第三章 狂気の目覚め
一週間後
東京都内の廃倉庫で、一人の少女が発見された。
発見した作業員は、当初それが人間だと認識できなかったという。
床に横たわっていた少女は、全身に深刻な外傷を負い、意識を失っていた。
救急搬送された病院では、医師たちがその状態に言葉を失った。
幾度も傷つけられた皮膚。
長期間にわたり拘束されていた痕跡。
衰弱した身体。
そして、全身に刻まれた無数の傷。
腕、肩、背中、腹部、脚。
衣服に隠れる部分を中心に、何度も繰り返し傷つけられた痕跡が残っていた。
しかし、奇妙なことに、少女の顔には傷一つなかった。
長い黒髪に縁取られた整った顔立ちは、事件前の美しさをそのまま保っていた。
複数の医師による長時間の手術が行われた。
生命維持の処置、損傷組織の修復、感染症への対応。
何度も手術が繰り返され、全身に施された縫合は、累計で数千針に及んだ。
命は取り留めたものの、身体には生涯消えることのない傷跡が残ると考えられた。
少女の名は、桜井美咲。
十八歳。
卒業式の日に発生した一家惨殺事件の、唯一の生存者だった。
警察は捜査上の理由と被害者保護のため、彼女の生存について報道機関に公表しなかった。
事件は、凶悪な一家殺害事件として連日報じられた。
だが、世間は知らなかった。
その事件の裏で、一人の少女が今も地獄を生き続けていることを。
偽りの教師
美咲が保護されてから、数週間が経過した頃。
警視庁の一室では、桜井家一家惨殺事件に関する捜査会議が開かれていた。
壁には被害者たちの写真が並び、その中央には、一人の男の顔写真が貼られていた。
佐伯直人。
四十二歳。
都内の高校で三年生の担任を務めていた教師。
事件当日、桜井家の卒業祝いに招待されていた人物であり、現在は行方がわからなくなっていた。
捜査主任の黒田は、机の上に積まれた資料を見つめながら眉間に皺を寄せた。
「……それで、佐伯の足取りは?」
低い声で尋ねると、若い刑事が立ち上がった。
「事件当日以降、確認できていません。自宅にも戻っておらず、銀行口座や通信記録にも目立った動きはありません」
黒田は腕を組んだ。
「家族や知人は?」
「連絡を取っていた人物は複数確認できています。ただ、妙なことがわかりました」
刑事は手元の資料を開き、少しためらうように続けた。
「佐伯直人は、以前にも一度失踪しています。現在の学校に赴任する前のことです」
黒田は顔を上げた。
「失踪?」
予想外の報告に、眉間の皺が深くなった。
「はい。家族から失踪届が出されていました。しかし、その後、本人のアカウントからLINEやメールで連絡が入るようになり、家族は無事だと信じていたようです」
黒田は資料に目を落とした。
「……それで?」
「その後も定期的にやり取りは続いていましたが、直接会った人物が極端に少ないんです」
黒田は怪訝そうに顔をしかめた。
「それだけなら、別におかしくはないだろう」
「はい。ですが、学校に提出されていた書類を過去の記録と照合したところ、顔写真や身元に関する情報の一部が一致しませんでした」
刑事は一枚の写真を机に置いた。
そこには、眼鏡をかけた中年男性が写っていた。
学校で撮影された佐伯とは、明らかに顔立ちが違っていた。
「こちらが、失踪前の佐伯直人です」
黒田は写真を手に取り、壁に貼られた写真と見比べた。
「……別人じゃないか」
その声には、驚きと警戒が入り混じっていた。
「はい。学校に勤務していた男は、佐伯直人になりすましていた可能性が極めて高いです」
室内が静まり返った。
刑事は緊張した面持ちで説明を続けた。
「教員免許状や履歴書など、採用に必要な書類は揃っていました。どうやら本人の身分を利用し、長い時間をかけて準備していたようです」
黒田は険しい顔で問い返した。
「家族は気づかなかったのか?」
「本人のアカウントから連絡が届き、家族しか知らないようなことも把握していたため、疑わなかったようです」
黒田は二枚の写真を見比べながら、深く息を吐いた。
「……本人の生活や家族関係まで調べ上げていたということか」
「その可能性が高いです」
黒田はしばらく黙っていた。
そして、壁に貼られた佐伯の写真を見つめた。
生徒たちに囲まれ、穏やかに微笑んでいる男。
その姿からは、一家を惨殺するような人物には到底見えなかった。
「……恐ろしい男だな」
黒田は低い声で呟いた。
「他人の人生を奪って、何食わぬ顔で教師を続けていたわけか」
若い刑事は頷いた。
「学校側の話では、非常に評判の良い教師だったそうです。生徒からの信頼も厚く、保護者との関係も良好でした」
「本物の佐伯がどうなったのかは?」
黒田が問いかけると、刑事は悔しそうに首を横に振った。
「まだわかっていません。生死も含めて捜査中です」
黒田は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
本物の佐伯はどこへ消えたのか。
なぜ、別人がその身分を奪ったのか。
そして、何のために教師となり、桜井美咲へ近づいたのか。
いずれも、答えは出ていなかった。
「……つまり、あの学校には最初から佐伯直人なんて教師はいなかったわけか」
黒田の呟きに、誰も答えなかった。
彼は壁に貼られた写真を見つめながら、静かに口を開いた。
「こいつは、いったい何者なんだ?」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
失われた日常
病室には、機械の規則的な電子音が響いていた。
美咲はベッドに横たわり、白い天井を見つめていた。
意識が戻ってから、すでに何日も経っていた。
最初に感じたのは、痛みだった。
腕が痛い。
背中が痛い。
脚が痛い。
息をするだけで胸が疼き、少し身体を動かせば、縫合された皮膚が引きつった。
鎮痛薬を投与されても、痛みが完全に消えることはなかった。
眠っている間だけが救いだった。
しかし、眠れば夢を見る。
卒業式の校庭。
笑っている悠真。
左手に指輪をはめてくれた、あの瞬間。
『これからもよろしく』
夢の中の悠真が笑う。
美咲も笑い返す。
だが、次の瞬間には、あの和室が現れる。
血の臭い。
倒れた椅子。
床に転がる皿。
そして、佐伯の声。
『美味しいですか?』
「……っ!」
美咲は飛び起きようとした。
身体に激痛が走り、声にならない悲鳴が漏れた。
心拍数が急激に上昇し、監視装置の警告音が鳴った。
看護師が駆けつける。
「桜井さん! 大丈夫ですか!」
心配そうに顔を覗き込まれたが、美咲は何も答えられなかった。
ただ、震える手を自分の顔へ伸ばした。
頬に触れる。
唇に触れる。
顔には、何の傷もなかった。
だが、布団の下に隠された身体には、数えきれないほどの傷が刻まれていた。
美咲は鏡を見せてほしいと頼んだ。
看護師が手鏡を渡すと、彼女は恐る恐る自分の顔を覗き込んだ。
そこには、以前と変わらない少女が映っていた。
長い黒髪。
整った目鼻立ち。
十八歳の、美しい顔。
「…………」
美咲は鏡を見つめたまま動かなかった。
顔は、何も変わっていない。
それなのに、鏡の中の少女が自分とは思えなかった。
あの家で何が起きたのか。
あの一週間、自分が何をされたのか。
すべてを覚えている。
美咲は震える手で病衣の袖をめくった。
そこには、無数の縫合痕があった。
さらに襟元から覗く胸元にも、傷跡が続いていた。
鏡の中の顔と、傷だらけの身体。
まるで、別々の人間を無理やりつなぎ合わせたようだった。
「……どうして」
美咲の唇が震えた。
「どうして……顔だけ……」
そのとき、あの男の声が蘇った。
『本当に素晴らしい女性です』
佐伯は、自分の顔を気に入っていた。
だから傷つけなかったのだろうか。
それとも、何か別の理由があったのだろうか。
美咲にはわからなかった。
ただ、鏡の中に映る美しい顔が、あの男に残されたもののように思えてならなかった。
美咲は鏡を伏せた。
もう、見たくなかった。
ふと、左手に目を落とした。
そこには、悠真からもらった指輪がなかった。
手術の際に外され、病院で保管されていた。
その事実を知ったとき、美咲は初めて激しく泣いた。
「……返して」
かすれた声だった。
看護師が驚いて顔を上げると、美咲は涙を溢れさせながら訴えた。
「指輪……返して……」
看護師は事情を説明し、落ち着かせようとした。
だが、美咲は子供のように泣きじゃくった。
「悠真が……くれたの……」
泣きながら身体を震わせるたび、傷跡が引きつり、激しい痛みが走った。
それでも泣くことを止められなかった。
「悠真ぁ……!」
その日、美咲は返してもらった指輪を胸に抱いたまま、何時間も泣き続けた。
月日が経っても、痛みは消えなかった。
傷口が塞がっても、神経が損傷した部分には焼けつくような痛みが残った。
服が肌に擦れるだけで痛むこともあった。
入浴の際には、自分の身体を見るたびに吐き気を催した。
医師からは、長期的な治療とリハビリが必要だと告げられた。
だが、身体の傷以上に、美咲を苦しめたのは記憶だった。
父の声。
母の料理。
悠真の笑顔。
思い出すたびに、胸の奥が抉られるように痛んだ。
リハビリが始まってからも、彼女は何度も立ち止まった。
歩行訓練で廊下を進む途中、ふいに悠真の声を思い出して膝を折ることがあった。
食事の匂いに吐き気を催し、皿を遠ざけてしまう日もあった。
それでも、少しずつ身体は動くようになっていった。
医師や看護師たちは、その回復を喜んだ。
だが、美咲の心が何を求めているのか、誰にもわからなかった。
ある夜。
美咲は窓の外を見つめていた。
遠くに東京の夜景が広がっている。
どこかの家では、家族が夕食を囲んでいるのだろう。
どこかの恋人たちは、明日の約束をしているのだろう。
自分にも、そんな未来があった。
大学へ通い、悠真と暮らし、いつか子供が生まれる。
休日には両親を招いて、みんなで食事をする。
そんな、ごく普通の幸せ。
すべて奪われた。
たった一人の男に。
「……佐伯」
美咲は小さく呟いた。
その名前を口にした瞬間、胸の奥から激しい怒りが込み上げた。
なぜ。
なぜ、あいつは自分を生かしたのか。
なぜ、みんなを殺したのか。
なぜ、自分だけがここにいるのか。
答えはわかっていた。
『あなたの中にある狂気が見たくなった』
あの男は、そう言った。
美咲はゆっくりと両手を握り締めた。
爪が掌に食い込む。
痛みが走った。
だが、手を緩めなかった。
「……殺す」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「絶対に……殺す」
涙が頬を伝った。
身体の傷が疼いた。
それでも、美咲は呟き続けた。
「殺す……殺す……」
やがて、その声に奇妙な笑いが混じり始めた。
「……ふふ」
美咲は自分でも驚いた。
笑っている。
家族を失い、愛する人を失い、未来を失った自分が。
「ふ……ふふふ……」
笑いが止まらなかった。
悲しみが消えたわけではない。
恐怖を克服したわけでもない。
むしろ、そのすべてが限界まで膨れ上がり、心の中 で何かが切れてしまったようだった。
もう、大学へ行きたいとは思わなかった。
幸せになりたいとも思わなかった。
生きていたいのかどうかさえ、わからなかった。
ただ一つ。
佐伯直人を殺す。
それだけが、彼女を生かしていた。
窓ガラスに、自分の顔が映った。
事件前と変わらない、美しい少女の顔。
美咲はその顔を見つめた。
「……あは」
笑った。
涙を流しながら。
痛みに震えながら。
そして、静かに呟いた。
「先生……」
ガラスに映る自分へ、語りかけるように。
「今度は……私の番だよ」
笑う少女
警察は何度も美咲への事情聴取を試みた。
犯人の特徴。
事件当日の状況。
監禁されていた場所。
犯人が口にした言葉。
だが、美咲は何も答えなかった。
椅子に座り、ただ笑っているだけだった。
「桜井さん。佐伯直人について、何か覚えていることはありませんか?」
刑事はできるだけ穏やかな声で尋ねた。
美咲は俯いたまま、何も答えなかった。
「彼は現在、行方がわかっていません。どんな些細なことでも構いません」
刑事が言葉を重ねると、美咲の肩が小さく震えた。
「……ふふ」
笑っていた。
刑事は困惑した表情で同僚を見た。
「桜井さん?」
美咲はゆっくり顔を上げた。
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
「……ふふふ」
笑い声だけが、静かな部屋に不自然なほど響いた。
別の日には、女性刑事が担当した。
時間をかけて信頼関係を築こうとし、無理に事件の話を聞き出すことは避けた。
それでも、美咲は笑うだけだった。
やがて捜査員たちは、彼女への聴取を一時中断することにした。
深刻な心的外傷があると判断され、精神科医による治療が優先された。
それから、さらに数か月が過ぎた。
美咲の身体は、長い治療とリハビリによって少しずつ回復していた。
大きな傷は塞がり、歩行にも支障がなくなっていた。体力は以前と比べて大きく落ちていたが、日常生活に必要な動作はほぼ自分で行えるようになっていた。
それでも、身体に残った傷跡は消えなかった。
服を着ていれば、外見からはほとんどわからない。
病院の廊下を歩く彼女は、誰が見ても普通の美しい少女だった。
以前は拒んでいた食事を口にするようになり、リハビリにも積極的に取り組むようになった。
看護師が声をかければ、短い返事をする。
医師の説明にも頷き、時には自分から体調を伝えることさえあった。
周囲は、それを回復の兆しだと受け止めた。
だが、美咲の心の中で何が変わり始めているのか、誰にもわからなかった。
美咲は、もう泣かなかった。
佐伯の名前を口にすることもなくなった。
ただ、時折小さく笑っていた。
そして、ある深夜。
病院から、一人の患者が姿を消した。
巡回中の看護師が病室を訪れたとき、ベッドは空になっていた。
窓は閉まっていた。
患者用の衣服だけが残されていた。
さらに、医療器具の管理記録を確認した結果、小型の手術用メスが一本なくなっていることが判明した。
警察は直ちに捜索を開始した。
だが、美咲の姿は見つからなかった。
思い出のウサギ
その頃。
美咲は、かつて家族と暮らしていた自宅の前に立っていた。
事件から数か月が経過した桜井家は、以前の面影を残したまま、ひっそりと静まり返っていた。
美咲はしばらく玄関を見つめていた。
ここには、もう誰もいない。
わかっているはずなのに、扉を開ければ母が迎えてくれるような気がした。
父がリビングでテレビを見ているかもしれない。
悠真が先に来て、いつものように笑っているかもしれない。
そんなはずがないとわかっていても、期待してしまう自分がいた。
美咲は震える手で鍵を取り出し、ゆっくりと玄関の扉を開けた。
「……ただいま」
かすれた声が、暗い廊下に響いた。
返事はなかった。
美咲は靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下を進んだ。
リビングには、もう誰もいなかった。
あの日、家族のために用意されていた料理も、倒れた椅子も、すべて片づけられている。
美咲はテーブルの前で立ち止まった。
ここで、自分は笑っていた。
料理を食べながら、佐伯にお礼まで言っていた。
その記憶が蘇った瞬間、胃の奥が激しく痙攣した。
「……っ」
美咲は口元を押さえ、壁に手をついた。
吐き気を堪えながら、閉じられた和室の襖へ目を向ける。
あの向こうに、みんながいた。
お父さんも。
お母さんも。
悠真も。
美咲の目から、涙がこぼれた。
しかし、彼女は和室へ近づかなかった。
ただ、震える足を引きずるようにして階段を上がり、自室へ向かった。
部屋の扉を開ける。
机。
本棚。
ベッド。
壁に飾られた、悠真との写真。
何もかもが懐かしかった。
美咲はゆっくりと部屋を見渡した。
事件前とほとんど変わらない光景。
それが、かえって苦しかった。
自分だけが、あの日から取り残されている。
美咲は棚の上に置かれた写真立てを手に取った。
そこには、笑顔の悠真が写っていた。
「……悠真」
指先で、写真の中の彼の頬を撫でる。
胸の奥が締めつけられた。
「私ね……もう、泣かないことにしたんだ」
声が震えていた。
けれど、美咲は無理やり笑みを作った。
「だって、悠真……私が泣いてると、いつも困った顔してたもんね」
写真の中の悠真は、変わらず笑っていた。
その笑顔を見ていると、今にも返事が聞こえてきそうだった。
美咲は写真立てを胸に抱き締めた。
「……会いたいよ」
小さな声が漏れた。
「悠真に……会いたい……」
しばらくそのまま動かなかった。
やがて、写真立てを元の場所へ戻そうとしたとき、棚の隅に置かれた白いものが目に入った。
長く垂れた耳。
丸い黒い目。
愛嬌のある小さな口。
悠真が買ってくれた、ウサギの被り物だった。
「……あ」
美咲はそっと手を伸ばした。
柔らかな白い毛並みに触れた瞬間、あの日の記憶が蘇った。
『じゃあ、俺が買ってやるよ』
『やった! 大事にするね!』
『大げさだなあ』
悠真の笑い声が、耳の奥に響いた気がした。
美咲は被り物を抱き締めた。
「……覚えてる?」
写真の中の悠真へ、嬉しそうに語りかける。
「これ、悠真が買ってくれたんだよ」
少し考えたあと、彼女は小さく首を傾げた。
「……そうだ」
美咲の顔に、久しぶりに無邪気な笑みが浮かんだ。
「これを被ったら……悠真、喜んでくれるかな?」
彼女はゆっくりと、白いウサギを頭にかぶった。
鏡の前に立つ。
そこには、長い耳を垂らした可愛らしいウサギがいた。
美咲は両手で耳を持ち上げ、かつて悠真に見せたときと同じポーズを取った。
「……ぴょん」
静まり返った部屋に、小さな声が響いた。
美咲は鏡を見つめたまま、しばらく動かなかった。
あの日、悠真は笑ってくれた。
自分がこのウサギを被ると、いつも楽しそうに笑ってくれた。
ならば、今も。
「……ふふ」
被り物の中で、小さな笑いが漏れた。
「悠真……笑ってくれた?」
もちろん、返事はなかった。
それでも美咲は、鏡の中のウサギを見つめながら嬉しそうに頷いた。
「……よかった」
その声は、どこか幼い少女のようだった。
「じゃあ、これからも……一緒だね」
美咲は写真立てを元の場所へ戻し、白いウサギのまま部屋を出た。
その夜。
東京の街に、一匹の白いウサギが現れた。
秋葉原――深夜
秋葉原の街は、深夜になっても完全には眠らない。
中央通り沿いの大型店舗はシャッターを下ろし、昼間の喧騒は消えていたが、裏通りにはまだ営業を続ける飲食店やバーの明かりが残っていた。
ビルの壁面にはアニメキャラクターの巨大な広告が掲げられ、色鮮やかな看板が夜の街を照らしている。
駅周辺には仕事帰りの会社員や、飲み会を終えた若者たちの姿があった。
その人混みの中を、奇妙な人物が歩いていた。
白いウサギ。
長い耳。
丸い黒い目。
薄い上着を羽織り、ゆっくりと歩いている。
周囲の人々は一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味を失った。
秋葉原では、奇抜な服装をした人間も珍しくない。
誰も、その被り物の下にどんな少女がいるのか知ら なかった。
美咲は歩き続けていた。
佐伯を探して。
どこにいるのか、見当もつかなかった。
警察がまだ捕まえていないことだけは知っていた。
あの男は、今もどこかで生きている。
笑っているのかもしれない。
また誰かを騙しているのかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥が熱くなった。
「……先生」
被り物の中で、小さく呟く。
「どこにいるの?」
そのときだった。
「おいおい、なんだあれ!」
背後から、酔った男の笑い声が聞こえた。
振り返ると、二十歳前後の若者が三人、こちらを見ていた。
いずれも顔を赤くし、足元がおぼつかない。
「ウサギじゃん!」
一人が腹を抱えて笑った。
「こんな時間に何やってんだよ!」
別の男も面白がるように近づいてきた。
そのうちの一人が、美咲の前へ回り込んだ。
「ねえねえ、写真撮っていい?」
馴れ馴れしい声だった。
美咲は何も答えず、横を通り過ぎようとした。
「おい、無視かよ」
男が腕を伸ばす。
美咲はそれを避けた。
「なんだこいつ。感じ悪っ」
別の男が笑った。
「中身、女じゃね?」
「マジ? ちょっと顔見せてよ」
美咲は歩く速度を上げた。
しかし、男たちは後を追ってきた。
「おい、待てって!」
肩を掴まれた。
美咲は立ち止まった。
「……離して」
被り物の中から、かすれた声が聞こえた。
男たちは顔を見合わせた。
「やっぱ女じゃん!」
「なんだよ、声かわいいじゃん」
最初の男が、ふざけた調子でウサギの耳を引っ張っ た。
「顔見せろよ!」
美咲は男の手を払いのけようとした。
だが、次の瞬間。
男が強引に被り物を持ち上げた。
白いウサギの頭が外れる。
街灯の下に、美咲の顔が現れた。
「…………」
男の笑顔が消えた。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
整った目鼻立ち。
街灯に照らされた少女は、思わず見惚れてしまうほど美しかった。
「……え?」
男が目を瞬かせた。
「ちょっと待て……めちゃくちゃ可愛くね?」
別の男も顔を覗き込んだ。
「うわ、マジじゃん!」
「なんだよ! こんな可愛い子が入ってたのかよ!」
三人の態度が一変した。
先ほどまで馬鹿にしていた男たちが、今度は馴れ馴 れしい笑みを浮かべ始めた。
「ねえ、何歳?」
「一人? こんな時間に?」
「俺らと飲みに行かない?」
美咲は何も答えなかった。
ただ、男の手に握られた白いウサギを見つめてい た。
「……返して」
声は小さかったが、その響きには冷たいものがあった。
「え?」
男は聞き返した。
「私の……ウサギ」
男は被り物を見下ろし、笑った。
「ああ、これ? いいじゃん、ちょっとくらい」
そう言って、もう一度ウサギの耳を引っ張った。
美咲の指先が、ぴくりと動いた。
『大事にするね!』
あの日、自分が言った言葉。
『大げさだなあ』
笑っていた悠真。
その声が、耳の奥で蘇った。
「……返して」
美咲はもう一度言った。
だが、男は聞いていなかった。
「ねえ、そんな怖い顔しないでさ」
男は被り物を友人へ放り投げると、美咲の顔を覗き込んだ。
「せっかく可愛いんだから、笑ってよ」
そして、馴れ馴れしく彼女の肩を抱き寄せようとした。
その瞬間。
銀色の光が走った。
「……あ?」
男の動きが止まった。
伸ばした手の指が、路上へ落ちていた。
一瞬遅れて、男の顔が恐怖に歪んだ。
「ぎゃああああああっ!!」
男は手を押さえ、悲鳴を上げた。
だが、美咲は動きを止めなかった。
次の瞬間、刃が男の首筋を深く切り裂いた。
頸動脈を損傷した傷口から、血が勢いよく噴き出した。
「……がっ……!」
男は目を見開き、喉元を押さえた。
指の間から血が溢れ、足元の舗装を赤く染めていく。
何かを言おうと口を開いたが、声にはならなかった。
膝が折れた。
男は前のめりに倒れ、そのまま動かなくなった。
「…………」
残された二人は、何が起きたのか理解できずにい た。
つい先ほどまで笑っていた友人が、目の前で倒れて いる。
そして、その傍らには、美しい少女が立っていた。
小さな手に、血のついた刃物を握って。
「……おい?」
一人が震える声で呟いた。
「おい……嘘だろ……?」
美咲は倒れた男を見下ろしていた。
自分が人を殺した。
その事実を理解した瞬間、全身が震え始めた。
恐怖なのか。
興奮なのか。
自分でもわからなかった。
ただ、胸の奥を埋め尽くしていた苦しみが、ほんの一瞬だけ遠のいた気がした。
「……ふふ」
笑いが漏れた。
残された二人が、怯えた表情で後ずさった。
「うわああああっ!!」
一人が背を向けて逃げ出した。
もう一人は恐怖に足をもつれさせ、路上へ転倒した。
美咲はゆっくりと顔を上げた。
男の怯えた目が、彼女を見つめていた。
その表情を見た瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が生まれた。
自分を恐れている。
あの男と同じように、誰かを恐怖に陥れることができる。
美咲は笑った。
「……あは」
そして、倒れた男へ近づいた。
男は必死に後ずさった。
「や、やめろ……!」
声は恐怖で裏返っていた。
美咲は何も答えなかった。
悲鳴が響いた。
逃げ出したもう一人も、ほどなくして路地の先で追いつかれた。
抵抗する声、靴音、刃物が地面に落ちる金属音。
やがて、狭い路地に静寂が戻った。
三人の男は、路上に倒れていた。
誰も、もう立ち上がらなかった。
美咲は荒い息を整えながら、地面に落ちていたウサギの被り物を拾った。
白い毛並みの一部が赤く汚れていた。
彼女はそれを見つめ、少しだけ首を傾げた。
「……汚れちゃった」
まるで、大切なぬいぐるみを汚してしまった子供のような声だった。
美咲はそっと指先で汚れを拭おうとした。
だが、血は簡単には落ちなかった。
そのとき、ふと悠真の笑顔が蘇った。
『かわいいでしょ?』
『いや、顔が見えないからわかんねえよ』
あの日の会話を思い出した美咲は、小さく笑った。
「……悠真」
そして、ゆっくりと被り物をかぶり直した。
白いウサギが、再び現れた。
最初の悲鳴が中央通り近くまで届いたとき、通行人たちは酔っ払い同士の喧嘩だと思った。
しかし、路地から飛び出してきた若い女性の叫び声が、その空気を一変させた。
「人が! 人が殺されてる!!」
女性は顔面蒼白になり、震える手で路地の奥を指さしていた。
近くの飲食店から客が顔を出した。
誰かが路地を覗き込み、息を呑んだ。
「……救急車!」
「警察呼べ!」
怒鳴り声が重なり、人々が慌ただしく動き始めた。
そのとき、一人の男が路地の奥を指さした。
「おい、あそこ! 何かいるぞ!」
人々の視線が、一斉に向けられた。
そこに立っていたのは、白いウサギだった。
長い耳。
丸い黒い目。
可愛らしい口元。
その手には、血のついた小さな刃物が握られていた。
「……何、あれ」
若い女性が震える声で呟いた。
白いウサギは、ゆっくりと首を傾げた。
そして、歩き始めた。
「逃げろ!!」
男の怒鳴り声が響いた。
次の瞬間、周囲は混乱に包まれた。
人々が一斉に走り出す。
悲鳴が重なり、誰かが転び、後ろから来た人間がそれにつまずいた。
店のシャッターを慌てて閉める音が響いた。
飲食店の従業員が客を店内へ引き込み、扉に鍵をかけた。
スマートフォンを構えていた若者が、血のついた刃物に気づいて後ずさる。
「やばい! マジでやばいって!」
別の通行人が叫んだ。
「警察! 早く!」
遠くでサイレンが鳴り始めた。
夜の秋葉原に、恐怖が広がっていく。
だが、その中心にいる白いウサギは、走らなかった。
ただ、ゆっくりと歩いていた。
逃げ惑う人々の間を。
悲鳴の響く街を。
まるで、何事も起きていないかのように。
被り物の内側では、美咲が笑っていた。
「……ふふ」
身体は痛んだ。
全身に残る傷跡が、歩くたびに疼いた。
けれど、あの男たちを殺した瞬間だけは、胸の奥を埋め尽くしていた苦しみが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
その感覚に、美咲自身も戸惑っていた。
佐伯を殺したわけではない。
家族が戻ってくるわけでもない。
悠真が生き返るわけでもない。
それなのに。
「……あは」
笑いが漏れた。
「……あはは」
美咲は足を止めた。
遠くに、警察車両の赤色灯が見えた。
サイレンが近づいてくる。
白いウサギは、ゆっくりと空を見上げた。
東京の夜空には、雲の切れ間から小さな月が覗いていた。
美咲は、その月を見つめた。
「……悠真」
被り物の中で、かすれた声が響いた。
「ごめんね……」
しばらく沈黙したあと、彼女は小さく笑った。
「……でも、もう戻れないや」
そして、再び歩き始めた。
白いウサギの背後で、悲鳴とサイレンが交錯していた。
その夜、秋葉原で起きた凄惨な殺人事件は、瞬く間に人々の間へ広がっていった。
目撃者たちは、恐怖に震えながら同じ言葉を口にした。
白いウサギの被り物をした殺人鬼。
誰が最初にそう呼んだのかは、わからない。
だが、その名前はやがて、街の人々の記憶に深く刻まれることになる。
――ラビット。




