第一章 禁断の研究
最初に異変に気づいたのは、研究施設の通信管理部門だった。
定時報告が途絶えてから、すでに十八時間が経過していた。
何度呼びかけても応答はなく、監視カメラの映像もすべて遮断されている。施設内部の非常用通信回線まで沈黙していた。
地下深くに建設されたその研究施設は、表向きには存在しないことになっていた。
半世紀以上にわたり、国家の機密予算によって運営されてきた特殊研究機関。
その施設へ向けて、重武装の特殊部隊が派遣された。
作戦に投入されたのは、国家の最高機密に関わる任務を専門とする特殊部隊だった。
指揮を執るのは、マーカス・グレイ少佐。
幾度もの極秘作戦を成功させてきた歴戦の軍人であり、部下からの信頼も厚い男だった。
今回の任務は、通信が途絶えた研究施設の状況確認と、生存者の救出。
そして、万が一施設内で重大な事故が発生していた場合、その原因を特定し、外部への情報流出を阻止することだった。
しかし、マーカスには一つだけ腑に落ちないことがあった。
施設内部で何が研究されているのか、作戦開始直前になっても一切知らされていなかったのである。
「少佐。間もなく施設入口に到着します」
通信機から部下の声が響いた。
「了解した。全員、警戒を怠るな。内部の状況が確認できるまでは、何が起きてもおかしくないと思え」
マーカスは短く指示を出すと、隣に座る白衣姿の男へ視線を向けた。
アルバート・ウェイン博士。
この研究施設の運営に深く関わる人物であり、今回の作戦に同行することを強く希望した男だった。
五十代半ばと思われるアルバートは、額に浮かんだ汗を何度もハンカチで拭っていた。
「博士。一つ確認しておきたい」
マーカスの低い声に、アルバートが顔を上げた。
「な、何でしょうか……」
「我々は武装した敵対勢力との交戦を想定している。しかし、あなた方は施設内で何が起きたのか、ある程度把握しているのではありませんか?」
「それは……」
アルバートは言葉を詰まらせた。
その反応を見て、マーカスの疑念はさらに強まった。
「博士。私は部下の命を預かっています。危険があると分かっていながら情報を隠されては、適切な判断ができません」
「……施設内には、極めて危険な研究対象が存在します」
しばらく沈黙した後、アルバートが重い口を開いた。
「研究対象?」
「詳しいことは、まだお話しできません。ただ……もし彼らが制御下から外れていた場合、通常の武装では対処できない可能性があります」
マーカスの眉がわずかに動いた。
「彼ら、ですか」
アルバートは答えなかった。
「博士。そこまで危険な存在なら、なぜ施設内に閉じ込めておけたのです?」
「脳内に埋め込まれた制御装置です。人工知能によって行動を監視し、命令違反や攻撃行動を抑制しています」
「つまり、その装置が故障すれば、危険な研究対象が自由に動き回るということですね」
「……理論上は」
アルバートの声は震えていた。
マーカスはそれ以上問い詰めなかった。
目の前の博士が何かを隠していることは明白だったが、今は施設へ到着することが先決だった。
やがて車両が停止した。
巨大な岩山の麓。
周囲を鬱蒼とした森林に囲まれた場所に、分厚い鋼鉄製の扉が埋め込まれていた。
扉の周囲には複数の監視カメラが設置されていたが、そのすべてが機能を停止している。
警備員の姿もなかった。
「第一班、入口を確保。第二班は周辺警戒。第三班は後方支援に回れ」
マーカスの指示に従い、隊員たちが素早く展開する。
アルバートが認証装置へ近づき、震える指で非常用の解除コードを入力した。
数秒後。
重々しい金属音とともに、鋼鉄の扉がゆっくりと開き始めた。
その瞬間だった。
「……何だ、この臭いは」
先頭に立っていた隊員が、思わず声を漏らした。
扉の隙間から流れ出してきたのは、鼻を刺すような強烈な腐敗臭だった。
血液と腐肉が混ざり合った、生理的な嫌悪感を呼び起こす臭い。
マーカスは即座に銃を構えた。
「全員、ガスマスクを装着。慎重に進め」
隊員たちは暗闇に包まれた通路へ足を踏み入れた。
非常灯だけが赤く点滅する廊下。
床には乾きかけた血液が広がり、その上を何者かが歩いたような足跡が残されていた。
壁には無数の傷が刻まれている。
まるで鋭利な刃物で何度も切りつけられたような痕跡だった。
「少佐……こちらを」
隊員の一人が、廊下の奥を指さした。
そこには警備員と思われる男が倒れていた。
いや、正確には、男だったものが転がっていた。
両腕は不自然な方向へ折れ曲がり、腹部は大きく裂かれていた。
周囲には引きずられた内臓が散乱し、壁には大量の血液が飛び散っている。
顔面は原形を留めておらず、身元を確認することすら困難だった。
「……ひどいな」
マーカスは死体を見下ろしながら、低く呟いた。
数々の戦場を経験してきた彼でさえ、これほど異様な殺害現場を目にしたことはなかった。
「敵は何人いる?」
「不明です。ただ、これだけの損傷を与えるには相当な力が必要かと」
「大型の武器でも使ったのか?」
「それが……」
遺体を調べていた隊員が困惑した声を上げた。
「傷口の形状が一定ではありません。刃物によるものと思われる傷もありますが、何かに噛み千切られたような部分もあります」
その報告を聞いたアルバートの顔から、血の気が引いた。
「そんな……まさか……」
マーカスが振り返る。
「博士。何か心当たりが?」
「い、いえ……」
アルバートは慌てて首を振った。
だが、その目には明らかな恐怖が浮かんでいた。
部隊はさらに奥へ進んだ。
研究区画へ続く自動扉は破壊され、厚い強化ガラスが粉々に砕け散っていた。
その先には、さらに凄惨な光景が広がっていた。
白衣を着た研究員たちの死体。
首を切断された者。
四肢を引き裂かれた者。
壁に磔にされたような姿勢で絶命している者までいた。
そして奇妙なことに、死体の損傷には明らかな違いがあった。
ある者は鋭利な刃物で正確に急所を切断されている。
ある者は人間離れした腕力で骨を砕かれている。
またある者は、まるで獣に襲われたかのように全身を食い荒らされていた。
「……一人の犯行とは思えんな」
マーカスが呟いた。
「少佐。こちらに文字があります」
隊員の声に振り返ると、研究室の壁に大きな文字が書かれていた。
血液で描かれた、たった一つの単語。
FREEDOM.
自由。
マーカスはその文字を見つめた。
「……自由、か」
誰が、何から解放されたというのか。
その答えを知っているらしいアルバートは、壁の文字を見た瞬間、その場に崩れ落ちた。
「終わりだ……」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
「すべて……終わってしまった……」
マーカスは博士の胸倉を掴み、強引に立ち上がらせた。
「博士! いい加減に説明してもらおう! ここで何が行われていた!」
アルバートは恐怖に歪んだ顔で、ゆっくりとマーカスを見上げた。
「……人間を、進化させる研究です」
「進化?」
「歴史上に存在した優れた人間たちの能力を再現し、それを一つの肉体に組み込む……。肉体能力、知能、戦闘技術、そして殺戮に特化した本能までも……」
マーカスの表情が険しくなった。
「何を言っている?」
「この研究は、半世紀以上前に始まりました。当初の目的は、人間の身体能力と知能を極限まで高めることだったのです」
「そもそも、なぜ国家がそんな研究を始めた?」
マーカスの問いに、アルバートは重苦しい表情を浮かべた。
「……戦争です」
「戦争?」
「どれほど兵器が進歩しても、最後に戦場へ送り込まれるのは人間です。兵士は傷つき、恐怖を感じ、疲労し、やがて死に至る。国家は長年、その限界を克服する方法を模索していました」
アルバートは一度言葉を切った。
「そこで立ち上げられたのが、人体強化計画です。どれほど過酷な環境でも生き延び、通常の兵士を遥かに凌ぐ戦闘能力を持つ人間を生み出す。当初は、戦場で失われる兵士の命を減らすことが目的でした」
「……それが、どうしてこんな研究になった?」
マーカスの声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。
「成果が出始めたからです」
アルバートは力なく答えた。
「身体能力の強化に成功すると、軍はさらなる能力を要求しました。より強く、より速く、より賢く……。少数の兵士で敵軍を制圧できれば、戦争そのものを支配できると考えたのです」
「つまり、兵士を守る研究が、敵を殺すための研究に変わったということか」
「……はい」
アルバートは俯いた。
「そして我々研究者も、その要求を拒みませんでした。むしろ、歓迎していた者さえいたのです。人類が持つ肉体的、知的限界を突破できる。その可能性に魅了されていました」
「国家の命令だったから、という言い訳は通用しないぞ」
マーカスが冷たく言い放った。
「分かっています……」
アルバートは震える唇を噛み締めた。
「ですが、当時の我々は信じていたのです。人間を進化させることができれば、戦争だけではなく、医療や科学、あらゆる分野に革命をもたらせると……」
「それで、人間を実験材料にしたのか?」
アルバートは答えられなかった。
マーカスは周囲に散乱する研究員たちの死体へ視線を向けた。
「……その結果が、これか」
アルバートは何も言い返せなかった。
やがて、かすれた声で呟いた。
「我々は……どこかで引き返すべきだったのでしょう」
しかし、その後悔はあまりにも遅すぎた。
アルバートは震える手で額を押さえた。
「世界最高峰のアスリート、格闘家、優秀な軍人……。我々は、そうした人間たちの遺伝情報や身体構造を解析し、優れた能力を一つの肉体に組み込む研究を続けました」
「……それで?」
「成果はありました。常人を遥かに上回る筋力、反射神経、持久力。複数の格闘技術を習得し、武装した兵士を圧倒できる実験体も誕生しました」
アルバートは一度言葉を切った。
「しかし……それだけでは不十分だったのです」
「不十分?」
「どれほど優れた身体能力を持っていても、人間には恐怖があります。死への恐怖、痛みへの恐怖、そして他者を傷つけることへの抵抗……。極限状態では、それらが実験体の行動を制限してしまったのです」
マーカスは黙って話を聞いていた。
「そこで我々は、知能の強化にも着手しました。天才科学者、数学者、戦略家……。歴史に名を残す優秀な人間たちの知的能力を解析し、高度な判断能力を備えた実験体を作り上げたのです」
「それなら、問題は解決したのではないか?」
「……いいえ」
アルバートは力なく首を振った。
「知能が高くなるほど、実験体は危険を正確に理解するようになりました。自らの生存を優先し、任務の成功率が低いと判断すれば、命令に疑問を抱くようになったのです」
「当然だろう。人間なら誰でも死にたくはない」
「その通りです。しかし、我々が求めていたのは……どのような状況でも任務を遂行できる存在だったのです」
その言葉に、マーカスの表情が険しくなった。
「……つまり、命令されれば死ぬまで戦い続ける兵士が欲しかったということか」
アルバートは答えなかった。
だが、その沈黙が肯定を意味していることは明らかだった。
「そして研究を重ねるうちに、我々はある特殊な人間たちに注目しました」
「特殊な人間?」
「……歴史上の凶悪な連続殺人犯です」
マーカスは耳を疑った。
「何だと?」
「彼らの中には、通常の人間とは著しく異なる精神的特性を持つ者たちが存在しました。極度の危険に直面しても恐怖をほとんど示さない者。他者の苦痛に何の感情も抱かない者。そして……人間を殺すことそのものに、異常な喜びを感じる者……」
アルバートの声が次第に小さくなっていく。
「もちろん、すべての殺人犯がそうではありません。しかし、特定の凶悪犯罪者が持つ精神構造には、我々の研究に利用できる特性があると考えたのです」
「……まさか」
マーカスの声が低くなった。
「最強の肉体に、天才の知能を与え……さらに殺人鬼の精神まで組み込んだというのか?」
アルバートはゆっくりと頷いた。
「優れた身体能力、卓越した知能、そして殺害を躊躇しない精神。それらを組み合わせれば、人間の限界を超えた戦闘生命体を作り出せると……」
「正気か!」
マーカスの怒声が研究室に響き渡った。
「そんなものを作って、どうやって制御するつもりだった!」
「制御装置があったのです!」
アルバートが必死に声を張り上げた。
「脳内に埋め込まれた人工知能が、実験体の行動を常に監視していました! 命令に反する行動や、許可されていない攻撃は、実行される前に抑制できたのです!」
「……だが、失敗した」
その一言に、アルバートは唇を噛み締めた。
「我々は……重大な事実を見落としていました」
「何だ?」
「人工知能が制御できるのは、あくまでも行動だけだったのです」
アルバートの目に、深い絶望が浮かんだ。
「感情までは……支配できなかった」
マーカスは何も言わなかった。
「実験体たちは、命令に従っていました。研究員に笑顔を向け、質問にも答え、何年もの間、一度も反抗しない個体さえいました」
アルバートの声が震え始めた。
「ですが……彼らはずっと、殺したかったのです」
研究室に重苦しい沈黙が落ちた。
「研究員と会話をしながら、どうすれば殺せるのかを考えていた。笑顔を向けながら、どこを切れば苦しむのかを想像していた。命令に従っている間も、その欲望だけは消えることがなかったのです」
アルバートは血に染まった床へ視線を落とした。
「しかも……実験体によって、その欲望は異なっていました」
「どういう意味だ?」
「殺害そのものを楽しむ者。相手の恐怖に快楽を覚える者。人間の肉体を破壊することに異常な執着を示す者……。組み込まれた精神的特性によって、それぞれ異なる人格が形成されていったのです」
マーカスは周囲に転がる死体を見渡した。
刃物で切断された遺体。
人間離れした腕力で破壊された肉体。
獣に食い荒らされたような死体。
その異様な違いが、ようやく理解できた気がした。
「……それで、制御が外れた瞬間に、こうなったというわけか」
アルバートは答えられなかった。
「一つ聞かせろ、博士」
マーカスはアルバートを睨みつけた。
「そこまで危険な存在だと分かっていながら、なぜ研究を続けた?」
アルバートはしばらく沈黙していた。
やがて、絞り出すように答えた。
「……成功してしまったからです」
「何?」
「我々が何十年も追い求めてきた成果が、目の前にあったのです。人間を遥かに超える身体能力と知能を持ち、恐怖に屈することなく戦い続ける存在……。それを完成させたとき、我々は……」
アルバートの目から涙がこぼれ落ちた。
「我々は……人類を超える存在を作り出したのだと、本気で信じていたのです」
マーカスは博士を見つめたまま、低く呟いた。
「……あんたたちが作ったのは、進化した人間なんかじゃない」
そして、周囲の死体へ視線を向けた。
「ただの化け物だ」
アルバートは何も言い返せなかった。
そのとき、通信機から緊迫した声が響いた。
『少佐! 中央制御室を発見しました! 至急こちらへ!』
マーカスはアルバートを突き放した。
二人は隊員たちに守られながら、施設の最深部へ向かった。
中央制御室の扉は内側から破壊されていた。
室内には複数の研究員が倒れ、床一面が血に染まっている。
その中央。
一人の男が椅子に縛りつけられていた。
白衣は血に染まり、頭部には激しい損傷があった。
アルバートがその顔を見た瞬間、息を呑んだ。
「……ダニエル」
「知り合いですか?」
マーカスの問いに、アルバートは力なく頷いた。
「ダニエル・クロフォード博士……この研究計画の主任研究員です」
ダニエルの前には、破壊された制御装置が転がっていた。
無数のケーブルが引き千切られ、監視用の大型モニターはすべて砕かれている。
アルバートはふらつきながら操作卓へ近づいた。
わずかに生き残っていた端末へ手を伸ばし、非常用電源を起動する。
画面に赤い警告表示が浮かび上がった。
NEURAL CONTROL SYSTEM:OFFLINE
SUBJECT RESTRAINT:DISABLED
ALL SUBJECTS:UNCONFIRMED
アルバートの指が止まった。
「……制御装置が……」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「全実験体の……制御が解除されている……」
マーカスは銃を握り直した。
「博士。実験体は何体いる?」
アルバートは答えなかった。
「何体いると聞いている!」
怒声に肩を震わせたアルバートは、ゆっくりと口を開いた。
「……正確な数は、研究記録を確認しなければ……」
「では、今すぐ確認しろ!」
アルバートは震える手で端末を操作した。
だが、画面に表示されたのは、実験体の個体情報ではなかった。
施設内の監視記録。
通信が途絶える直前に保存された、最後の映像だった。
マーカスは画面を覗き込んだ。
そこには、一人の研究員が映っていた。
ダニエル・クロフォード。
まだ生きていた頃の姿だった。
彼は何者かに向かって、必死に何かを訴えていた。
しかし、音声は途切れ途切れで、言葉を聞き取ることができない。
次の瞬間。
画面の外から伸びてきた手が、ダニエルの顔を掴んだ。
映像が激しく揺れる。
そして、暗転した。
最後に記録されていたのは、かすかな笑い声だけだった。
マーカスはしばらく画面を見つめていた。
「……博士」
その声には、先ほどまでとは異なる冷たさがあった。
「あなた方は、一体何を作ったんだ?」
アルバートは答えられなかった。
ただ、壊れたモニターを見つめながら、小さく首を振り続けていた。
施設の奥深くで、非常警報が再び鳴り始めた。
赤い光が、血に染まった研究室を照らし出す。
マーカスは通信機を握った。
「全部隊に通達。施設内の生存者捜索を継続。同時に、すべての出入口を封鎖しろ。正体不明の敵対対象が存在する可能性がある」
そして、一呼吸置いて続けた。
「……何が出てきても、決して油断するな」
だが、このとき彼らはまだ知らなかった。
施設内で起きた惨劇が、単なる研究事故などではないことを。
そして、解き放たれた存在たちが、すでに人間社会へと足を踏み入れていることを。




