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RABBIT(ラビット)  作者: 龍元


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第二章「幸福の終焉」


二年後――東京


 東京の空には、春の訪れを告げる柔らかな日差しが広がっていた。

 街路樹の枝先には小さな蕾が膨らみ、駅前の通りには卒業を控えた高校生たちの明るい声が響いている。

そんな穏やかな午後。


「ねえ、悠真。ちょっと待ってよ!」


 少女が笑いながら駆け寄ってきた。

 長い黒髪を揺らし、肩から学生鞄を下げた彼女の名は、桜井美咲(さくらい・みさき)。


 十八歳。

 整った顔立ちと明るい笑顔が印象的な少女だった。

 学年でも常に上位の成績を維持し、陸上部では全国大会への出場経験もある。教師たちからの信頼も厚く、難関大学への進学も決まっていた。


 その彼女が、今は一人の少年を追いかけている。


「遅いぞ、美咲」


 振り返った少年が、悪戯っぽく笑った。

 高橋悠真(たかはし・ゆうま)。

 美咲と同じ十八歳で、家も近い幼馴染だった。

 悠真は特別に成績が優秀というわけでも、スポーツで目立つ存在でもない。

 だが、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな性格で、周囲から好かれていた。


「だって、先生に呼び止められたんだもん」


 美咲が少し不満そうに唇を尖らせると、悠真は彼女の顔を覗き込んだ。


「また成績の話?」


「違うよ。卒業式の答辞、もう一回確認したいって」

「さすが学年代表」


 悠真が大げさに頭を下げると、美咲は頬を膨らませた。


「もう、からかわないでよ」


 そう言いながらも、彼女の口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 二人が初めて出会ったのは、五歳の頃だった。

 引っ越してきたばかりの美咲は人見知りが激しく、近所の子供たちの輪に入れずにいた。

 そんな彼女に、最初に声をかけたのが悠真だった。


『一緒に遊ぼうぜ』


 その一言が、二人の始まりだった。

 小学校も、中学校も、高校も同じ。

 喧嘩をしたこともあった。

 中学二年の頃、美咲が陸上大会で思うような結果を出せず、悔しさのあまり悠真に八つ当たりしたことがある。


『悠真にはわからないよ!』


 そう怒鳴った彼女に、悠真は何も言い返さなかった。


 翌朝、美咲がいつもの待ち合わせ場所へ行くと、悠真は普段どおりそこに立っていた。


『……怒ってないの?』


 美咲がおそるおそる尋ねると、悠真は少し不機嫌そうに答えた。


『怒ってるよ』


『じゃあ、なんで待ってるの?』


 悠真は呆れたように肩をすくめた。


『美咲が一人で学校行くの嫌いなの、知ってるから』


 その瞬間、美咲は泣き出してしまった。

 悠真は慌てて慰めようとしたが、彼女は泣きながら笑っていた。

 あの頃からだったのかもしれない。

 幼馴染という関係が、少しずつ違うものへ変わっていったのは。


 高校一年の冬。

 二人は正式に付き合い始めた。

 そして三年生になった頃には、将来の話をすることが当たり前になっていた。


「ねえ、悠真」


「ん?」


「私たち、本当に結婚するんだよね?」


 突然の問いに、悠真は立ち止まった。


「何だよ、急に」


 美咲は照れくさそうに笑いながら、制服の袖を指先でつまんだ。


「だって……まだ実感がなくて」


 悠真は少し考えてから、彼女の手を握った。


「するよ。卒業したら、ちゃんと籍を入れよう」


「……うん」


 美咲は嬉しそうに指を絡めた。


「私、おばあちゃんになっても悠真と一緒にいたい」


「じゃあ、俺もじいちゃんになるまで付き合うよ」


「そこは死ぬまでって言ってよ」


 美咲が頬を膨らませると、悠真は笑いながら彼女の頭を軽く撫でた。


「はいはい。死ぬまで一緒にいます」


「適当!」


 二人は顔を見合わせ、声をあげて笑った。

 そのとき、通りの向こうにある雑貨店の店先で、美咲が足を止めた。


「あっ!」


 彼女の視線の先には、動物の被り物がいくつも並べられていた。

 犬、猫、パンダ。

 そして、その中に白いウサギがあった。

 長く垂れた耳に、丸い黒い目。少し間の抜けた愛嬌のある顔をしている。


「見て、悠真! あのウサギ、かわいくない?」


 美咲が指差すと、悠真は店先へ近づいた。


「なんだこれ。目のところ、穴が開いてるんだな」


 黒い目の部分には、外からは目立たない小さな覗き穴が設けられていた。被ったままでも前が見える作りになっている。


 美咲は面白がって被り物を手に取り、頭からすっぽりと被った。


「どう? 似合う?」


 白いウサギが悠真を見上げた。

 その姿があまりにも可笑しくて、悠真は吹き出してしまった。


「はははっ! 美咲、最高!」


「えー! 笑いすぎじゃない?」

 美咲がわざと怒ったように腰へ手を当てると、悠真はますます笑った。


「いや、かわいいって! なんか妙に似合ってる!」


 悠真がこんなに楽しそうに笑うのを見るのは久しぶりだった。

 美咲は被り物の中で、思わず頬を緩めた。


「そんなに気に入った?」


「うん。俺、そのウサギ好きだわ」


 悠真は笑いながら店員に声をかけ、被り物を購入した。


「はい、プレゼント」


 差し出された白いウサギを、美咲は驚いた顔で受け取った。


「えっ、買ってくれたの?」


「美咲が被ると面白いからな」


「もう! かわいいって言ってよ!」


「かわいい、かわいい」


 悠真が笑いながら答えると、美咲もつられて笑った。

 そして、ウサギを胸に抱き締めた。


「……ありがとう。大切にするね」


 その言葉に、悠真は少し照れくさそうに目を逸らした。


「そんな大げさなもんじゃないだろ」


 美咲は首を横に振った。


「悠真がくれたものだから、大切なの」


 白いウサギを見つめる彼女の表情は、幸せそのものだった。

 その日から、被り物は美咲の部屋に飾られることになった。

 悠真が遊びに来るたび、ときどきそれを被ってふざけてみせる。

 すると悠真は、決まって嬉しそうに笑った。

 美咲にとって、その白いウサギは、二人だけの小さな思い出になった。

 しかし、その幸せを簡単に認めてくれない人たちがいた。

 美咲の両親だった。


 その夜。

 桜井家の食卓には、重苦しい沈黙が流れていた。


「……結婚?」


 父の正弘は、娘の言葉を聞き返した。


「はい。卒業したら、悠真と籍を入れたいの」


 美咲は緊張で強張る指を膝の上で握り締めながら、背筋を伸ばして答えた。

 母の由紀が、困惑した表情で夫を見る。


「美咲、あなた……まだ十八歳なのよ?」


「わかってる」


「わかっていないから、そんなことを言うの!」


 普段は穏やかな母が珍しく声を荒らげ、美咲は思わず肩を震わせた。

 正弘は静かに箸を置いた。


「悠真君が悪い子だとは思っていない。小さい頃から知っているし、礼儀正しい青年だ」


「だったら……」


 美咲が期待を込めて顔を上げると、正弘は厳しい表情のまま首を横に振った。


「だが、それと結婚は別の話だ」


 父の声には、譲る気配がなかった。


「お前には将来がある。努力して難関大学への進学も決まった。学業も運動も優秀で、これからいくらでも可能性が広がっていく」


「結婚したって大学には行けるよ」


「世の中は、そんなに簡単じゃない」


 正弘は娘をまっすぐ見つめた。


「今は好きだから結婚したいと思っているんだろう。だが、十八歳の恋愛感情だけで人生を決めるな」


 美咲の目に涙が浮かんだ。


「一時の恋愛なんかじゃない!」


 感情を抑えきれず、思わず立ち上がった。


「十三年も一緒にいるんだよ! 悠真がどんな人なのか、お父さんたちだって知ってるでしょう!」


「美咲!」


 父の厳しい声にも、美咲は引かなかった。


「どうしてわかってくれないの!」


 由紀が慌てて立ち上がる。


「あなたのためを思って言っているのよ!」


「私の幸せは、私が決めたい!」


 美咲はそのまま自室へ駆け込み、扉を閉めた。

 ベッドに顔を埋めた途端、涙が溢れ出した。

 両親が自分を大切に思ってくれていることはわかっていた。


 これまで何不自由なく育ててもらい、勉強も部活動も応援してくれた。

 だからこそ、反対されることが苦しかった。

 大好きな家族と、大好きな悠真。

 どうして、そのどちらかを選ばなければならないのだろう。

 美咲は震える手でスマートフォンを取り出した。


『悠真……どうしよう』


 送信して間もなく、電話がかかってきた。


「美咲?」


 聞き慣れた優しい声だった。

 その声を聞いた瞬間、我慢していた涙が再び溢れた。


「……反対された」


 美咲が声を詰まらせると、悠真は静かに耳を傾けた。


「うん」


「絶対に駄目だって……」


 悠真はしばらく黙っていた。

 そして、静かに言った。


「俺の家も同じだった」


「……え?」


 美咲は驚いて顔を上げた。


「親父に怒られた。結婚を甘く考えるなって」


 美咲は唇を噛んだ。


「じゃあ……どうするの?」


 電話の向こうで、悠真が息を吸う音がした。


「最悪、二人で家を出ることも考えてる」


「……駆け落ち?」


「うん。でも、それで美咲が家族を失うのは嫌なんだ」


 その言葉に、美咲は胸が締めつけられた。


「俺、ちゃんと認めてもらいたい。美咲の父さんと母さんにも、俺の両親にも」


「……うん」


「だから、もう少し頑張ろう」


 美咲は袖で涙を拭った。


「うん……一緒に頑張ろう」

 電話を切ったあと、美咲は机の上に飾ってある白いウサギへ目を向けた。

 丸い黒い目が、こちらを見つめている。

 彼女はそれを抱き上げ、胸に押し当てた。


「……悠真」


 その名を呟くと、不思議と少しだけ心が落ち着いた。


 それからの数週間は、二人にとって苦しい日々だった。

 両家の両親と何度も話し合った。

 将来の生活費、大学の学費、住む場所、仕事のこと。

 悠真はアルバイトの収入と貯金をすべて書き出し、生活計画まで作った。

 だが、両親たちの反応は厳しかった。

 愛情だけで生活できるわけではない。

 まだ社会を知らない二人に、家庭を築く責任が理解できるのか。

 その指摘は、決して間違っていなかった。

 だからこそ、二人は言い返せなくなることもあった。

 ある日、悠真が疲れた表情で呟いた。


「……やっぱり、家を出るしかないのかな」


 美咲は隣に座る悠真の横顔を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。


「私、もう一人だけ相談したい人がいる」


「誰?」


「……佐伯先生」


 佐伯直人。

 高校三年生になった春から、二人のクラスを受け持っている担任教師だった。

 四十代前半の落ち着いた男性で、普段は穏やかだが、生徒の悩みには真剣に向き合うことで知られていた。


 赴任してまだ一年にも満たなかったが、その丁寧な指導と親しみやすい人柄から、生徒たちの信頼は厚かった。

 美咲が進路に悩んだときも、悠真が家庭の事情で成績を落としたときも、親身になって相談に乗ってくれた。

 二人にとって、教師以上に信頼できる大人だった。


「……なるほどな」


 放課後の教室。

 佐伯は二人の話を最後まで聞くと、ゆっくり頷いた。


「卒業後に結婚したい。でも両親は反対している、ということか」


「はい」


 美咲は緊張した面持ちで答えた。


「先生も、やっぱり反対ですか?」


 佐伯は少しだけ微笑んだ。


「反対する理由はあるよ」


 美咲の表情が曇る。

 だが、佐伯はすぐに続けた。


「同時に、君たちの気持ちを尊重したい理由もある」


「……え?」


 美咲が顔を上げると、佐伯は穏やかな眼差しで二人を見つめた。


「この一年近く見てきたからね。君たちがどれほどお互いを大切にしているか、よく知っているつもりだ」


 悠真が少し驚いたように顔を上げた。


「先生……」


「ただし、結婚するなら責任が伴う。そこは君たちも理解しなければいけない」


 佐伯は机の上で指を組んだ。


「美咲、大学はどうするつもりだい?」


「もちろん行きます。勉強も続けたいです」


 美咲が迷いなく答えると、佐伯は満足そうに頷き、悠真へ視線を移した。


「悠真は?」


「俺も進学します。卒業後は就職して、美咲と生活できるようにしたいです」


 佐伯はしばらく考え込んだ。

 そして、静かに言った。


「……私から、ご両親と話してみようか」


 二人は同時に顔を上げた。


「本当ですか!?」


 思わず身を乗り出した美咲に、佐伯は優しく微笑んだ。


「ああ。ただし、無条件で賛成してもらえるとは思わないことだ。君たちにも譲らなければならない部分がある」


 美咲は何度も頷いた。


「はい! ありがとうございます!」


 佐伯は微笑みながら、二人を見つめた。


「幸せになれるといいね」


 その言葉に、美咲の胸が温かくなった。

 まさか、その言葉を口にした男が、自分の人生を地獄へ突き落とすことになるとは。

 このときの彼女は、夢にも思っていなかった。



 佐伯は約束どおり、両家の両親と話し合った。

 一度では終わらなかった。

 美咲の父は強く反対し、母も娘の将来を案じていた。

 悠真の両親も、息子が家庭を支える覚悟を持っているのか疑っていた。


 しかし、佐伯は急いで結論を求めなかった。

 両親の不安を聞き、二人の考えを伝え、互いの意見を整理した。


「結婚したからといって、学業を諦める必要はありません」


 ある日の話し合いで、佐伯はそう語った。


「もちろん簡単な道ではありません。ですが、二人とも進学を希望していますし、その意思は固い。ご両親が心配されるのも当然ですから、条件を設けてはどうでしょう」


 正弘が腕を組んだ。


「条件、ですか」


 佐伯は落ち着いた様子で頷いた。


「はい。大学には必ず進学し、卒業まで学業を最優先にする。子供を持つのは二人とも大学を卒業してから。それまでは生活面でも両家と相談しながら責任を持つ」


 由紀は不安そうに夫を見た。


「でも、そこまでして急いで結婚する必要が……」


 佐伯はその疑問を否定せず、穏やかに答えた。


「その点については、私にも答えは出せません。ただ、彼らは自分たちの選択に責任を持とうとしています。大人ができるのは、その覚悟が本物か確かめ、必要な支えを与えることではないでしょうか」


 正弘は長く沈黙した。

 娘が生まれた日のことを思い出していた。

 小さな手で自分の指を握った美咲。

 初めて歩いた日。

 ランドセルを背負って、誇らしげに笑っていた朝。

 いつまでも守ってやれると思っていた。

 だが、娘はもう、自分の人生を選ぼうとしている。

 正弘は深く息を吐いた。


「……美咲」


 呼びかけられた美咲は、緊張した表情で背筋を伸ばした。


「はい」


「大学は絶対に卒業するんだな?」


「うん。約束する」


「子供は、それからだ」


「……うん」


 正弘は悠真へ目を向けた。


「悠真君」


「はい!」


 悠真が勢いよく返事をすると、正弘は真剣な眼差しで続けた。


「娘を泣かせるようなことは、絶対にしないでくれ」


 悠真は背筋を伸ばした。


「はい。必ず幸せにします」


 正弘は苦笑した。


「必ず、なんて簡単に言うものじゃない。夫婦になれば喧嘩もするし、苦労もある」


 そして、少しだけ目を潤ませた。


「それでも、二人で支え合っていけるなら……私はもう反対しない」


「……お父さん!」


 美咲は立ち上がり、父に抱きついた。


「ありがとう……本当にありがとう!」


 由紀も涙を拭っていた。

 悠真の両親も、静かに頷いていた。

 佐伯は少し離れた場所から、その光景を見つめていた。

 口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


卒業の日


 三月。

 高校の体育館には、卒業生たちの歌声が響いていた。

 壇上に立つ美咲は、答辞を読みながら何度も涙を堪えた。

 三年間の思い出。

 友人たちとの日々。

 部活動で流した汗。

 そして、悠真と過ごした時間。

 すべてが胸の中に蘇ってくる。

 卒業式が終わると、校庭には笑顔と涙が溢れていた。


「美咲!」


 聞き慣れた声に振り返ると、悠真が駆け寄ってきた。


「卒業おめでとう!」


 満面の笑みを浮かべる悠真に、美咲も嬉しそうに笑い返した。


「悠真も!」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 悠真は少し緊張した様子で、ポケットから小さな箱を取り出した。


「……これ」


「何?」


 美咲が不思議そうに首を傾げると、悠真は照れくさそうに笑った。


「開けてみて」


 中には、銀色の細い指輪が入っていた。

 高価なものではなかった。

 だが、美咲にとっては何よりも美しく見えた。


「……悠真」


「ちゃんとしたのは、働いてから買う。今はこれで勘弁して」


 申し訳なさそうに笑う悠真を見て、美咲は勢いよく首を横に振った。


「これがいい……これが一番いい!」


 涙を浮かべながら、彼女は左手を差し出した。

 悠真が指輪をはめる。


「卒業おめでとう、美咲」


「……うん」


「これからもよろしく」


 美咲は涙を拭いながら笑った。


「こちらこそ。死ぬまでよろしくね」


 二人はそっと抱き合った。

 その様子を、少し離れた場所から両家の両親が見守っていた。

 正弘は照れくさそうに目を逸らし、由紀はハンカチで涙を拭っていた。

 今日の夕方には、桜井家で卒業祝いの食事会が開かれる予定だった。

 両家の家族が集まり、二人の門出を祝う。

 そして、親の説得に尽力してくれた佐伯も招待していた。

 ようやく手に入れた幸せだった。

 誰もが、これから先も穏やかな日々が続くと信じていた。


 午後五時を少し過ぎた頃。

 美咲は駅の改札を抜け、小走りで自宅へ向かっていた。

 卒業式のあと、大学の提出書類に不備が見つかり、学校へ呼び戻されてしまったのだ。

 確認と修正に思いのほか時間がかかり、予定より一時間ほど遅れてしまった。


「もう、こんな日に限って……」


 美咲は苦笑しながらスマートフォンを取り出した。

 悠真へメッセージを送る。


『ごめん! 今から帰るね!』


 しかし、既読はつかなかった。

 きっと準備で忙しいのだろう。

 そう思いながら、美咲は足を速めた。

 住宅街には夕暮れの光が差し込み、家々の窓から温かな明かりが漏れていた。

 桜井家の前に着くと、美咲は鞄から鍵を取り出した。

 玄関の扉を開け、いつものように声をかける。


「ただいまー!」


 返事はなかった。

 美咲は靴を脱ぎながら、玄関に並んだ靴へ目を向けた。


 父の革靴。

 母のパンプス。

 悠真のスニーカー。

 そして、悠真の両親の靴。

 みんな来ているはずだった。


「……あれ?」


 美咲は廊下を進んだ。

 家の中は、不気味なほど静かだった。

 テレビの音も、話し声も聞こえない。

 リビングへ入ると、テーブルには豪華な料理が並んでいた。

 ロースト料理、色鮮やかなサラダ、温かなスープ、焼きたてのパン。

 中央には小さなケーキまで用意されていた。

 美咲は目を輝かせた。


「わあ……すごい」


 母が腕によりをかけて準備してくれたのだろう。

 けれど、誰もいない。


「みんな、どこ行ったの?」


 美咲はキッチンを覗いた。

 誰もいない。

 洗面所にも、人の気配はなかった。

 廊下の奥にある和室の襖は閉まっていたが、美咲は特に気に留めなかった。

 もう一度、悠真に電話をかけた。

 呼び出し音だけが続き、やがて留守番電話に切り替わった。


「……何してるんだろ」


 美咲が少し不安になり始めた、そのときだった。

 ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴った。


「あ、誰か来た!」


 美咲はほっとして玄関へ向かった。

 扉を開けると、そこには佐伯が立っていた。


「こんばんは、美咲さん」


「佐伯先生!」


 美咲の顔に笑みが戻った。


「来てくださったんですね! ありがとうございます!」


「もちろん。大切な教え子の門出だからね」


 佐伯はいつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。


「ご家族は?」


「それが、みんなどこかに行っちゃったみたいで……」


 美咲が困ったように笑うと、佐伯は少しだけ首を傾げた。


「そうなのかい?」


「はい。靴はあるんですけど」


「不思議だね」


「ですよね。とりあえず入ってください!」


 美咲は佐伯をリビングへ案内した。

 佐伯はテーブルに並んだ料理を見渡し、静かに椅子へ腰を下ろした。


「随分と豪華だね」


「そうなんです! お母さん、頑張ってくれたみたいで」


 美咲は嬉しそうに笑った。


「先生のおかげで、こうしてお祝いできるようになったんですよ」


「……私のおかげ?」


 佐伯はゆっくりと美咲へ視線を向けた。


「はい!」


 美咲は深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました。先生がいなかったら、私たち……どうなっていたかわかりません」


 佐伯はしばらく彼女を見つめていた。

 そして、静かに微笑んだ。


「……それはよかった」


 美咲は時計を見た。


「それにしても、みんな遅いですね」


 何度電話しても、誰も出なかった。

 少し不安になり始めていたが、目の前に並ぶ料理を見ているうちに空腹を思い出した。


「……先生」


「何かな?」


「ちょっとだけ、先に食べちゃ駄目ですかね?」


 美咲は悪戯っぽく笑った。


「朝からほとんど食べてなくて、お腹ぺこぺこなんです」


 佐伯は黙っていた。


「先生も一緒にどうですか?」


「……私は遠慮しておこう」


「えー、じゃあ私だけいただいちゃいますね!」


 美咲は小さく手を合わせた。


「いただきます!」


 料理を口に運ぶ。

 柔らかい肉。

 香ばしいソース。

 口の中に広がる濃厚な味わい。


「……ん!」


 美咲は目を丸くした。

「おいしい!」


 思わず笑みがこぼれる。


「すごい。お母さん、こんな料理も作れたんだ……」


 佐伯は何も言わなかった。

 ただ、彼女が食べる様子をじっと見つめていた。

 美咲はもう一口食べた。


「先生、本当においしいですよ。食べないともったいないですって」


 佐伯は穏やかに微笑んだ。


「私は結構です。もう十分に楽しませてもらいましたから」


「……?」


 美咲は少し不思議に思ったが、深く考えなかった。

 そのとき。


「……美味しいですか?」


 佐伯が静かに尋ねた。

 美咲は笑顔で頷いた。


「はい! すっごく!」


「そうですか」


 佐伯は満足そうに微笑んだ。


「それはよかった」


 美咲は不思議そうに首を傾げた。


「……先生?」


「実は、その料理」


 佐伯はゆっくり立ち上がった。


「私が作ったんですよ」


「……え?」


 美咲は目を瞬かせた。


「先生が?」


「ええ。あなたのために、心を込めて」


 佐伯はリビングの奥へ歩いていった。

 和室の襖の前で足を止める。


「材料も、特別なものを用意しました」


 美咲は箸を持ったまま、動きを止めた。

 何かがおかしい。

 先生の声は、いつもと同じだった。

 穏やかで、優しくて、落ち着いている。

 それなのに、なぜか背筋が寒くなった。


「……先生?」


 佐伯は振り返った。

 口元には、薄い笑みが浮かんでいた。


「ご覧になりますか?」


 そう言って、襖に手をかけた。

 すうっと、襖が開いた。

 美咲の視線が、その奥へ向けられる。

 そして。

 世界が止まった。

 畳の上には、血に染まった衣服や、無残に損壊した人間の遺体が幾つも残されていた。

 父のシャツ。

 母が今日着ていた服。

 悠真の腕時計。

 見覚えのあるものが、そこかしこに散らばっていた。

 美咲の手から、箸が落ちた。

 からん。

 乾いた音が、静かな部屋に響いた。


「…………え?」


 頭が理解を拒んだ。

 あれは何?

 どうして?

 お父さん?

 お母さん?

 悠真は?

 視線が、畳の上に落ちていた小さな箱へ吸い寄せられた。

 卒業式の日、悠真が指輪を入れてくれた箱と同じものだった。

 その隣に、彼の顔が見えた。


「……ゆう、ま?」


 美咲の唇が震えた。


「……嘘」


 声にならなかった。


「嘘……嘘、嘘……」


 身体が勝手に後ずさった。

 椅子が倒れる。

 テーブルにぶつかる。

 皿が床へ落ち、砕け散った。


「いや……」


 美咲は自分の口元を押さえた。

 先ほど食べた料理の味が、急に恐ろしいものへ変わった。


「いやああああああああっ!!」


 絶叫が響いた。

 美咲は床に膝をつき、激しく吐いた。

 何度も。

 胃の中が空になっても、吐き気は止まらなかった。


「悠真……悠真ぁ……!」


 涙と唾液で顔を濡らしながら、彼女は和室へ這おうとした。

 だが、指先がうまく動かなかった。


「……え?」


 腕に力が入らない。

 足が痺れている。

 視界が揺れ始めた。


「な……んで……」


 佐伯が、ゆっくり近づいてきた。


「薬が効いてきたようですね」


 美咲は恐怖に目を見開いた。


「せん……せい……?」


 佐伯は彼女の前にしゃがみ込んだ。

 まるで授業中、理解できない問題に悩む生徒へ説明するような穏やかな口調だった。


「不思議でしょう?」


 美咲の頬を、涙が伝った。

「なぜ、こんなことになったのか。どうしてご家族が殺されなければならなかったのか」


 佐伯は微笑んだ。


「理由がわかりませんよね」


 美咲は必死に首を動かそうとした。

 しかし、身体はもう言うことを聞かなかった。


「理由は、とても単純なんですよ」


 佐伯は彼女の髪をそっと撫でた。


「私が、あなたを気に入ったからです」


 美咲の目が震えた。


「……もしかすると、恋をしたのかもしれませんね」

 その声には、照れも、罪悪感もなかった。


「この一年、あなたを見てきました。勉強もできる。運動もできる。誰からも好かれて、いつも笑っている」


 佐伯は美咲の顔を覗き込んだ。


「本当に素晴らしい女性です」


 美咲は、涙に濡れた目で男を睨みつけた。


「でもね……」

 佐伯の笑みが深くなった。


「そんなあなたが、すべてを失ったらどうなるのか。私はずっと興味があったんです」


 美咲の呼吸が荒くなった。


「愛する人を奪われ、家族を奪われ、未来を奪われたとき……あなたは何を思うのでしょう?」


 佐伯は嬉しそうに目を細めた。


「人間は誰でも、心の奥底に狂気を隠しているものです」


 そして、美咲の耳元で囁いた。


「私は、あなたの中にある狂気が見たくなったんですよ」


 美咲の視界が暗くなっていく。

 最後に見えたのは、佐伯の笑顔だった。

 あの日、両親を説得してくれたときと、まったく同じ笑顔。


 そして、意識が途切れる直前。

 彼女の耳に、男の声が届いた。


「さあ、美咲さん。授業を始めましょう」


 世界が、闇に沈んだ。

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