【第二部 風と鎖】第36話 山へ
エルドは、宿の奥の机で、代官の襟を見ていた。
王都から二十日歩いて、城の下の町に入ったのは、昼を過ぎてからだ。通りの水桶に、氷が浮いていた。粉屋の粉と、鍛冶の炭の匂いがする。吐く息だけが白い。宿の戸口でエーリクが頭を下げて、代官様が奥でお待ちです、と言った。
春には、喉まで立ててあった襟だ。今日は、喉の下で折ってある。黒い官服も、痩せた背の高さも、机の脇に積んだ帳簿の端の揃い方も、前に見たとおりだった。襟だけが違う。折った襟の上に、喉が出ている。何も無い喉だ。
机には、ユリアンも座っている。マグダとセシルは壁際の腰掛けに、レイフは後ろにいる。
「替えの官服が、まだ届きません」
コンラートは、礼を済ませて座り直してから言った。こちらの目がどこにあるのかを、見て取ったらしい。
「宰相府が廃されましたので、この色を着る訳は無くなりました。王宮の色のものは、春になると聞いております。襟だけ、先に折りました」
「喉に、紋があったのですね」
訊いたのは、セシルだった。
「ございました。着任の日に、黒い館で口上を唱えました。それから七年、襟を立てておりました」
「何も、残っていません。……三日でしたか」
「三日目の朝でございます。髭をあたる鏡で、気づきました」
コンラートは、自分の喉に指を当てた。
「訳を知ったのは、十日あとでございます。王宮の早馬が、触れを持って参りました。それまでの十日は、訳も分からぬまま、帳場で口を開けたり閉じたりしておりました」
マグダが、壁際で喉の奥を鳴らした。
「誰もおらぬ帳場で、試したのでございます。山へ、と言えました。その先も、言えました。七年、言えなかった所の先でございます」
コンラートは、帳簿の上から一枚取って、机に置いた。細かい字が、上から下まで同じ太さで並んでいる。
——七年のあいだに、いたさなかったことの一覧。訳。
「春に、帳簿の写しに添えて、王宮へ一枚お出ししました。訳の欄は、書けませんでした。書けるようになりましたので、書きました」
「拝見します」
「いえ。口で、申し上げたいのでございます」
コンラートは、一覧を自分のほうへ向け直した。
「山へ、兵を出さず。訳。宰相府の命による。——北の領は、町まで保て。山へ、兵を上げるな。この命を、口にするな。着任の日に、そう命じられました。三つ目だけが、誓いでございます」
春に、この机で三息のあいだ止まった口が、止まらずに言った。
「命の訳は、聞かされておりません。推し量っては、おりました。町の兵は、北の者でございます。先の辺境伯に仕えた者の、子や甥でございます。従士の里へ兵を上げれば、いつか里へ戻る者の手勢になる。黒い館は、それを嫌ったのでしょう」
低い声は、丁寧なまま続いた。
「誓いが縛ったのは、口だけでございました。賊を討つ権は、代官にございます。命に背いて兵を上げることは、できました。上げなかったのは、私でございます。背けば、私は替えられます。次に来る者が町をどう扱うかは、分かりませんでした。……それは、言い訳でございます。座を賭けなかった、と書いてあります」
一行目の下に、そのとおりの字があった。逆さからでも読める、揃った字だ。
「塚のこと、訊かず。訳。私は、聞いたことは書く者でございます。書けば、宰相府へ上がります。上がれば、塚は暴かれました。ですから、聞かずにおりました」
エルドは、一覧から顔を上げた。
聞かずにおりました、と、春にこの人は言った。知ろうとしなかった人の言葉だと思って、聞いた。違っていた。書かずにいられない人が、書かずに済ますために、聞かなかったのだ。
「北の家の名、町に呼ばせず。訳。呼ぶ者があれば、咎めて書かねばなりません。城の焼け跡、検めず。訳。検めれば、見たものを書かねばなりません。山の村へ、一度も上がらず。訳。命が一つと、いまと同じ訳が一つでございます」
「止まんないね、今度は」
マグダが言った。
「開いたら開いたで、閉じ方を知らない口だ」
「七年ぶんでございますので」
コンラートは、真面目に答えた。行は、まだ十ほど残っている。
「蓄えを持っていかれた年が、二度あります」
後ろで、レイフが言った。
責める調子は、どこにも無い。帳簿に抜けている行を、そのまま言った声だ。
「村の者に、春に聞きました。七年のうちに、二度です」
コンラートは、一覧から目を上げて、レイフを見た。
「……存じませんでした」
声が、一段低くなった。
「存じようと、いたしませんでした。山のことは、聞けば書かねばならぬと、初めから耳を塞いでおりました。塚を庇ったのと同じ手で、賊のことまで塞いだのでございます」
コンラートは、ペンを取った。一覧のいちばん下に、一行足す。細かい字が、ほかの行と同じ太さで並んだ。
——山の村、蓄えを奪われること二度。知らず。
「ファーレン殿。兵を、山へ上げます」
ペンを置いて、コンラートは言った。
「代官の権で、でございます。七年、使わなかった権です。峠が閉じる前は、賊の下りてくる季節だと聞きます。東のご当主の槍が上がっていることは、存じております。それでも、北の領の兵が北の村へ上がらぬ訳は、もうございません」
「私は、まだ継いでいません。兵のことは、代官殿が決めることです」
「はい。私が決めました」
それから、少し間を置いて、足した。
「私も、参ります。春に、伝言を承っておりました。山にも人が住んでいる、と」
◇
次の朝、町を出た。
代官の兵は、十人。みな、町の者だ。マグダとセシルも、ユリアンと供の三人も、歩いてついてくる。馬は置いてきた。村へ上がる道は、じきに人の肩の幅になる。
山道の落ち葉は、凍っていた。踏むと、乾いた音を立てて割れる。日陰には、霜柱が立っている。前を行くレイフの息が、白く流れてくる。
コンラートは、列の中ほどを歩いた。官服の裾を片手でからげて、もう片方の手で枝を払う。息は、すぐに上がった。それでも、休もうとは言わない。沢を渡るたびに、立ち止まって、渡った沢の数を小さな手控えに書いていた。
兵の一人が、レイフの隣に並んだ。髭の濃い、若い男だ。
「ベルントの、甥です」
レイフの足が、少し遅くなった。
「叔父が、よく言っていました。城に、でかい従士が入った。稽古をつけている、と」
「……つけてもらいました」
ベルント。春に、石の前で読んだ名だ。髭の槍の人です、とレイフが言った。その人の甥が、北の兵の装いで、レイフと並んで山を上がっている。
黒い館が嫌ったというのは、たぶん、この並び方だ。
その晩は、杣小屋に泊まった。夜明けに、いつもの言葉を言った。小さい袋は、きのうの朝で空になっている。今朝のぶんから、四冊目の端に付けることにした。払うと言ったものは、あとでも払う。
次の日の昼前に、木が切れた。
段になった畑は、刈り株だけになっている。その上に、石を載せた屋根が固まっていた。
「九つです」
レイフが言った。板の絵で、何度も見た数だ。今日は、本物の屋根を見ている。
畑のいちばん下に、槍が立っていた。革の胴着の男たちが、道の両側に並んでいる。その奥から、鉄色の髪の人が歩いてきた。仏頂面は、夏に王都で別れたときと、少しも変わらない。
「戻ったか」
「戻りました。王妹殿下に頭を下げていただかずに、済みました」
「初雪は、まだだ。間に合ったな。東は、倅に任せてきた」
ヴァルドは、エルドの後ろを見た。代官の兵が十人、息を白くして並んでいる。その先頭に、裾をからげたコンラートがいた。
「代官。山で顔を見るのは、初めてだな」
「はい。山では、初めてでございます」
「峠の向こうの三十は、槍の数を見て散った。銀は、冬までもたなんだらしい。おぬしの兵には、見張りを代わってもらう。わしの槍は、ひと秋、婆の鍋で肥えた」
いちばん上の家の戸口に、杖が一本立っていた。
ベルタは、下りてこない。コンラートは、畑の段を一つずつ上がっていった。上がりきって、息を整えてから、頭を下げた。深くて、遅い礼だ。
「北の領の代官を務めております、コンラートと申します。七年、一度も参りませんでした」
「知ってるよ。来なかったんだから」
ベルタは、杖にもたれたまま言った。
「……山にも人が住んでいる、と承りました」
「住んでるよ。見りゃ分かるだろ」
ベルタは、コンラートを上から下まで見た。
「痩せてるね。代官ってのは、食えない仕事かい」
「いえ。扶持は、王宮から——」
「入りな。話は、食ってからだ」
コンラートは、戸口で一度こちらを振り返った。助けを求める目だった。エルドは、うなずいた。この村で、あの人の言うことに逆らえた者を、まだ見たことが無い。
「代官が、婆さまに捕まったよ」
マグダが、畑の縁で言った。
「七年ぶんは、食わされるね」
◇
夜、寄り合いの小屋に火が入った。
鍋は、山羊の煮込みだ。辛い根は、入っていない。村の者と、東の槍と、町の兵が、同じ鍋から椀を取っている。隅のほうに、男が三人いた。
年かさの男が、火の脇にしゃがんでいる。その隣に、見張りから下りてきたばかりらしい男。いちばん若いのは、椀を持ったまま立ち上がった。
顔は、三つとも知っている。名だけが、出てこない。
エルドは、三人の前まで歩いた。
「春に、ここで、あなた方に名を訊きました」
「はい。書いていただきました」
年かさの男が答えた。
「お名前を、伺えますか」
三人が、顔を見合わせた。火の音だけが、しばらく続いた。
「……二度目です、若様」
「はい。二度目です。南で、誓いを一つ断ちました。断つと、覚えていることを一つ持っていかれます。持っていかれたのが、あなた方の名でした。顔は、あります。頁にも、あります。頁から覚え直すより、もう一度、あなた方の声で聞きたいのです」
年かさの男は、少しのあいだ黙っていた。それから、言った。
「クヌートです。こっちがヨープ、若いのがラルス」
「クヌート。ヨープ。ラルス」
一人ずつ、顔を見て言った。三つの名が、三つの顔に、もう一度結ばれた。四冊目は、開かなかった。二度目は、頭に入れる。
「三度目が要るときは、また言います」
ラルスが言った。
「……お願いします」
火の向こうで、コンラートが、椀を置いて、あの一覧を広げていた。ペンを持った手が、少しのあいだ動かずにいる。
「何を、書くのですか」
「山の村へ、上がる。……と、書こうといたしました」
コンラートは、一覧を見たまま言った。
「これは、いたさなかったことの一覧でございます。いたしましたことは、帳簿に書きます。ところが、山のことを書く帳簿を、私は一冊も持っておりません。七年の帳簿は、町までの帳簿でございます」
北の領は、町まで保て。命のとおりに、帳簿も町で終わっている。山では、蓄えが二度持っていかれた。それを書く頁は、この領のどこにも用意されていなかった。
継ぐかどうかを、春から考えてきた。石の前の名。帳簿の七年。南でした約束。考える種は、とうにそろっている。
「道で、沢の数を書いておられました」
「あれは、道の覚えでございます」
「それを、山の帳簿の一冊目にしてください。初めの行は、もう書いてあります。沢を二つ越える、と」
黒い館の綴りにも、同じ二つの沢が書いてあった。あれは、人を探すための頁だ。
言ってから、気づいた。継ぐとも継がぬとも答えていない者が、北の代官に、帳簿を一冊起こさせようとしている。
コンラートは、懐から出した小さな手控えと、エルドの顔を、順に見た。何も訊かずに、炭を取る。沢の数の下に、細かい字が一行並んだ。
——山の村へ、兵を上げた。代官、同行す。
「答えは、出たのか」
ヴァルドだった。火の脇で、仏頂面のまま、椀を持っている。
「出ました。明日、下ります。石の前で、申し上げます」
「……そうか」
ヴァルドは、それきり訊かなかった。
戸口の脇で、レイフが、外へ顔を向けていた。戸の隙間から、冷えた風が入ってくる。
「明日か、あさってです」
レイフは言った。
「雪の匂いがします」
峠から下りてくる風は、春にも同じ匂いがした。あのときは、消えていく雪の匂いだった。今夜のは、これから来るほうだ。




