【第二部 風と鎖】第33話 北へ渡る
エルドは、王宮の門の脇の机で、名簿に名を書いていた。
この国では、出る客も、自分の手で名を書く。南の王都に着いて、四十二日目の朝だった。坂を上がってくる風が、襟から入ってくる。
一つきりの升には、夜明け前に印が付いた。マグダは、約束どおりに起きた。印を見届けて、これで終わりだね、と三度言った。
ペンを置いたとき、門の内から、衣の音が近づいてきた。
リヴィアだった。書記を一人と、副使のドナートを連れている。深い青の上衣に、白い肩掛け。きのうの言づけのとおり、名代の声で言った。
「三千の件だ。書かせた」
書記が、証文を机に広げた。
——アルデンの北の家のエルド=ファーレンは、川べりの三千の行く先について、考えを書いて、メリディアの王の名代に届ける。期限は、次の春、国境の橋を荷車が渡れるようになる日まで。書けぬときは、書けぬと書いて届ける。罰は無い。
「罰は、付けないのですか」
「継いでおらぬ者に、払える物は無かろう」
「解く条は」
「無い。届けば済む約束だ。届くまでは、解けぬ。……鎖と呼ぶなよ。期限がある」
名を書いた。証人は、ユリアンと、宮廷の老いた書記だった。
リヴィアは、後ろのドナートへ顎を引いた。ドナートは、旅の外套を着て、板を三枚も抱えている。
「名代の使いとして、この者を付ける。関と商いの取り決めを、王妹殿下と結び直させる。春に、そなたの返事を受け取るのも、この者だ」
「北の方の申されることを、申されたとおりに書く稽古を、いたしとうございまして」
ドナートは、額の汗を拭いた。
踏み場の話は、風だ。リヴィアは、それには一言も触れない。かわりに、王宮の奥のほうへ目をやった。
「父上は、今朝、寝台から椅子まで歩かれた。三歩だ」
「では、名代は」
「広間の椅子までは、あと四十歩ある。そのあいだは、わたしだ」
リヴィアは、右の手のひらを上に向けて差し出した。左の手が、添えてある。エルドは、同じ形で返した。何も載せていない手が、門の内で向かい合った。
名簿の役人が、書かれた名を読み上げた。
「エルド。マグダ。セシル。レイフ」
入るときは、三つだった。四つ目の名の持ち主は、あの日、一日先に、馬車でここをくぐっている。四つ続けて呼ばれるのは、これが初めてだ。
「通れ」
門の脇の兵が、嗄れた声で続けた。背が低くて、肩幅の広い男だ。サンドロは、二十年立った門に戻っていた。
ユリアンの列が、あとに続いた。供の三人のあいだに、白かった外套の男が歩いている。
門の外に、ジュリアが立っていた。亭主と、十二、三の娘も一緒だ。
「マグダ! 黙って発つ気だったのかい」
「ジュリア。湯屋に、言づけといたろ」
ジュリアは、布の包みをマグダの胸に押しつけた。
「干した葡萄だよ。北は、もう寒いんだろ」
「寒いよ。……亭主の歯を、来年は折らせるんじゃないよ」
「折れやしないさ。来年は、騎士さまの決まりがある」
セシルが、外套の内側から、畳んだ写しを一枚出した。娘の前に、差し出す。
「腕比べの決まりです。三つ、写しておきました。祭りの日は書けないそうですので、読み上げる人が要ります」
「あたしが、読みます」
娘は、両手で受け取った。亭主が、欠けた歯を見せて笑った。
坂を、下りた。
◇
三日目の晩は、街道の宿に泊まった。
道の両側は、葡萄の畑だ。葉は落ちて、蔓だけが杭に巻きついている。道の脇の石の柱は、一つ過ぎるたびに、刻んだ数が一つ増えた。南の王都から、それだけ離れたということだ。
膳のあと、宿の広間の隅で、エルドは四冊目を開いた。
今朝の分は、もう書いてある。門を出た次の朝から、一行ずつだ。
——今日も、お願いします、と言った。今日も、と返ってきた。
同じ一行が、二つ並んでいる。明日は、三つになる。証人も、升も無い。書いた行だけが、ある。
それから、頁を春まで戻した。
山の村の頁だ。春に、自分の手で書いた。
——クヌート。ヨープ。ラルス。
終わりが、三つとも跳ねていた。
寄り合いの小屋の晩は、いまも、ある。隅にいた三人に、名を訊いた。いちばん年上の男が、少し黙ってから口を開いた。そこまでは、ある。口が動いて、音が出たはずの所だけが、白い。
三つの顔は、浮かぶ。三つの名は、目の前にある。どの名がどの顔のものなのかが、結べなかった。聞いた音は無くなったのに、それを書いた手の勢いだけが、頁に残っている。
「眉」
向かいで、マグダが杯を置いた。
「あんたは、分からないもんを前にすると、そこが寄る。十四のころからだ」
指で、眉のあいだを押さえた。
「教えましょうか」
後ろで、レイフが言った。
「年かさの人が——」
「いいえ」
遮ってから、言い方が強かったと思った。
「……本人に、訊きます。名は、あの人たちのものです。頁から覚え直すより、会って、もう一度訊くほうが、筋が合います」
「はい」
「怒るでしょうか。二度も訊くのか、と」
「怒りません。あの人たちは、二度訊かれたら、二度答えます」
レイフは、春の頁を上から見下ろしていた。自分の村の頁だ。
隣の机では、ユリアンが、ドナートに何か言って聞かせていた。ドナートは、板にそれを書いている。
「叔母上。私の足は、国境の橋で、なぜ止まったのでしょうか。……どうですか」
「申されたとおりに、書きました」
「書けたかどうかではなく、訊き方として、どうですか」
「は。私めには、何とも。申されたことを、申されたとおりに書くのが、こんどの務めでございますので」
「回りくどいね」
マグダが、杯を持ったまま言った。
「足が止まった、あれは何だい、でいいだろ」
「叔母に、何だい、とは言えません」
「……いまのも、書きますか」
ドナートが、ペンを浮かせた。
「書くな」
マグダとユリアンの声が、揃った。
ユリアンは、板から顔を上げて、こちらを見た。
「エルド殿。あなたは、蔵で読んだのでしょう。中身は、言わないでください。叔母の口から聞きます。ただ、一つだけ教えてください。あれは、叔母が自分で選んだことですか」
少し、考えた。六行のどこにも、ヒルデの名は無い。あるのは、我が血は代々、の一句だ。
「いいえ。選んでは、おられません」
「そうですか」
ユリアンは、板に目を戻した。
「では、責める訊き方は、やめておきます」
◇
七日目の昼に、川が見えた。
関の手前で、道は川べりを通る。赤茶の旗が、点々と並んでいた所だ。
旗は、一本も立っていなかった。
天幕は、まだある。数は、減っていない。竈の煙が、あちこちで上がっている。旗を下ろした兵たちが、鍋のまわりにしゃがんでいた。槍は、束ねて立ててある。
三千と、少し。出のほうに書いた数は、旗が無くなっても、一人も減っていない。春までに、と門で名を書いた。
関では、役人が、出る客の名を板に写した。
「客人、エルド=ファーレン。連れは、三人」
役人は、板を繰った。
「入るときは、二人であった」
「一人は、先に来ていました」
役人は、レイフを見上げた。目が上まで行って、それで得心がいったらしい。板に、何か書き足した。
橋の上は、風が冷たかった。水と、泥の匂いがする。
真ん中に、敷石の色の変わる所がある。ユリアンは、白かった外套の男の腕を取って、その境を越えた。越えてから、自分の足を見下ろして、長い息を吐いている。
「押す手間が、省けたね」
マグダが、その脇を追い越していった。
エルドは、色の変わる敷石を踏んだ。
来たときは、この橋までの道で、何度も振り向いた。声をかければ、はい、と返ってくる所へ、声をかけようとして。振り向くたびに、道しか無かった。
今日は、振り向かなかった。
後ろに、足音がある。重くて、急がない足だ。すぐ後ろにいることは、見なくても分かる。
「レイフ。南へ来るときは、渡りきるまで、北の岸を見ていたそうですね」
前を向いたまま、言った。橋の番の兵が、そう教えてくれた。
「はい。屋根が九つあるほうを」
「今日は」
「前を、見ています。見るものが、みな前にあるので」
北の岸が、近づいてくる。石の門と、柵と、兵舎が一棟。その向こうに、刈り株だけになった畑が広がっていた。
橋の残りを歩くあいだに、ユリアンが隣に並んだ。連れてきた男は、もう供の手に戻してある。
「エルド殿。渡りきる前に、伺っておきたいことがあります。……殿、を外してもよいでしょうか」
「なぜですか」
「南では、みな名で呼びました。門でも、湯でも。あれは、良いものでした。橋を渡ったら元に戻すのが、惜しくなったのです」
「私のほうは、外せません。誰にでも、こうですので」
「知っています。あなたは、そのままでいてください」
ユリアンは、前を向いた。
「では。——エルド」
呼んだとたんに、ユリアンは早口になった。
「叔母の前でも呼べるかどうかは、王都に着くまでに考えます」
◇
関の隊長は、門の前で待っていた。髪に白の混じった、声の嗄れた男だ。ユリアンの前で、片膝をつく。
「殿下。旗が、下りました。半月前の朝です。十二本、いっぺんにでございました」
「見てきました」
「あれが何をするための数だったのか、私どもには、とうとう見当がつきませんでした」
隊長は、真面目な顔で言った。
「見当のつかぬまま済んで、ようございました」
関を抜けた先の市で、銅貨を替えた。
厚い銅貨一枚が、アルデンの銅貨二枚になる。袋の中の六枚が、十二枚になった。明日の朝から、レイフの手のひらには二枚載る。
「多いです」
レイフが言った。
「同じ値です。枚数が、倍になっただけです」
「一枚で、足ります」
「足りません。こちらの一枚では、きのうまでの半分です」
「橋を渡っただけで、給金が倍かい」
マグダが、喉の奥で笑った。
「いい口だね、でかいの」
畑のほうから、風が来た。冷えた土の匂いがする。
「北は、もう霜です」
レイフが、北の空を見て言った。
「峠は、初雪より先に閉じます。上のほうから、凍るので」
「王都から、二十日でしたね」
「はい」
その晩、関の宿場で、四冊目に一行書いた。
——南の王都の、坂の踏み場で、風の話を聞いた。半分、とだけ書いておく。
橋は、もう渡った。書いても、証文にはならない。
◇
六日後の朝、王都の南の門が見えた。
道の水たまりに、薄い氷が張っている。踏むと、音を立てて割れた。高台の白い王宮は、朝の日を受けて、遠くからでも分かる。裾の黒い館は、ここからでは屋根しか見えない。
門の内に、王宮の侍従が一人、立っていた。ユリアンに頭を下げて、それから、エルドの前へ来た。
「北の若君。王妹殿下からの言づけでございます。南の王女殿下の文は、二十日ほど前に着いております」
侍従は、声を落とした。
「——鍵の一つを、取り上げました。板を持って、その足で黒い館へお越しを、と」
マグダの足が、止まった。
「……数え直したね、あの女」
「何の鍵ですか」
「夏に、黒い館の文書庫でね。北の綴りの背にだけ、埃が乗ってなかった。冬より後に、誰かが開けてる。王妹に、そう言っといたんだよ。あの戸の鍵は、二つだ。王妹のと、もう一つ」
ユリアンが、荷から板を出した。屋根が九つの絵だ。裏に、名が二つある。
「北の綴り」
後ろで、レイフが低く言った。
「夏の終わりの晩に、南の兵は、村のことを、従士の里と呼びました。八年前に、黒い兵が婆さまに訊いたのと、同じ呼び方です。村の者は、そうは呼びません」
マグダが、ゆっくり振り向いた。
「……書き付けの上の呼び方だね、そりゃ」
高台の裾で、黒い屋根が、朝の日を吸っていた。




