【第二部 風と鎖】第32話 半分
エルドは、四十番目の升に印が付くのを見ていた。
夜明け前の客殿だ。南の王都に着いて、四十一日目になる。川べりの旗が下りたという知らせは、きのう届いた。橋への道が、開いた。発つのは、明日だ。
窓の外で、鳥が一羽だけ鳴いている。机の板は、手を置くと冷たい。
「今日も、お願いします」
「今日も」
セシルの炭が、最後の升に入った。八つずつ、五段。端を揃えて引いた四十の升が、みな埋まった。
小さい袋を、逆さにした。銅貨が一枚、手のひらに落ちる。冬に川の町で帳付けをした稼ぎの、最後の一枚だ。それを、レイフの手のひらに載せた。
「四十枚目です」
「……はい」
レイフは、いつもより少し長く、その一枚を見ていた。
「四十日、起きたよ」
マグダが、あくびを噛みながら言った。
「……起きたけどね」
「明日の朝のぶんの升が、ありません」
セシルが、証文の端を指で押さえた。
「印を付ける升が無ければ、レイフの一日は、明日の朝で切れます。門を出るまでのあいだ、どの欄にも載らないことになります」
「二枚目が、要りますね」
「はい。書き賃は、二枚です」
書き賃なら、ある。この半月、三日に一度、辻の代書人の台の脇で、写しの数を合わせる手伝いをしてきた。日に三枚で、五日。十五枚が、別の袋に入っている。
◇
日が出てから、四人で坂を下りた。
辻の日除けの布は、畳んであった。布の要る日差しは、半月前に終わっている。朝の辻は石が冷えて、葦の紙の乾いた匂いだけが、着いたころと変わらない。
台の向こうで、コルネリアが顔を上げた。四十年、ここで人の約束を書いてきた代書人だ。
「若君。今日は、お手伝いの日ではございませんよ」
「今日は、客です。雇いの証文を、もう一枚お願いします」
台の前には、先に一人いた。若い男が、背を丸めて名を書いている。右の手の甲に、白い細い線があった。
「マッテオ」
セシルが呼んだ。マッテオは振り向いて、ペンを持ったまま頭を下げた。
「槍は、返しました。畑の口です」
「雇い主は、キアラ様でございます」
コルネリアが、証文を読み上げた。
「葡萄の木が三十本。年限は、次の収穫まで。解く条は、どちらからでも」
「鍬なら、家で持ってました。あれは、初めから俺の腕で持つ重さです」
マッテオは、証文を畳んで懐に入れた。坂を下りていく背中が、門で見たときより軽い。
番が来た。
「前と同じ条で、よろしゅうございますか。年限は一日、毎朝結び直す。給金は銅貨一枚。解く条は、どちらからでも、罰は無し。……升目は、幾つお引きしましょう」
定規がわりの板が、こちらへ回ってきた。
国境の橋まで、七日。そこから王都まで、六日だ。
「十三——」
「橋の向こうに、帳簿はありません」
レイフが言った。
板を持った手が、紙の上で動かなくなった。
言われてみれば、そうだ。升は、この国の宮廷の帳簿に載せるために引いた。門を出れば、載る帳簿が無い。橋を渡れば、証文そのものが要らない国へ帰る。
「証人の務めも、橋までです」
セシルが言った。
「この国の証文ですので。橋の向こうでは、私とマグダは、聞く役を下ります」
「下ろしとくれ。夜明け前に起きるのは、明日で終わりにしたいね」
升が無くなっても、レイフは困らない。証文も証人も無しに、八年、水を汲む前に決めてきた男だ。元に戻るだけだろう。
自分の側は、どうなるのか。
四十日、毎朝、今日もお願いします、と言ってきた。条にそうあるから、言ってきたのだ。条が無くなったあとも言うのかどうかを、まだ決めていない。訊かれているのは、升の数ではない。いつまでの、何の約束なのかだ。
「……まだ、決められません」
エルドは、板を台に戻した。
「夕方まで、待ってもらえますか」
「書き賃は、同じでございますよ。升が一つでも、百でも」
コルネリアは、ペンを置いた。
坂の上から、侍女が一人、下りてきた。リヴィアの侍女だ。
「北の若君。姫様が、日の傾くころ、坂の踏み場でお待ちです。お供は、お一人で、と」
◇
踏み場は、坂の途中の、道の脇にあった。
石で囲った、浅くて広い桶のようなものだ。着いた日には、男たちが裸足で葡萄を踏んでいた。いまは、洗って干してある。石の継ぎ目にだけ、紫が残っていた。来年の秋まで、ここには誰も入らない。
リヴィアは、囲いの縁に腰を下ろしていた。白い肩掛けを羽織って、胸に青い石。髪は、束ねずに背へ流してある。侍女は、坂のずっと上に立っていた。声の届かない所だ。
風が、坂の下から上がってくる。屋根の向こうに、北へ行く街道が白く見えた。
胸から上を傾けると、リヴィアは、隣の縁を手で示した。人一人ぶんを空けて、座った。レイフは、三歩うしろに立っている。
「相変わらず、客の距離だな」
「はい」
「ここには、証人がおらぬ。書記もおらぬ」
リヴィアは、空の踏み場を見て言った。
「名代は、朝から晩まで、言うことをみな書かれる。ここで言うことは、書かせぬ。風だ」
「祭りでは、ありませんが」
「祭りでなくとも、風は吹く」
言ってから、リヴィアは声を少し改めた。
「先に、風でない話を一つ済ませる。川べりの三千だ。答えを出してから書いて持ってこい、とわたしは言った。期限を付ける。春だ。雪が解けて、橋を荷車が渡れるようになるまでに持ってこい。蔵は、冬までしか保たぬ。冬のあいだは、わたしと父上が何とかする。春から先は、何ともならぬ」
「初雪までに、継ぐかどうかを答えます。継いだら、書きます。継がなければ——」
「書けぬ、と書いて寄越せ。返事の無いのが、いちばん困る」
「はい」
「これは、明日、門で書かせる。証人も立てる」
リヴィアは、そこで初めてこちらを向いた。
「では、風のほうだ。祭りの晩に、そなたは三つ目の話をした。誓約と、証文と、風のだ。短いほうを、もう一度言え」
あの晩のことは、覚えている。覚えているので、耳が熱くなった。
「……それでも守られている風があるなら、守っているのは、その者です。ほかの何も、守らせてはいません」
「酒が無くとも、言えるのだな」
「短いほうなら、言えます」
「長いほうは」
「お聞きになりますか」
自分の声が、少し弾んだ。
「要らぬ」
リヴィアは、即座に言った。目が、少し細くなっている。
◇
「庭で、わたしは、それは主従といえぬと言った」
細くなった目が、元に戻った。
「取り下げはせぬ。わが国の帳簿に、そなたらを載せる欄は、いまも無い。四十日、雇いの欄に間借りをさせただけだ。明日、そなたらは門を出る。間借りも終わる。——訊く。これが最後だ」
黒い目が、まっすぐに来た。
「そなたらは、何だ」
答えるまでに、少しかかった。いつまでの、何の約束なのか。朝は、それを決められずに、台の前から引き返した。
「順に、申し上げます」
息を、一つ入れた。
「庭では、私の側に何もありませんでした。回廊では、一つでした。銅貨を一枚払った、と申し上げました」
「聞いた。揃っておらぬ、と言った」
「いまは、四十枚です。それから、剣を一晩、膝に載せて預かりました。待っていろと言って、朝を待たずに行きました。刃の前に、一度立ちました」
並べてみると、片手で足りた。
「レイフは、毎朝決めてきました。八年ぶんです。私が決めたのは、この秋の、四つか五つです。届きません」
「足りぬのだな。庭と同じか」
「足りません。ですが、庭とは違います。あのときは、足りないものが何なのかも分かりませんでした」
リヴィアは、しばらく黙っていた。それから、指で石の縁を一つ叩いた。父親と、同じ叩き方だった。
「ならば、ほかの名を付けよ。欄の名は、そなたが決めてよい。名代の名で、帳簿に一つ足させる。誓いでも、血でも、雇いでもない者を載せる欄だ」
帳簿に載らないものは無いものだ、と言ってきた人が、帳簿のほうを変えると言っている。
胸から上を、傾けた。
「お気持ちだけ、いただきます。名は、主従で足ります」
「足りると、なぜ言える」
「レイフが、そう呼ぶからです。八年、毎朝、自分で決めてきた男が、私を主と呼びます。私の側の数が足りないからといって、その呼び方を私が別の名に替えるのは、筋が違います」
「従う側の言い分で、主になるのか。庭で、わたしはそれを退けたぞ。主の側の言い分を言え、とな」
「はい。足りないのは、名ではありません。私の側の朝です。足りない分は、私が書きます」
「書く、とは」
リヴィアは、石の縁に手を置いて、先を待っている。
「明日の朝の升で、証文は終わります。橋を渡れば、証人もいません。私は、条にそうあるから、毎朝、今日もお願いします、と言ってきました。条が無くなっても、言います。言って、それを四冊目に書きます。毎朝です」
「書いて、どうなる」
「私の側の朝が、一つずつ増えます」
「八年に、追いつくのか」
「追いつきません。向こうも、毎朝足しますので」
リヴィアは、声を立てずに笑った。
「埋まらぬと知っていて、足すのか。勘定の合わぬ帳簿だな」
「差し引きは、出さない帳簿です。陛下にも、そう申し上げました」
「父上は、呆れておられた」
「はい」
笑いが、ゆっくり引いていった。
「載らぬものは無いものだ、と、わたしは二度言った。三度目は、言わぬ。載らぬものが、四十日、わたしの目の前にあった。無いとは、もう言えぬ」
◇
「もう一つ、風にしておきたい話がある」
リヴィアは、空の踏み場へ目を戻していた。
「アルデンの書庫で、わたしは、わたしと、ではどうだ、と言った。そなたは、値が分からぬと答えた」
「はい。訳を伺ったら、冗談だと言われました」
「冗談であった」
言葉が、そこで切れた。石の継ぎ目の紫を、黒い目が見ている。
「……半分は」
何と受ければいいのかが、分からなかった。分からないことは、たぶん顔に出ている。
「半分、ですか」
「残りの半分は——」
声が、切れた。
口は、次の音の形をしている。息が、そこへ行かない。白い肩掛けの肩が上がって、下りた。蔵で見たのと、同じ止まり方だった。
リヴィアは、もう一度、息を吸った。言えないと分かっていて、言おうとしている。喉に、細い筋が立った。
「リヴィア。言わなくていい」
白い肩が、止まった。
「……止まる所は、見ました。見たら、見たと言う。蔵で、そうお約束しました」
リヴィアは、長いこと、こちらを向かなかった。指が、胸の青い石の上にある。
「いまのは、止められた」
指が、石から離れた。
「ここからは、わたしが止める。わたしは、求めぬと誓った家の者だ。だから、半分で止める」
「はい」
「返事は、要らぬ。半分の話に、返事は付かぬ」
それから、少し声を落とした。
「付けるな。聞けば、わたしは、求めたことになる」
返せる言葉を、持っていなかった。残りの半分が何なのか、見当はつく。つくが、それをどう量ればいいのかを、自分は知らない。一年と少しぶんしか、自分を知らないのだ。
「値は、いまも分かりません」
返事ではない、と思う。分からないものを、分からないと言っただけだ。
「知っている。そなたは、分からぬものを、分からぬと言う」
リヴィアは、立った。上衣の裾を、手で一度払う。
「湯の外で、呼んだな」
「好きに呼べ、と言われました」
「言った。取り消しはせぬ」
リヴィアは、坂の上へ体を向けた。
「……効きすぎるな、外では」
言い終える前に、もう坂を上がりはじめていた。侍女が、あとに続く。白い肩掛けの背は、一度も振り向かなかった。
踏み場に、風だけが残った。
「レイフ」
「はい」
「聞こえていましたか」
「三歩ですので」
それは、そうだ。
「毎朝は、多いです」
レイフは言った。升のあとの、朝の話だろう。
「多いですか」
「帳面が、冬までもちません」
「五冊目を買います」
「……はい」
エルドは、石の縁から立った。
「それから、いまの終わりの話は、書かずにおきます。風だと言われました」
「風は、書いてはいけないのですか」
レイフが訊いた。言われてみれば、そこまでは聞いていない。この国では、書けば証文になる。証文にされては、あの人が困るだろう。
少し、考えた。
「橋を渡ってから、書きます」
後ろで、鼻から短く息の抜ける音がした。
◇
辻へ下りると、コルネリアは台を畳みかけていた。
マグダとセシルが、台の脇で待っている。マグダは、こちらの顔を見た。
「ちび。あんた、いつもは顔に全部出るのに、今日は半分しか出てないね」
「……半分、ですか」
「何だい」
「いいえ」
マグダは、それ以上は訊かなかった。
「決まりましたか」
コルネリアが、ペンを取り直した。
「升は、一つでお願いします」
「一つ」
「明日の朝のぶんです。門を出たら、あとは、私が書きます」
コルネリアは、紙とこちらの顔を見比べた。
「四十年で、いちばん短い約束でございますよ。……よい帳付けは紙を惜しむ、とは申しましたが」
「惜しんだのでは、ありません。要るぶんだけです」
升は、自分で引いた。一つきりの升には、端を揃える相手がいない。
コルネリアが、条を書いた。一枚目と、同じ条だ。レイフが名を書いて、エルドが書いた。
「証人は、どなたが」
「あたしと、白いのだよ」
マグダが、袖をまくった。
「一回ぶんなら、起きてやるよ」
セシルは、名を書いてから、解く条の行を指で押さえた。
「明日の朝まで、聞く役です」
「最後まで、聞かずに済みそうだね」
「はい。たぶん」
書き賃の二枚を、台に置いた。袋には、十三枚残っている。証文が終わっても、朝の一枚は払う。払うのは、書くうちに入らない。明日の朝と、道の十二の朝で、ちょうど王都までだ。その先のぶんは、王都でまた稼ぐ。
日が、坂の向こうへ入っていく。王宮の門は、もう日の入りには閉じない。
坂を上がりかけた所へ、朝の侍女が、もう一度下りてきた。
「北の若君。姫様からの言づけでございます。明日の朝は、門でお見送りをなさいます。——名代として、と申し添えるように、とのことで」
名代として。
踏み場の縁に座っていた人は、明日の門には来ない、ということだ。
「承りました、とお伝えください」
開いたままの門の上で、青い旗が、五本の穂を見せていた。明日、あの門を出る。




