【第二部 風と鎖】第35話 最後の箱
エルドは、黒い門の前で、触れが読み上げられるのを聞いていた。
王都に戻って、二日目の朝だ。坂の石畳は、日の当たる所から乾いていく。黒い門の前だけは、霜が白く残っていた。
「——王ゲオルクの名において、触れる。宰相府を、今日かぎりで廃する。務めは、王宮が引き取る。文書は、王宮の書庫へ移す。館は、閉じる」
侍従の声が、坂の下まで響いた。荷車を引いていた男が足を止めて、口を開けている。何百年もそこにあった役所が、五つの文で無くなった。
読み上げた侍従の隣に、ヒルデが立っている。今朝も、坂を歩いて下りてきた。門の前には、館の者が並ばされていた。黒い装いの兵が六人と、書記が三人。兵は六人とも、右の手の甲に青い紋がある。
「宰相府に仕えると誓った者は、聞きなさい」
ヒルデの声は、侍従の声より小さいのに、よく通った。
「仕える先が、今日で無くなります。紋は、三日で薄れます。あなた方は、誰も、何も破っていません。薄れたあとのことは、一人ずつ、王宮が聞きます」
兵の一人が、自分の右の手を見てから、顔を上げた。三十を少し過ぎたくらいの、顎の張った男だ。
「殿下。明日の朝、私どもは、どこへ立てばよろしいのでしょうか」
「三日は、ここへ。文書を運ぶ手が要ります。足は、明日もこの門へ向かうはずです。向かわなくなったら、王宮へ上がりなさい」
男は、もう一度、手を見た。
「館は、壊すのですか」
ユリアンが訊いた。
「閉じます。石は、崩しません」
ヒルデは、門の奥の、低い屋根を見た。
「下に、人が一人おります。墓を暴くことは、王宮はいたしません」
一年前の秋に、この館の床の下に残った人のことだ。帳面で読んだ。
春に、北の町で聞いた。父と母の墓を、この館は許さなかった。その館が、あるじを下に入れたまま、門を閉じられる。許さなかった館のほうが、墓になるのだ。
ヒルデは、後ろに控えていた男を呼んだ。髪の薄い、五十がらみの男だ。王宮の書庫番だという。
「文書庫の綴りを、三日で上げなさい。背の札と目録を、一つずつ合わせてからです。館の書記の数えを、そのまま信じてはなりません」
「殿下。古い言葉の札が、半分ほどございます。読める者は、私のほかに二人。二人とも、南の使いとの取り決めの写しに取られております」
「古い言葉なら、読めます」
口が、先に出ていた。ヒルデが、こちらを見た。
「数を合わせるのも、できます。冬に、川の町で帳付けをしました。秋は、南の王都の辻で、写しの数を合わせていました。——手伝いではなく、雇っていただけますか。今朝、袋が空になりました」
夜明けに、いつものように言った。今日も、お願いします。今日も、と返ってきた。小さい袋を逆さにしても、何も落ちてこない。国境で替えた十二枚は、きのうの朝で終わっていた。払いは晩に、と言うと、レイフは、無くても決めます、と答えた。それでも、払う。払うと言ったのは、自分だ。
「王宮の客に、銅貨で払うのですか」
「客のままでは、稼げませんので」
ヒルデは、少しのあいだ、エルドを見ていた。それから、書庫番へ顔を向けた。
「古い言葉の読める数え手は、日にいくらですか」
「十六枚でございます」
「では、十六枚。三日ぶんです」
日に十六枚で、三日。四十八枚になる。朝に二枚ずつなら、二十四の朝だ。王都の残りの朝と、北の町までの二十日で、ちょうど足りる。
ヒルデは、こちらへ向き直った。
「多くも少なくも、いたしません。決まった値です」
「はい。ありがとうございます」
後ろで、レイフが息を吸って、何も言わずに吐いた。
◇
文書庫には、窓が無い。
燭台を四つ入れても、棚の奥は暗かった。書庫番が棚から綴りを下ろし、エルドが背の札を読み上げる。館の若い書記が、目録の行に印を付ける。合ったものから、箱に詰める。箱は、兵が担いで坂を上がる。それを、朝から晩まで繰り返した。
半刻もしないうちに、指の腹が灰色になった。何百年ぶんの埃だ。布で拭いても、次の一冊でまた同じ色になる。爪のあいだにまで入ってくるのが、どうにも気になった。
箱は重い。兵は、二人で一つを運ぶ。レイフは、両脇に一つずつ抱えて、黙って坂を上がっていった。戻ってくるたびに、兵たちの見上げる角度が、少しずつ変わっていく。
北、と札のある綴りは、初めの日の昼に回ってきた。
読み上げようとしたとき、戸口に人が立った。ヒルデだった。
「その綴りには、北の代官に宛てた命が綴じてあります」
エルドは、綴りを持ったまま、顔を上げた。
「読むのは、代官の口から聞いたあとになさい。あの者は七年、それを言えずにおりました。三日たてば、言えます」
北の町の宿の机で、なぜ、と訊いたとき、代官の口は三息のあいだ止まった。お答えいたしかねます、と言った。襟が、喉まで立っていた。
「宰相府が無くなれば、宰相府のために縛られた口は、縛るものを失います」
「殿下は、それで、畳むと決められたのですか」
「それだけでは、ありません」
ヒルデは、綴りに目を落とした。
「それも、あります」
戸口は、すぐに空いた。エルドは札を読み上げて、綴りを箱に入れた。開かずに、だ。
箱を担ぎに来たのは、今朝、門の前でヒルデに訊いた兵だった。
「名を、聞いてもよいですか」
「ルッツだ」
兵は、箱の縁に手を掛けたまま言った。
「八年、あの門に立った。去年の秋に、あんたらが誓わずに通るのを見たよ。四人ともだ。あんな客は、初めてだった」
晩に、書庫番が十六枚を数えてよこした。二枚を、レイフの手のひらに載せた。
次の朝、ルッツは、箱を下ろしてから右の手を出して見せた。
青が、浅くなっている。きのうは、日に焼けた肌の上でもはっきり見えた線が、水で薄めたような色だ。
「洗っても落ちなかったものが、洗いもしないのに落ちていく」
「痛みますか」
訊いたのは、セシルだった。前庭へ送る文に書くのだと言って、朝から文書庫の戸口に立っている。
「いや。何も」
「色が浅くなって、三日目の朝には、ありません。父が、そうでした」
セシルは、ルッツの手を見ていた。
「毎朝、見ました。父は、そのあと、手を袖に入れて暮らしました。……入れなくていいと、私は思います。破って消えた紋では、ないのですから」
ルッツは、黙って自分の手を見ていた。その日は一日、右の手を袖から出したまま、箱を運んでいた。
三日目の朝も、ルッツは門に来た。
「今朝は、足が向かなかった。箱が残ってるから、来た」
右の手の甲には、何も無い。痕も無い。メリディアの王宮の門で断った兵の手には、白い細い線が残った。こちらは、初めから何も無かった手のように見える。
ルッツは、その手を、箱を抱えてきたレイフの前に出した。
「あんたは、初めから無いんだったな」
「はい」
「紋が足を運んでくれないのに、毎朝、どうやって主の所へ行くんだ」
レイフは、箱を下ろした。
「決めます。朝、今日も仕えるかどうかを。決めてから、水を汲みます」
「決まらなかったら」
「決まらなかった朝は、ありません」
少し考えてから、レイフは足した。
「決まらなかったら、先に水を汲みます。汲んでいるうちに、決まると思います」
ルッツは、声を立てずに笑った。それから、詰め終えた箱を一つ、一人で担いで坂を上がっていった。きのうまでより、足が遅い。遅いなりに、一度も下ろさずに上がっていく。
◇
その晩、棚は空になった。
目録の最後の行に、書記が印を付けた。数は、合っていた。書庫番が燭台を二つ持って出ていき、残りの二つの火が、空の棚を照らしている。棚板に、綴りの形の跡だけが、埃の薄い四角になって並んでいた。
いちばん奥の棚に、一つだけ残っているものがある。
平たい、黒い箱だ。目録の、どの行にも無い。
「それは、人には運ばせません」
ヒルデが、戸口から入ってきた。ユリアンが、あとに続いている。ヒルデは、黒い箱を自分で下ろして、真ん中の机に置いた。
夏に、この部屋で、自分は棚二つぶん手前に立たされた。字の読めない所だ。今夜は、机の脇にいる。
「叔母上」
ユリアンが、背筋を伸ばした。道のあいだ、何度も言い直していた問いだ。
「私の足は、国境の橋で、なぜ止まったのでしょうか」
ヒルデは、袖から小さな鍵を出した。箱が開く。端の茶色い、古い写しが一枚。それを、ユリアンのほうへ向けて置いた。
「お読みなさい。古い言葉ですが、あなたも習ったはずです」
ユリアンは、読んだ。声には出さない。目が、上から下へ、ゆっくり下りていく。三つ目の行のあたりで、止まった。それから、自分の右の手の甲を見た。
「……渡さぬ、とあります」
「あります」
「では、夏に、叔母上がエルドに供を付けられなかったのは」
「呼び方が、変わりましたね」
「橋の上で、許しをもらいました」
ユリアンは、早口で言った。ヒルデは、それ以上は言わずに、こちらを向いた。
「エルド殿。勅に期限を書かなかった理由を、初雪のあとにお話しすると申しました。あなたは、南でご自分で読まれた。待つ理由が、無くなりました」
「はい」
「王の家は、あなたを国の外へ渡せません。渡さないのではない。渡せないのです。あなたが南へ行くと言われた朝、わたしは、供を付けると言おうとして、声が出ませんでした」
揺れない声が、自分の止まった所を、帳簿の一行のように読み上げる。
「誓わせても、あなたは断てます。押せば、あなたは去ります。去る者を国の内に留める手を、王宮は持ちません。ですから、急かしませんでした。あなたが、この国に居たいと思う。それを待つほかに、手が無かったのです」
ヒルデは、写しの端に指を置いた。
「兄の詫びは、兄の本心です。それは、疑わないでください。ただ、家の名を戻したのも、誓わせぬと書いたのも、詫びだけで書いたのではありません。それを初雪の前に申し上げれば、あなたのお答えが曲がると思いました」
春から、分からずにいたことだ。王宮は、なぜ急かさないのか。なぜ、期限を書かないのか。分からないものの上では、答えの置き場が決まらない。
腹は、立たなかった。訳が二つあっても、王が腰から頭を下げたことは変わらない。
「曲がらないと思います」
エルドは言った。
「南の蔵で読んでから、ふた月近く考えました。訳が分かって、考えやすくなっただけです」
「縁組の話は、取り下げます」
ヒルデは、同じ声で続けた。
「あれは、あなたを王家の内に留めておくための話でした。そのために、十七の娘を使うところでした」
「その方には」
「わたしから話します。承知する、と申した娘です。承知を解くのも、わたしの務めです」
得も損も隠さない人が、今夜は、自分の損を並べている。
「夏に、殿下の声が止まるのを見ました」
エルドは言った。
「申し上げるのが、遅くなりました」
ヒルデの目元が、ほんの少し動いた。
「エルド」
ユリアンだった。写しから、顔を上げている。
「この紋は、断てるのですか」
「ユリアン。頼んではなりません」
「頼んでいません。訊いたのです」
真面目な顔だった。道のあいだの稽古は、こういう所で効くらしい。
「断てます」
エルドは答えた。
「わたしは、頼みません」
ヒルデが言った。
「値は、南の王女殿下の文で読みました。それに、この紋は、兄にもユリアンにもあります。わたしの一つを断っても、渡さぬ、は王の家に残ります」
この三日、黒い館の兵の紋が薄れていくのを見た。畳める役所のある紋は、ああして消える。この人の手の輪は、王の家の血に付いている。畳めるものが、どこにも無い。
「断ちません。いまは」
言ってから、訳を置いた。
「頼まれていません。それに」
息を、一つ入れた。
「殿下は、渡せない、と言われました。渡さない、とは、まだ一度も言われていません」
「……言えば、同じことです」
「同じでは、ありません。渡せないのは、誓いです。渡さないのは、殿下です。殿下がどちらなのかを、私は、まだ伺っていません」
長い間があった。燭台の火が、ヒルデの右の手の甲の古い紋を照らしている。
「いまは、を」
声は、揺れなかった。
「覚えておきます」
鍵が回って、箱が閉じた。ヒルデは、それを自分の腕に抱えて、戸口を出ていった。ユリアンが、空の棚を一度見回してから、あとを追った。
◇
次の朝、黒い門は、もう閉じてあった。合わせ目に白い蝋が垂らしてあって、王家の印が押してある。門の内には、誰もいない。
「あの式官は、きのうの朝、どこへも行かずに座ってたそうだよ」
マグダが、門を見上げて言った。
「詰所の者が、戸の番に立ってる。足が、行き先を失くしたんだ」
「紋が、消えたのですね」
「消えたさ。外すのと、外れるのは、違うよ。あたしは、自分で外した。あれは、これからだ」
それきり、マグダは坂の下へ歩きだした。
丘を下りた男は、王宮が預かった。セシルは、前庭への文を、きのうのうちに出している。
「丘へ戻るのは、北の町に寄ってからにします、と書きました」
セシルは、荷の紐を締め直しながら言った。
「四十三回目は、聞く役を置いて唱えてもらいます。聞く役は、告げに行ける所にいる人でなければ、頼めません。頼みたい方が、北におられます」
門の脇に、石の台が残っていた。教会の紋を刻んだ台だ。綴りを載せる者は、もういない。
坂の上から、ルッツが下りてきた。黒い装いは脱いで、借り物らしい外套を着ている。
「今朝、汲む前に決めた。王宮の門に立つ」
言うだけ言って、坂を上がっていった。
祖母には、文を置いてきた。会いに行くのは、知らせるものができてからにする。答えを出したら、次の文で知らせる、と書いた。小さい袋には、四十枚残っている。今朝までの四つの朝で、八枚出た。北の町に着いた次の朝までの、二十のぶんだ。
川の門には、ユリアンと供の三人が先に来ていた。馬が四頭。
「北の家への使いは、王家の者が行くものだそうです」
門を出ながら、ユリアンは言った。
「二度目も、私です」
渡しの向こうに、道が北へ延びていた。水たまりの氷は、きのうより厚い。二十日先の林の中に、字の無い石がある。




