の笑顔が浮かんだ。
いつも優しく笑いかけてくれた、大切な人。
続いて、家族と過ごした何気ない日々が蘇る。
だが、その光景は長く続かなかった。
幸せだった記憶が、次々と血に染まっていく。
笑顔が消え、声が途絶え、最後にはあの日の惨劇だけが残った。
そして、その中心に立っていた男。
佐伯直人。
「……佐伯……」
美咲の唇が、ゆっくりと歪んだ。
先ほどまで胸を締めつけていた悲しみが、別の感情に塗り潰されていく。
悠真の笑顔を思い出そうとしても、浮かんでくるのは佐伯の顔だった。
家族の声を思い出そうとしても、耳の奥に蘇るのは、あの男の声だった。
もう、幸せだった頃のことなど考えられなかった。
考えたくもなかった。
ただ、憎かった。
佐伯が。
あの男が、この世のどこかで生きていることが。
「……殺す……」
被り物の奥から、低い声が漏れた。
「……絶対に……殺してやる……」
美咲の両手が、包丁の柄を強く握り締めた。
指先に力が入り、腕が小刻みに震える。
その目には、もう涙はなかった。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
警察だろうか。
救急車だろうか。
美咲には、どうでもよかった。
目の前に広がる惨状にも、倒れている人々にも、何の関心もなかった。
頭の中を埋め尽くしているのは、ただ一人の男の存在だけだった。
「……佐伯直人……」
美咲はゆっくりと顔を上げた。
「……見つけたら……絶対に逃がさない……」
白いウサギが、血に染まった床を歩き始める。
「……どこに隠れてても……必ず見つけ出して……」
入口の前で、足を止めた。
被り物の奥で、美咲は静かに笑った。
「……殺してやる……」
そして、誰にも止められることなく店を出ていった。
残された店内には、助けを求める微かな呻き声だけが響いていた。
こうして、秋葉原の事件からわずか二日後。
十七人が死亡し、二十三人が重軽傷を負う、新たな惨劇が起きた。
人々は、白いウサギの被り物をした殺人鬼を恐れた。
警察は、その正体と動機を追い始めた。
そして、SNSでは一つの名前が広まり続けていた。
――ラビット。
だが、その名前を知る者はいても、白いウサギの内側で何が壊れ、何が生まれようとしているのかを知る者は、まだ誰もいなかった。




