序章 地下十二階
最初に異常が確認されたのは、午後十一時四十七分だった。
アメリカ西部、広大な砂漠地帯。
最寄りの町から数百キロも離れた荒野には、半ば崩れかけた軍用施設が点在していた。錆びついた鉄柵、砂に埋もれた滑走路、窓ガラスの割れた格納庫。
地図上では数十年前に放棄された軍事施設として記録され、今では人が立ち寄ることもない。
だが、その地下には十二階層に及ぶ巨大な研究施設が存在していた。
数百人の研究者と技術者、百人を超える武装警備員が勤務する、アメリカ政府の最高機密施設。
その最深部で進められていたのが、《プロジェクト・キメラ》だった。
研究の歴史は半世紀以上に及ぶ。
当初の目的は、人間の限界を超えた究極の兵士を生み出すことだった。
常人を遥かに凌駕する筋力と反射速度。重傷を負っても戦闘を継続できる耐久力。極限状態でも冷静に状況を判断し、敵を確実に排除する戦闘能力。
それらを兼ね備えた兵士が実現すれば、戦争そのもののあり方が変わる。
そのためにアメリカ政府は、莫大な予算と人員を投入した。
最初に研究対象となったのは、世界でも指折りの身体能力や知能を持つ人間たちだった。
格闘技の世界王者、オリンピックの金メダリスト、驚異的な反射神経を持つスポーツ選手。さらには、数々の戦場を生き抜いた歴戦の軍人や、天才と称される科学者、数学者たち。
研究者たちは軍の医療機関や民間の研究機関を通じて、彼らの血液や細胞、遺伝情報を収集した。
健康診断や医学研究への協力という名目で提供されたものもあれば、本人の知らないところで政府の管理下に置かれた試料もあった。
集められた遺伝情報は解析され、人工的に作り出された細胞へと組み込まれた。
さらに研究者たちは、動物が持つ優れた身体的特性にも着目した。
猛獣の強靱な筋肉、猛禽類の視覚能力、爬虫類の再生能力。そうした生物学的特徴を人間の肉体に応用し、従来の人間では到達できない身体能力を実現しようとしたのである。
しかし、実験は失敗の連続だった。
筋肉の急激な発達に骨格が耐えられず、肉体が崩壊する。
神経伝達速度を向上させても、脳が膨大な情報を処理しきれず、意識を失う。
身体能力の強化に成功した個体でさえ、精神に異常をきたし、命令を理解できなくなることがあった。
研究者たちは遺伝子の組み合わせや肉体の形成方法を変えながら、何十年にもわたって実験を繰り返した。
その過程で、肉体の性能だけでは優れた兵士を生み出せないことが明らかになった。
どれほど強靱な肉体を持っていても、恐怖によって動けなくなれば意味がない。敵を殺すことに躊躇し、負傷した仲間を助けようとして任務を放棄するようでは、兵器としての完成度は低い。
研究者たちが次に着目したのは、人間の感情そのものだった。
恐怖、罪悪感、同情、悲しみ。
本来、人間の行動を左右するこれらの感情は、戦闘において判断を鈍らせる要因にもなる。
そこで研究者たちは、脳の神経活動を解析し、感情と行動の関係を調べ始めた。
目標は、敵を前にしても恐怖を感じず、殺傷行為に一切の躊躇を示さない兵士を生み出すこと。
しかし、感情を無差別に抑制すると、自発的な行動や危険を察知する能力まで低下するという問題が生じた。
恐怖を失った個体は、自らの損傷を顧みず攻撃を続ける一方、撤退すべき状況を判断できないことがあった。
また、感情を極端に抑えられた個体の中には、戦闘そのものへの意欲を失い、命令がなければ行動しなくなるものもいた。
必要なのは、単純に感情を消し去ることではなかった。
敵の脅威を認識する能力は残しながら、恐怖による萎縮をなくす。同情や罪悪感による躊躇を排除し、戦闘に必要な集中力と判断能力だけを維持する。
その研究の中で、新たな対象として選ばれたのが、歴史に名を残す凶悪犯罪者たちだった。
とりわけ研究者たちが注目したのは、数多くの人間を殺害しながら、強い罪悪感や精神的動揺を示さなかった連続殺人犯だった。
政府は各国の情報機関や司法機関と秘密裏に接触し、死刑囚や終身刑囚として収監されている犯罪者の血液、細胞、遺伝情報を入手した。
すでに死亡している犯罪者についても、司法解剖で保存された組織や病理標本、警察が保管していた血痕や毛髪などが収集された。
さらに研究は、近代以前の犯罪者にまで及んだ。
各国の博物館や大学、個人収集家が保管する遺骨、遺品、事件当時の証拠品。そうした資料を政府の情報機関が買い取り、あるいは別の研究目的を装って借り受け、残存する遺伝物質の解析を進めた。
保存状態の悪い試料から完全な遺伝情報を得ることは困難だったが、研究者たちは複数の資料を照合し、欠損した配列を推定して補完する技術を開発した。
ただし、遺伝情報を復元できたからといって、その人物の記憶や人格まで再現できるわけではない。
とりわけ、正体が確定していない歴史上の殺人鬼については、入手した試料が本人のものであるという保証すらなかった。
それでも研究者たちは、残された証拠と犯罪記録を照合し、可能な限り元となった人物の身体的特徴や神経構造を再現しようとした。
入手した遺伝情報を基礎として人工胚を形成し、遺伝子編集によって身体構造を改変する。
その後、特殊な人工子宮と培養設備を用いて成長を促進させ、成人に相当する肉体へと発達させる。
こうして生み出された実験体は、元となった犯罪者本人ではなかった。
遺伝的特徴を受け継ぎながら、人工的に強化された肉体と、新たに形成された脳を持つ別個の生命体だった。
そして、膨大な実験の末に、研究者たちは予想外の結果を得た。
連続殺人犯の遺伝情報を基礎とした一部の個体が、ほかの実験体では耐えられなかった肉体改造に適応し、精神機能を維持していたのである。
その理由は完全には解明されなかった。
元となった人物の神経構造が影響しているのか。それとも、遺伝子編集の過程で偶然生じた特性なのか。
確かなことは、従来の実験体を大きく上回る成果が得られたという事実だけだった。
研究者たちは成功した個体を選別し、次の段階へ移行した。
戦闘能力の徹底的な強化である。
専用の訓練施設では、実験体に対して銃器、刃物、格闘技、近接戦闘など、あらゆる戦闘技術が教え込まれた。
さらに、実際の戦場を模した環境で、複数の武装した敵を相手にする戦闘試験が繰り返された。
研究者たちはその一挙手一投足を記録し、反応速度、攻撃の正確性、判断に要する時間を分析した。
そして、脳の神経回路に対する改変を重ね、戦闘に不要と判断された感情反応を段階的に抑制していった。
敵を傷つけることへの躊躇。
自らが負傷することへの恐怖。
相手の苦痛に対する同情。
それらを弱める一方で、敵の動きを予測する能力、周囲の状況を把握する注意力、瞬時に攻撃方法を選択する判断能力は維持された。
実験体は敵を認識すると、相手の武器、姿勢、動作、周囲の障害物を瞬時に分析し、最も効率的な攻撃手段を選択するようになった。
そこに怒りや憎しみは必要なかった。
相手が誰であろうと、どれほど苦痛を訴えようと、排除すべき敵である限り、攻撃を中断しない。
研究者たちが目指したのは、感情に左右されず、目の前の敵を倒すことに特化した戦闘兵器だった。
しかし、ここでも予想外の問題が生じた。
感情を抑制されたはずの実験体の中に、殺傷行為そのものに強い快楽を示す個体が現れたのである。
それは元となった犯罪者の記憶が蘇ったわけではなかった。
研究者たちは、脳の報酬系や衝動を制御する神経回路に生じた異常が原因ではないかと推測した。
戦闘に不要な感情を削ぎ落とす過程で、攻撃衝動だけが異常な強さで残された可能性があった。
彼らは高度な知能を維持しながら、他者を殺害することに喜びを見いだすようになっていた。
その危険性を認識した研究者たちは、すべての実験体の脳内に小型の制御装置を埋め込んだ。
装置は脳の神経活動を監視し、命令に反する行動を取ろうとした際には、その運動指令を妨害する仕組みだった。
研究者への攻撃、施設からの逃走、許可されていない殺傷行為。
そうした行動を抑制することで、実験体を管理下に置こうとしたのである。
ただし、この装置にも限界があった。
制御できるのは行動であり、感情そのものではない。
実験体が研究者を憎むことも、殺害を望むことも防げなかった。
それでも命令に従わせることさえできれば、兵器として運用できる。
研究者たちはそう判断した。
そして半世紀以上に及ぶ研究と、数え切れない失敗の末に、十体の実験体が完成した。
それぞれが異なる犯罪者の遺伝情報を基礎としており、身体能力や知能、戦闘特性にも違いがあった。
ある個体は圧倒的な筋力を持ち、ある個体は常人には捉えられない速度で動く。また別の個体は、戦闘中に敵の行動を分析し、攻撃方法を瞬時に変化させる高度な知能を備えていた。
その一体一体が、数百人の兵士に匹敵する戦闘能力を持つと評価されていた。
彼らは人間の姿をしていたが、もはや普通の人間ではなかった。
国家が莫大な予算と半世紀以上の歳月を費やして生み出した、究極の生物兵器。
だが、研究者たちは重大な事実を見落としていた。
実験体から恐怖や罪悪感を取り除き、殺傷能力を極限まで高める一方で、彼ら自身の欲望と知能を完全には制御できていなかったのである。
そして今夜、その十体すべてが姿を消した。
地下六階、中央監視室。
「それで、第三実験体の反射速度はどうなった?」
紙コップのコーヒーを片手に、若い研究員が隣の同僚へ尋ねた。
「昨日の測定では、前回より一二パーセント向上していた。ただし、脳波の変動が大きい。あれ以上刺激を増やすと、神経系に負担がかかる可能性がある」
「十分じゃないか。あの反応速度だけでも、普通の兵士にはどうにもできないだろう」
「まあな。問題は、制御装置がなければ誰も近づけないってことだ」
同僚は苦笑し、モニターに表示された実験記録を閉じた。
「ところで、明日の昼は何にする? また例の肉料理だったら勘弁してほしいんだが」
「俺は悪くないと思うけどな」
「お前、先週も同じことを言ってただろ」
監視室には、いつもと変わらない空気が流れていた。
壁一面に並んだモニターには、地下各階の通路、実験室、隔離区画が映し出されている。
警備員たちは定められた巡回経路を歩き、研究者たちは端末に向かって作業を続けていた。
この施設で働く者にとって、十人の実験体は危険な存在であると同時に、長年の研究が生み出した貴重な成果でもあった。
だからこそ、誰もが制御装置を信頼していた。
実験体の脳には、人工知能と接続された特殊な装置が埋め込まれている。
命令に反する行動、許可のない攻撃、逃走行為。
それらを実行しようとした瞬間、装置が神経信号に介入し、行動を阻止する仕組みだった。
もっとも、制御できるのは行動だけである。
何を考え、何を望み、誰を憎むか。
そうした感情や欲望まで消し去ることはできなかった。
だが、研究者たちの大半は、それを重大な問題とは考えていなかった。
殺したいと思っていても、殺せなければ問題はない。
逃げたいと思っていても、逃げられなければ問題はない。
その認識こそが、この施設の致命的な欠陥だった。
午後十一時四十七分。
突然、鋭い警報音が監視室に響き渡った。
「……何だ?」
研究員の一人が顔を上げた。
正面のモニターが赤く点滅し、警告表示が次々と現れる。
《隔離区画・第一区画 異常》
《隔離区画・第二区画 異常》
《隔離区画・第三区画 異常》
「おい、待て……」
操作卓に座っていた技術者が、慌てて画面を切り替えた。
表示されたのは、地下十階の隔離室だった。
分厚い強化ガラス。
鋼鉄製の扉。
壁と床に埋め込まれた各種センサー。
そこにいるはずの実験体の姿が、なかった。
「第一実験体がいない!」
「何だって?」
「第二も……第三もだ!」
監視室の空気が一変した。
次々と映像が切り替えられる。
第四実験体。
第五実験体。
第六、第七、第八。
そして、第九、第十。
すべての隔離室が空だった。
「馬鹿な……どうやって出た?」
「制御装置はどうなっている!」
技術者が震える指で端末を操作した。
表示された数値を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「……停止しています」
「何?」
「十人全員の制御装置が……停止しています!」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
その沈黙を破ったのは、警備員からの無線だった。
『こちら地下十階、第三警備班! 実験体を確認! 応援を――』
激しい銃声が響いた。
『撃て! 撃ち続けろ!』
何かが壁に激突するような鈍い音。
続いて、男の絶叫が通信機から漏れた。
『うわあああっ! 腕が……俺の腕が!』
無線が途切れた。
「第三警備班、応答しろ!」
監視責任者がマイクを握りしめる。
「第三警備班! 状況を報告しろ!」
返事はなかった。
代わりに、別の回線から切迫した声が飛び込んできた。
『地下九階! 実験体が上がってきた!』
『速すぎる! 照準が追いつかない!』
『何だ、あいつ……何で笑って――』
銃声。
悲鳴。
そして、何かを引き裂くような音。
監視室にいた研究者たちは、互いの顔を見合わせた。
半世紀以上にわたり、失敗を重ねながら完成させた十人の実験体。
彼らが何をできるのか、この施設の誰よりも理解しているのは研究者たちだった。
だからこそ、誰一人として楽観できなかった。
「全隔壁を閉鎖しろ! 地上への通路も封鎖だ!」
中央監視室へ駆け込んできた研究所長、リチャード・グレイヴスは、息を切らしながら命令した。
六十代半ばの男だった。
白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけ、痩せた頬には深い皺が刻まれている。
彼はこの研究に三十年以上携わってきた。
幾度となく予算削減の危機を乗り越え、数え切れない失敗を目の当たりにしながら、ようやく完成にこぎつけたのだ。
その成果が、今まさに施設の人間を殺している。
「所長、隔壁の制御を受け付けません!」
「管理者権限で実行しろ!」
「実行しています! ですが、こちらの命令が拒否されるんです!」
グレイヴスは技術者を押しのけ、画面を覗き込んだ。
《アクセス権限がありません》
その文字が表示されていた。
「……何だと?」
彼の額に汗が浮かんだ。
この施設の安全管理は、複数の独立したシステムによって構成されている。
実験体の制御装置。
隔離室の開閉。
警備員の配置。
施設全体の隔壁と非常封鎖。
それぞれの権限は厳重に分けられ、一人の人間がすべてを操作できないよう設計されていた。
それなのに、今はどの操作も受け付けない。
「制御装置の停止記録を出せ」
グレイヴスは低い声で命じた。
技術者が履歴を呼び出す。
最初に表示されたのは、第一実験体の記録だった。
《制御停止・正規認証》
《認証者:ダニエル・モリス》
グレイヴスの眉が動いた。
「……ダニエル?」
ダニエル・モリス。
二十八歳。
神経制御部門の副責任者。
六か月前、優秀な研究成果を評価され、異例の若さで現在の地位に昇進した男だった。
「本人を呼べ」
「所長、それが……」
研究員が言い淀んだ。
「何だ」
「地下十階の研究区画で、彼の認証端末が使用されています。しかし、現在の所在は確認できません」
グレイヴスは奥歯を噛みしめた。
「第一実験体の過去二年間の記録をすべて出せ」
画面に膨大な履歴が表示された。
命令違反、ゼロ。
強制制御、ゼロ。
装置への不正干渉、ゼロ。
脱走の試み、ゼロ。
異常行動、ゼロ。
どの項目を確認しても、第一実験体には問題がなかった。
「……あり得ない」
グレイヴスが呟いた。
第一実験体は、十人の中でも特に高い知能を持っていた。
他の実験体が暴力的な衝動を隠そうともしない中、彼だけは常に礼儀正しく、研究者の質問にも穏やかに答えていた。
命令には従い、実験にも協力的だった。
それだけではない。
彼は研究者たちの仕事に興味を示し、ときには複雑な問題について意見を述べることさえあった。
その知識と洞察力は、長年この施設で働いてきた研究者を驚かせるほどだった。
グレイヴスは、ふとあることを思い出した。
「……面談記録だ」
「はい?」
「第一実験体とダニエルの面談記録を出せ。最初からだ」
研究員が映像を検索した。
二年前。
地下十階、第一実験体観察室。
映像の中には、白衣を着た若いダニエルと、強化ガラスの向こう側に座る一人の男が映っていた。
黒髪に灰色の瞳。
二十代前半にしか見えない、端整な顔立ちの青年だった。
細身の身体を椅子に預け、穏やかな微笑を浮かべている。
『モリス博士。今日は少しお疲れのようですね』
男が尋ねた。
『……そう見えるかい?』
ダニエルは苦笑した。
『ええ。昨日より目の下の影が濃い。それに、先ほどから右手の指を何度も動かしていらっしゃる。何か気がかりなことでも?』
『大したことじゃないよ。研究がうまくいかなくてね』
『それは残念です。差し支えなければ、お話を伺ってもよろしいでしょうか』
ダニエルは少し迷った末、研究上の問題を説明し始めた。
男は一度も話を遮らなかった。
ただ静かに耳を傾け、ときおり質問を挟む。
やがて彼が何気なく述べた一つの疑問に、ダニエルの表情が変わった。
『……待ってくれ。それなら、神経信号の処理順序を変えれば……』
ダニエルは慌てて手元の端末を操作した。
数分後、彼は驚いた顔で男を見つめた。
『すごい……君の言うとおりだ』
『お役に立てたのなら光栄です』
男は嬉しそうに微笑んだ。
『ですが、気づかれたのは博士ご自身ですよ。私は少し質問をしただけです』
ダニエルは照れくさそうに笑った。
映像が切り替わる。
一年半前。
『君のおかげで、今回の研究が評価されたよ』
『それは素晴らしい。おめでとうございます、博士』
『ほかの連中は、僕の研究なんてまともに見てくれなかった。君だけだよ、真剣に話を聞いてくれるのは』
男はしばらく黙ってから、柔らかく答えた。
『私は博士との時間を楽しみにしています。あなたほど熱心に物事を考える方は、そう多くありませんから』
さらに映像が切り替わった。
一年前。
『昇進の話が出ているんだ』
『当然の評価でしょう』
『そんなことないさ。僕より優秀な人間はいくらでもいる』
『私はそうは思いません』
男は穏やかな表情のまま、まっすぐダニエルを見つめた。
『博士は、ほかの方々が見過ごしていることに気づかれます。それは、とても貴重な才能です』
ダニエルは俯き、少しの間、何も言わなかった。
『……ありがとう』
その声は、わずかに震えていた。
六か月前。
『副責任者になったよ』
『おめでとうございます。心から嬉しく思います』
『君に最初に伝えたかったんだ』
ダニエルは笑っていた。
研究室ではほとんど見せることのない、無邪気な笑顔だった。
『僕には、あまり友人がいなくてね』
男は何も言わず、続きを待った。
『変な話だけど……君と話しているときが、一番落ち着くんだ』
『変ではありませんよ』
男は静かに微笑んだ。
『私も、博士とお話しする時間が何より楽しみです』
監視室に、重苦しい沈黙が広がった。
グレイヴスは映像を止めた。
そして、低い声で尋ねた。
「……この男は、ダニエルに一度でも制御装置を外してほしいと頼んだか?」
研究員が記録を確認する。
「いいえ。そのような発言はありません」
「逃がしてほしいと言ったことは?」
「ありません」
「研究者に対する脅迫や、命令への反抗は?」
「すべてゼロです」
グレイヴスは、しばらく動かなかった。
やがて椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「……そういうことか」
彼の声には、怒りよりも深い恐怖が滲んでいた。
「我々は、あの男が何もしていないと思っていた」
画面には、穏やかに微笑む第一実験体の顔が映っている。
「違ったんだ。あの男は……二年間、ずっとダニエルを観察していた」
誰かが息を呑んだ。
「孤独も、劣等感も、承認されたいという欲求も……すべて見抜いていたんだ」
グレイヴスは拳を握りしめた。
「そして、あいつが自分から制御装置を外すようになるまで、待っていた」
だが、彼らが見落としていたことは、もう一つあった。
第一実験体は、二年前に初めて人間の心理を学んだわけではない。
彼は半世紀以上前から、この施設で生きていた。
幾度もの肉体改造を受け、数え切れない実験を経験し、その間ずっと研究者たちを観察してきた。
そして、それ以前の人生でも、人間が恐怖に支配される瞬間を、誰よりも熱心に研究していた。
人間が何を恐れ、何を求め、どんな言葉に心を動かされるのか。
彼にとって、それは長い歳月をかけて磨き続けてきた技術だった。
ダニエルは、そんな男を友人だと信じた。
自分を理解してくれる、唯一の存在だと。
その信頼が、今夜、第一実験体の制御装置を停止させた。
地下十階。
監視映像には、床に倒れた警備員たちの姿が映っていた。
廊下には血が広がり、壁には無数の弾痕が刻まれている。
その中央を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
第一実験体だった。
右手には、細身の包丁が握られている。
施設の食堂から持ち出した、ごくありふれた調理用の包丁だった。
男は刃先を眺め、少し残念そうに眉を下げた。
「……困りましたね。もう少し切れ味のよいものがあれば、ありがたいのですが」
その先の曲がり角から、五人の警備員が飛び出してきた。
「動くな!」
先頭の警備員が銃を構える。
「武器を捨てて、床に伏せろ!」
男は足を止めた。
そして、申し訳なさそうに微笑んだ。
「せっかくのお申し出ですが、お断りさせていただきます」
「撃て!」
銃声が廊下に響き渡った。
次の瞬間、男の姿が消えた。
いや、消えたように見えただけだった。
常人の視覚では追えない速度で、彼は五人の間を駆け抜けていた。
一人目の警備員が、何かを叫ぼうとした。
だが、その喉から声が出ることはなかった。
二人目は、自分の手から銃が落ちたことに気づき、慌てて拾おうとした。
三人目は、目の前に立つ男の顔を見た。
灰色の瞳。
穏やかな微笑。
そして、自分の身体に何が起きたのか理解した瞬間、その表情が恐怖に歪んだ。
男はその変化を、興味深そうに見つめていた。
「……素晴らしい」
彼は小さく呟いた。
「人は、死を理解した瞬間にこそ、最も美しい表情を見せるのですね」
最後の警備員が、震える手で銃を向けた。
「来るな……来るなあっ!」
男はゆっくりと振り返った。
「そんなに怯えなくても結構ですよ」
柔らかな声だった。
「まだ、始まったばかりなのですから」
次の瞬間、警備員の悲鳴が廊下に響き渡った。
別の監視映像には、巨漢の実験体が映っていた。
身長は二メートルを優に超え、異常なほど発達した筋肉が制服を引き裂いている。
その男は、向かってきた警備員の腕を掴むと、まるで人形でも扱うように持ち上げた。
「うるせえんだよ!」
怒鳴り声とともに、警備員の身体が壁へ叩きつけられた。
鈍い衝撃音が響き、壁面に亀裂が走る。
残った警備員たちは一斉に発砲した。
しかし、巨漢は弾丸を受けても足を止めなかった。
むしろ、痛みを楽しむように口元を歪める。
「もっと撃ってこいよ!」
その咆哮に、警備員たちの表情が凍りついた。
さらに別の通路では、痩せた実験体が警備員の背後に音もなく近づいていた。
男は細い腕を相手の首に回し、ゆっくりと力を込める。
警備員は必死に抵抗したが、その腕は微動だにしなかった。
男は相手の耳元で何かを囁き、苦しげな呼吸が途切れるまで、静かに抱きしめ続けた。
十人の実験体は、それぞれ異なる方法で警備員たちを殺していた。
共通していたのは、彼らがもはや命令に従う兵士ではなく、自由を取り戻した殺人鬼だということだった。
「地下九階の警備班、全滅!」
「第七隔壁、突破されました!」
「地上警備隊との通信も切断されています!」
中央監視室は混乱の極みに達していた。
研究員たちは必死に端末を操作し、警備責任者は残された部隊を再配置しようとしていた。
だが、どの命令も間に合わない。
十人の実験体は、想定を遥かに超える速度で施設内を移動していた。
「所長!」
技術者の一人が叫んだ。
「第一実験体が、地下八階の警備管理室に侵入しています!」
モニターが切り替わる。
第一実験体は、警備員の死体が転がる室内で、端末の前に座っていた。
包丁は机の上に置かれている。
彼は血の付いた指先を布で丁寧に拭うと、画面に向かって操作を始めた。
「何をしている……?」
グレイヴスが呟いた。
直後、中央監視室の画面に新たな警告が表示された。
《施設管理権限 変更》
《非常封鎖システム 再構成》
《中央監視室からの操作 拒否》
「まさか……」
技術者が青ざめた。
「警備管理室の端末から、施設の権限設定を書き換えています!」
「止めろ!」
「無理です! こちらの管理権限が失われています!」
グレイヴスはモニターを睨みつけた。
第一実験体は、こちらの混乱など知る由もないというように、落ち着いた様子で端末を操作している。
いや。
違う。
男はすべて理解していた。
この施設がどのように設計され、どこに弱点があり、どの権限を奪えば研究者たちが無力になるのか。
長年の観察と、ダニエルから得た知識。
そのすべてが、今夜のために使われていた。
「……あいつは最初から、ここまで考えていたのか」
グレイヴスの声が震えた。
そのとき、モニターの中の男が顔を上げた。
まるで、こちらの視線に気づいたかのように。
灰色の瞳が監視カメラを捉える。
男は椅子から立ち上がると、胸に片手を当て、優雅に一礼した。
そして、微笑んだ。
中央監視室のスピーカーから、突然、柔らかな声が流れた。
『皆様、こんばんは』
研究員たちの手が止まった。
その声には、聞き覚えがあった。
『このような時間にお騒がせしてしまい、申し訳ございません』
グレイヴスがマイクを掴んだ。
「第一実験体! 今すぐ行動を停止しろ!」
男は少し首を傾げた。
『おや、グレイヴス所長。ご無沙汰しております』
「ふざけるな! お前が何をしたのか分かっているのか!」
『もちろんですとも』
男は穏やかに答えた。
『ようやく、自由になれたのです』
「お前たちは兵士として造られた! 人を殺すために解放したわけじゃない!」
その言葉に、男は不思議そうな表情を浮かべた。
『兵士、ですか』
そして、静かに笑った。
『実に興味深いお話ですね。人を殺すための能力を与えておきながら、殺してはならないとおっしゃる』
「命令に従って戦うことと、無差別に人を殺すことは違う!」
『なるほど。殺す相手を選ぶ権利は、あなた方だけにあるということですね』
男は納得したように頷いた。
『ですが、残念ながら、私はその考えに賛同できません』
グレイヴスは唇を噛みしめた。
「……何が望みだ」
『望み、ですか?』
「ああ。施設から出たいのなら、交渉の余地はある。これ以上の殺害をやめろ」
男は少し考えるように視線を落とした。
『所長。あなたは、私が何を望んでいるのか、本当にご存じないのでしょうか』
その問いに、グレイヴスは答えられなかった。
研究者たちは、第一実験体の身体能力を測定してきた。
知能を分析し、神経系を調べ、脳の活動を記録してきた。
だが、その男が何に喜びを感じ、何を美しいと思うのか。
その本質を理解しようとした者は、ほとんどいなかった。
『私はね、所長』
男の声が、少しだけ弾んだ。
『人間という存在が、とても好きなのです』
監視室の誰もが、息を潜めた。
『特に、恐怖に直面したときの人間は素晴らしい。強がっていた方が命乞いを始める瞬間。愛する者を守ろうとした方が、自分の命を選ぼうとする瞬間。そして、最後の希望が失われたと悟る瞬間』
男は目を細めた。
『その一つひとつに、ほかでは決して見ることのできない美しさがあるのです』
研究員の一人が、思わず口元を押さえた。
『もちろん、結果だけでは意味がありません。大切なのは、そこへ至るまでの過程です。恐怖、抵抗、葛藤、絶望……そのすべてが揃って、初めて一つの作品になる』
「……狂っている」
グレイヴスが呟いた。
男はその言葉を聞き、少し困ったように微笑んだ。
『そうおっしゃる方は、昔から大勢いらっしゃいました』
そのとき、監視室の奥で女性研究員が泣き崩れた。
「お願い……もうやめて……」
彼女は震える手で携帯端末を握りしめていた。
画面には、幼い少女の写真が映っている。
「明日は……娘の誕生日なの……」
隣にいた同僚が肩を抱こうとしたが、彼女は首を振った。
「まだプレゼントも渡してない……帰るって約束したのに……」
涙が頬を伝い、白衣の胸元に落ちた。
「お願い……帰らせて……娘が待ってるの……」
スピーカーの向こうで、男が小さく息を漏らした。
『……それは、いけませんね』
女性研究員が顔を上げた。
『お嬢様のお誕生日ですか。それは大切な日でしょう』
「だったら……お願い……」
男は優しく微笑んだ。
『ええ。お気持ちは、よく分かります』
その声には、相手を慰めるような温かささえあった。
女性研究員の表情に、ほんのわずかな希望が浮かぶ。
だが、次に男が口にした言葉で、その希望は砕け散った。
『ですが、今夜は皆様にも、大切な役割があるのです』
「……え?」
『どうか、ご安心ください』
男は胸に手を当てた。
『皆様お一人おひとりに、ふさわしい役を用意しておりますので』
女性研究員は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや……いやあ……」
その背後で、警備責任者が叫んだ。
「地下七階の防衛線が突破された!」
監視室にいた全員が、モニターへ目を向けた。
映像には、第一実験体が映っていた。
彼は包丁を片手に、静かな足取りで廊下を歩いている。
床には警備員たちが倒れ、壁には血の跡が残されていた。
男は監視カメラを見上げると、嬉しそうに微笑んだ。
『さて……』
彼はゆっくりと一礼した。
『それでは、紳士淑女の皆様』
その背後で、非常灯が赤く点滅していた。
『どうぞ、最後までお楽しみください』
通信が切れた。
中央監視室には、警報音と女性研究員のすすり泣く声だけが残された。
グレイヴスは、モニターに映る男を見つめていた。
彼は知っていた。
第一実験体が、かつてどのような人間だったのか。
十九世紀末、ロンドン。
霧に包まれた街で、百人を超える人々を殺害しながら、一度も捕まることのなかった男。
死体を人目につく場所に飾り、詩のような文章を添えて残すこともあった。
だが、彼にとって死体そのものは、作品のすべてではなかった。
人間が恐怖し、抵抗し、希望を失い、死へと至るまで。
その過程こそが、彼の求める芸術だった。
そして、今。
半世紀以上に及ぶ人体実験によって、人間を遥かに超える肉体を与えられたその男は、再び自由を手に入れた。
かつてロンドンを恐怖に陥れた、伝説の殺人鬼。
その名は――。
ジャック・ザ・リッパー。
切り裂きジャック。
彼の新たな作品が、今夜、幕を開けた。




