【第二部 風と鎖】第34話 読み違い
マグダは、黒い門の脇の石の台に、通りしなに手を置いた。
冷たい。秋の終わりの朝だ。南の門の水たまりには氷が張っていたし、吐く息も白い。それにしても、この石は冷えすぎている。朝日はとうに当たっているのに、黒い石というのは、日をもらっても返さない。
一年前の秋、四人はこの台の前で足を止めて、誓うかと訊かれた。夏に来たときは、台の上から綴りが消えていた。今朝は、門の内側に、王家の印を胸につけた番人が二人立っている。黒い館の門に、白い王宮の番人だ。
侍従の言づけを聞いて、南の門からまっすぐに坂を上がってきた。荷も下ろしていない。副使のドナートだけは、板を三枚抱えたまま、別の侍従に連れられて王宮の坂を上がっていった。こちらに残ったのは、四人と、ユリアンと、その供の三人。供のあいだに、白かった外套のブルーノが挟まれている。
「十三日歩いて、宿より先に黒い館かい」
マグダは、台から手を離した。
「王妹殿下は、待つのが嫌いと見えるね」
「叔母は、待つのは平気です」
ユリアンが、真面目に答えた。手に、あの板を持っている。
「待たせるのが、嫌いなのです」
◇
広間は、外より冷えていた。
低い天井と、黒い石と、小さな窓。奥の机に、ヒルデが座っている。机の上には、文の山が四つあった。館の物には見えない。白い紙に、王家の印の蝋だ。王宮から運ばせたのだろう。南の王女の文が着いてから二十日、ヒルデは、宰相の机で文を読んでいたことになる。
机の前に、黒い官服の男が立っていた。式官のヴェルナーだ。夏には胸に抱えていた綴りが、無い。腰に下げていた鍵も、無い。空いた右の手の甲に、青い紋が一つ見えた。
壁際には、黒い装いの兵が四人。こちらの右の手にも、同じ青がある。
ヒルデは、読みかけの文を置いて、立った。挨拶は、目だけで済ませた。エルドを見て、ユリアンを見て、その手の板を見る。
「ヴェルナー。あなたの言い分を聞きます。その前に、こちらの持っているものを順に置きます」
審問の席では、裁く側は手の内を先に見せない。見せれば、相手はそれに合わせて話を作る。あたしは、そう教わった。この女は、逆をやる。見せてから、聞く。話を作る余地を、先に潰しておくやり方だ。
「一つ目です」
離して置いてあった一通に、ヒルデの指が載った。白くて厚い紙に、青い蝋。
「南の王女殿下の文です。夏の終わりに、使節の護衛が、北の若君の従士を馬車に乗せて連れ出した。脅しの種は、北の山の村だった、とあります」
ヒルデは、甥のほうへ手を出した。
「二つ目を。ユリアン」
ユリアンが、板を机に置いた。絵の側を上にして。石を載せた屋根が九つと、段になった畑。いちばん上の家の前に、杖をついた小さな人がいる。
板は、南で飽きるほど見ている。マグダが見ていたのは、ヴェルナーのほうだ。
目が、絵の上で止まった。
屋根を一つずつたどって、杖の人の所で動かなくなる。ヒルデが板を裏返して、二行を読み上げた。国境の橋を渡る日、北の使いを引き上げる。ティト。証人、ルーカ。読み上げが済んでも、ヴェルナーの目は、絵のあった所から上がってこない。
知らなかったね、こいつは。
驚きを隠す者の目は、もっと早く逃げる。この男の目は、逃げ方を知らない。自分の渡した物が、絵になって戻ってきた。それを、いま、この机の上で初めて見ている。
「三つ目は、書き物ではありません。従士殿」
ヒルデが、レイフを見た。
「南の護衛は、あなたの村を何と呼びましたか」
「従士の里、と言いました。こちらではそう呼ぶそうだな、と」
レイフは、エルドの後ろから答えた。
「村の者は、そう呼びますか」
「呼びません。村の者は、ただ、村、と言います。町の者は、上の村、と」
「ほかで、その呼び方を聞いたことは」
「一度だけ、あります。城が焼けた冬に、黒い兵が二人、馬で上がってきて、婆さまに訊いたそうです。従士の里はここか、と。春に、婆さまから聞きました」
ヒルデは、うなずいた。それから、机の端の綴りを引き寄せた。背の札に、北、とある。夏に、あたしが文書庫の棚で見た綴りだ。背に埃が乗っていなくて、紐の結び目が新しかった。
「四つ目です」
開いた頁を、ヒルデは声に出して読んだ。
「従士の里。城の下の町より、北へ一日半。沢を二つ越える。——八年前の冬に、この館の兵が書いたものです」
「従士、というのは、俺のことです」
レイフが言った。
訊かれていないのに口を開くのは、この男にはめずらしい。
「そうです」
ヒルデは、綴りから目を上げた。
「あの冬、この館は、あなたを探していました。主を背負って逃げた従士をです。里が分かれば、いつか戻る所が分かる。そう考えた者がいたのでしょう」
「……俺を探して、村へ行ったのですか」
ヒルデは、黙っていた。答えるまでもない、ということだ。
レイフの右の手が、開いて、閉じた。八年前は黒い兵が、今年は南の兵が、この男のことを書いた頁をたどって、あの山へ上がった。婆さまも、ニナも、その頁の上にいる。大きな背中が何を背負いこもうとしているのかは、読むまでもない。
「でかいの」
マグダは言った。
「書いたのは、こいつらだよ。あんたは、書かれただけだ」
レイフは、少しして、はい、と言った。手は、閉じたままだった。
「この綴りのある戸の鍵は、二つです」
ヒルデは、綴りを閉じた。
「わたしは、冬に一度開けました。そのあとで、もう一度開けた者がいる。夏にマグダ=ヴェインが見つけました。——ヴェルナー。春の初めに、南から、使節を出すと告げる一行が来ました。迎えの作法を執ったのは、あなたです。何を訊かれて、何を答えましたか」
ヴェルナーは、板のあった所から、ようやく目を上げた。
「断ち手はどこにいるか、と訊かれました」
抑揚のない声だ。止まりも、つかえもしない。
「北におります、と答えました。大男ではない、その主のほうだ、とも申しました。取り違えたまま連れて行かれては、意味がありませんので」
「従士の里のことは」
「綴りを開いて、道のりを教えました。書いてあるとおりに」
隠す気が、初めから無い答え方だった。
「意味、と言いましたね。何の意味ですか」
「鍵を、この国の外へ出す意味です」
ヴェルナーの目が、エルドへ行った。右の手だ。この男は、いつもそこを見る。
「冬から、同じことを申し上げております。この国の鍵は、何にも繋がれていない。殿下は、誓わせぬと書かれた。繋げぬのなら、置き場を替えるほかにありません」
「置き場、ですか」
「南の王の家は、断ちを継ぐ者を求めぬ、と誓っております。血にも、家にも、入れぬと。閣下のおそばで、あの写しを読みました。箱の鍵を殿下がお持ちになる前のことです。求めぬと誓った家の国です。鍵を置くのに、これより確かな所を、私は知りません」
ユリアンが、叔母を見た。初めて聞く行なのだろう。南の蔵には、入らずに帰ってきた子だ。
「あなたには、あとでわたしから話します」
ヒルデは、甥を見ずに言った。
「いまは、聞いていなさい」
それから、机を回って、ヴェルナーの前に立った。背は、ヴェルナーのほうが高い。見上げているのに、見下ろされているようには見えない女だ。
「あなたは、南の王の家の誓いを読みました」
声は、少しも大きくならない。
「南の将の腹は、読まなかった」
供の一人が、ブルーノを前へ出した。ブルーノは、外套の襟を合わせて、まっすぐに立った。
「セシル殿。その者の持っている証文を読んでください」
セシルが、ブルーノの懐から出た葦の紙の証文を受け取った。
「——ガイウスは、アルデンの丘の者ブルーノを雇う。務めは、口上を先に言うこと。給金は、月に銀貨十枚」
「その口上を、誰が唱えましたか」
ヒルデは、ブルーノに訊いた。
「将軍の兵です。二十六人」
「何と」
「その命のほかに、命を持たぬ、と」
ヒルデは、ヴェルナーへ向き直った。
「南の将は、王の弟です。王の家の者ですから、鍵を自分の家に入れることは、できません。そこは、あなたの読んだとおりです。ですから、将は求めなかった。頼んだのです。互いの国へ軍を進めぬ、と誓った自分の手の紋を、断ってくれと。そのあとで連れて渡るつもりの兵を、先に二十六人、こしらえていました。川べりには、三千です」
「……求めぬ、と誓った家の者が」
ヴェルナーの声が、初めて、一拍遅れた。
「求めるのと、頼むのとは、別だそうです。南の王女殿下が、ご自分の体で確かめておられます。あの誓いは、頼むことまでは止めません」
ヒルデは、板を表へ返した。屋根の絵が、ヴェルナーのほうを向く。
「従士殿は、この村を質に取られて、馬車に乗りました。主は、南へ行きました。あなたの望んだとおりに、鍵は国の外へ出たのです。出た先で待っていたのは、鍵を使う気のある男でした」
「鍵は、戻りました」
ヴェルナーは言った。目は、もうエルドの右の手に戻っている。
「戦は、起きておりません。置き場を誤ったことは、認めます。ですが、鍵を繋がずに歩かせておく危うさは、少しも変わっていない」
「戻ったのは、この子が自分の足で戻ったからだよ」
マグダは、壁から背を離した。
「あんたの読みが当たったからじゃない。それに、ただじゃ済んでないよ。南の王宮の厩で、粉屋の次男が一人死んだ。将軍に誓わされて、やめられなくなった兵だ。斬ったのは、あたしだよ」
ヴェルナーは、マグダを見た。何も言わない。
「もう一人は、斬らずに済みました」
エルドだった。
「門にいた兵です。私が、その兵の誓いを断ちました」
ヴェルナーの肩が、動いた。
「……ご覧なさい」
抑揚のない声に、初めて色がついた。恐れていたことが、本当になった者の声だ。
「鍵は、開けるのです。繋がれておらぬ手は、いつか、開ける」
「はい。一つ、開けました」
エルドの右の手は、体の脇に下ろしたままでいる。
「開ける前に、その兵に訊きました。やめたいか、と。——鍵は、訊きません」
ヴェルナーは、エルドの顔を見た。右の手から目を上げるのは、これで二度目になる。返す言葉は、出てこなかった。
夏、この男の顔は、昔のあたしの顔だと思った。頁のとおりにやった、誤りは無い、と言う顔だ。今朝は、少し違う。この男は、頁の外へ、一歩だけ自分で出た。誰に命じられたのでもない。自分で読んで、自分で決めて、南の兵に道を教えた。
出た先で、読む物を間違えた。
あたしは、三人の顔が見えていて、一枚の頁を取った。どちらが重いかは、量らずにおく。量るのは、ヒルデの役だ。
◇
「ヴェルナー。館を預かる務めを、解きます」
ヒルデが言った。
「殿下」
セシルだった。証文を持ったまま、一歩出ている。
「申し上げます。この方の務めは、誓いです。右の手に紋があります。解く、と告げられても、紋は残ります。……誓いには、解くのを聞く者がおりませんので」
セシルが、南で何日もかけて行き当たった所だ。
「明日の朝も、この方の足はこの館へ向かいます」
「そのとおりです」
答えたのは、ヴェルナーだった。
「私が仕えると誓ったのは、閣下お一人ではない。宰相府です。閣下がおられなくなっても、宰相府は残りました。ですから、紋も消えなかった。鍵を取り上げられても、消えておりません。私の足は、明日もここへ参ります」
誇っているのでも、脅しているのでもない。そうなる、と言っているだけだ。
「知っています」
ヒルデは言った。
「二十日、それを考えました」
それから、広間を見回した。低い天井。擦り減った床。鉄の環を埋めた石。壁際の四人の、右の手。
「人を替えても、宰相府は残ります。宰相府があるかぎり、次に鍵を持つ者が、同じ綴りを開きます。開いて、自分で読んで、国のためだと言って、同じことをするでしょう」
机の上の文の山に、手が置かれた。
「——宰相府を、畳みます」
広間が、静かになった。
「叔母上は、黒いままでよい、と言われました」
ユリアンが言った。
「白く塗って済むものではない、と」
「塗りはしません。畳むのです」
ヒルデの声は、文を一通片づけるときと、少しも変わらない。何百年もこの国の誓いを仕切ってきた役所を、机の上の山を一つ崩すように言う。
「ヴェルナーは、王宮の一室へ。沙汰は、王の名で出します。丘を下りた者は、王宮が預かります。丘は割れていると聞きました。割れた両方へ、文を出します」
「前庭の側への文は、私が書きます」
セシルが言った。
「見たことを、見たとおりに」
門のほうから、番人が二人入ってきた。ヴェルナーは、促される前に、自分で歩きだした。机の脇を通るとき、板の絵に、もう一度だけ目を落としていった。
ヒルデは、もう机に戻って、次の文を取っていた。
壁際の四人は、動かない。
動かないまま、四人とも、自分の右の手を見ていた。
春に、北の林の石の前で、片方の耳の欠けた男が言っていた。御館様が死んで、三日目の朝には、紋が無かった、と。
断たなくても、消える紋がある。




